夏になっても神戸からの報告(95/6/2〜7/24)


95/6/2
 あちこちに空き地が目立つ。新しく建て替えるめどがあるのかどうかわからぬが、瓦礫は少しずつ撤去されつつある。増えた空き地の様子を、永久歯のはえてくるのを待つ子供の口にたとえるのは、ちょっと無理があり、どうしたって老人の口の中を思ってしまう。欠落した部分を埋めるのは入れ歯で、見る側も住む側も、なれるには随分時間がかかるだろう。
 昨日から阪急神戸線、岡本御影間が開通、十二日からは全線復旧、さんざん悪口を言ってきた阪急もここにきて、かなり頑張った。少しずつ街の動脈はもとにもどりつつあるが、わが家の動脈は夜、突如、漏水をはじめた。留守中に水道メーターがまわっていると、検針に来た人からの話があり、検査を頼んでいたのだが、業者もいそがしいらしく、なかなか来てもらえずにいた。昨夜、寝る前、台所付近で物音がすると思っていたら、夜中に階下にもれはじめてしまった。
 朝になってから、あちこち電話をしてみたが「昨日、はじめて水が出たところもあるのに、無理ですよ」と断られ、ようやく引き受けてくれた五軒目の業者によると、地震の影響で接合部分がゆるんでいたのが、先日、割れたタイルを落とすため激しい振動を起こさせたので、それらが複合して水漏れを起こしたのではないかということだった。
 その場でなおしてもらえるのかと思っていたら、先に予定の入っていた次の現場に行くまで時間がない、明日、時間ができたらまた来ますとのこと。今夜はおかげで止水栓を開くことはできず、トイレのために隣からバケツリレー。震災直後の水なし状態を思い出した。直後には大丈夫だと思っていたことが、時間がたってから、様々な後遺症の形で現れてくる。少々のことが起こっても、仮設に入ることを思えばと、ついそのような納得の仕方をしようとしてしまう。

95/6/3
 朝から激しい雨。放課後、脳出血の手術を来週に控えた友人を見舞った。予想以上に気丈で、元気にしていたのに安心した。行きはJRで西宮まで出て、友人が住んでいた家が全壊したのはこのあたりと意識しているせいか、空から地面にいたるまでの空間が異様に広く感じられる。
 帰りは阪神を利用する。特急が途中御影で止まったので、三宮行きはどこから出ますかと駅員に尋ねたところ、改札を出てバスを利用して下さいと言われ、まだ阪神が完全復旧していないのにようやく気がつくという、自分自身の間抜けさかげんに愕然とした。阪急があとわずかで完全に戻るところまで来ていることもあり、つい阪神も大丈夫だと思ってしまったのだ。バスを乗り継ぎ、家の近所まで戻ってくると、朝、行きがけには建っていた家が取り壊されていて、ふと、どんな家があったか考えようとしても、ついさっきまであった家を思い出すことができず、またもや愕然。
 市会、県会議員選挙の告示があり、選挙運動の車が通り過ぎていく。中から帽子をかぶり、手袋をしたアルバイトの女の子が手を振りながら通り過ぎていくのを見て、愕然とする値打ちもないが、もののついでに愕然としてやることにした。名前を連呼すること以外に、ないのか。入居を希望するすべての被災者に仮設住宅を、仮設住宅の住環境の改善を、大量の公営住宅を中心とする住宅計画の倍増を、どの政党の主張も変わりなく、青島東京都知事のことでクローズアップされている公約というものも、なんの具体性もなく、公約実行をせまる値打ちすらなく、行政の硬直を嘆いてきた住民が、今度は立法の無能に失望する番だ。
他の候補と違う公約や内容を演説の中身に盛り込めない想像力(創造力)のなさに、あきれかえってしまう。アーティスト氏がおもしろいことを言っていた。すべての被災者に五千万円配る。ひとりで五千万円の家を建てるのも自由、十人で五億のビルを建てるのも自由、百人で五十億の事業を興すのも自由、神戸から逃げ出して、どこか別の場所で新しい生活をはじめるのも自由というものだ。彼の乱暴に聞こえるかもしれない提言には耳を傾ける価値が十分あると思うのは私だけであろうか。  家に戻ると、水道の工事が無事に終わったらしく、水が出るようになっていた。
 夜、まだ雨が降り続いている。

95/6/5
 パワーショベルで解体をはじめた家屋、はぎ取られた壁の向こう側から、アイドル歌手のポスターが貼られた状態で出てきた。先に更地になった隣りに花が供えられている。さらに隣りの解体を待つ、一階部分が崩れたマンション、外壁のあちこちに炎であぶられた黒いあとが残っていて、住む人のすでにいないはずの部屋にレースのカーテンがあり、ベランダのプランターにピンクの花が咲き続けている。
 御影公会堂近くの川沿いの公園、テント村がある。運動会で使うタープ式の大型テントの下に家財をまとめて置き、ドーム式の小型のテントが点在する。どのくらいの人たちがそこにいるのかわからぬが、あの日から五ヶ月近くになる。
 五月の連休からさかのぼること半年前に、オートキャンプ場を予約していた。外に出かけることがもともと嫌いであったが、病気をした時に、今を楽しまなければならないということを痛切に思った。二年前の夏休み、なにごともなければ、ガンで入院した日には知人の一家と兵庫県中部で、手術日には兄の一家と琵琶湖でキャンプをしているはずだった。まだ万全とはいいがたいが、できるだけ家族の時間も大切にしようという気持ちがある。そしてあの一月十七日を迎え、水もなくガスもない日々を過ごし、キャンプ用のバーナーで調理をし、大型のアイスボックスをタンクがわりに、毎朝水をくみに行く生活をしている時には、アウトドアーはたくさんだと感じ、連休のオートキャンプは中止するつもりであった。
 しかし、三月になり、水が出て、ガスが出て、風呂に入れるようになり、普通に近い生活をふた月ほども続けているうちに連休を迎え、キャンプに出かけて行ったわけである。大雨に降られ、ドーム式のテントの中で二晩過ごしたことを、川沿いの避難者のテント村を見て思いだし、大変だろうなと類推しているわけで、おそらくはとんでもなく見当違いな尺度で事態の認識をしているに違いない。かといって、新たなあるべき尺度を獲得しようとは思わないし、またそんなことは不可能だ。

95/68
 図書館関係の会議で、震災に関する調査の結果を聞いた。「壊滅的」「相当程度」の被害を合わせると、被災したのは神戸市内の国公私立の学校図書館のうち全市で平均約三十パーセント。東灘区で七十パーセント、長田区で七十五パーセント。再開のめどが全く立たない図書館も数多くある。
 実感として味わっている状況と、統計上の数字には大きな開きがあるように思われる。今後自治体で防災計画を立てる上で、様々な統計資料が用いられるのであろうが、数字が必ずしも実態を表していないことを肝に銘じておく必要がある。壊滅的だの相当程度だのと言ったところで、なにをさして壊滅的と呼ぶのか、どこまでが壊滅的なのか、記入する側に差があるので、統計上どの程度の意味を持つのか疑問である。
 私の勤務先でも、床上に落下した書籍の数はおよそ六万冊の蔵書の内、二万四、五千冊。倒れた、または倒れかけた書架は三割(多くのものは八連ずつつなぎあわせ、床に固定してあったために、倒れはしなかったが、縦揺れで持ち上がり、下に本のはさまっているものもあった)程度。全く使いものにならなくなった書架は一割程度。木製の文庫棚で、まっぷたつに折れたものもあったが、木製の場合は修復して使用できるので、損傷からは省いた。
 火事で水をかぶったり、冬場であったため、避難者が外で暖をとるための焚付けに使われたりしたというような話を聞いていたので、相当程度というものよりも被害程度の低い、一部に被害というようなアンケートの答え方をしたのではなかったか。司書、係りの教員、係以外の教員、生徒、のべにするとかなりの数を動員し、復旧するのに二ヶ月ほどかかったのだが、それでも予想よりもはるかに早く片づいたと思ったものである。
 それにしても生徒のいる時間帯であったらどうなっていたか、あらためて考えてみるとぞっとする。火を消して、机の下にもぐれ式に避難方法が、全く意味がなかったのを私達が一番よくわかっているはずである。書架同志の固定、もし倒れた場合、中に閉じこめられた生徒を救い出すための、てこにできるバールのようなものの設置や、書架と書架の間に本を開いて乗せるための机を配置し、いざというときには倒れてきた書架をくい止めるか、衝撃を少しでもやわらげる働きを、机にになわせる必要があるかもしれない。

95/6/16
 阪急が全線開通し、来週のはじめから、ようやく始業時間が震災前と同じになる。 ちょうど五ヶ月ぶりのことである。先日の地方選挙、運動期間中に水道筋商店街を歩くと、あちこちに取り壊された家のあとがあり、県会議員、市会議員の候補者を全部合わせると、私の住む選挙区内に何人の候補者がいたのか知らないが、その空白に必ずと言っても良いくらい、選挙事務所があった。それぞれの事務所に使われている空白は、かつて店が建っていた場所で、地震がなければどこに選挙事務所を設けていたのか。選挙の時をのぞけば議員の存在など感じたこともないが、国会議員がある種の人たちに身近であるように、商店街にとっては地方議員が身近な存在なのだろう。震災の復興にしろ何にしろ、地方議員に何かを付託するということを意識したことがないというのはどうしたわけなのか。
 今私自身何が一番困るかと言えば、消費で、つまり必要なものを手に入れられる場所が限られているのだ。ということは、見方を変えると、消費をまかなうことで生計を立てている人たちが、日常を回復させられていないことになる。
 一方でいまだテント生活の人がいて、仮設にいる老人の中に、何人もの孤独な死があり、またその一方で震災直後には消費のむなしさを感じたとしゃべっておきながら、今、平気で消費の不便をなげいているわけである。道を行き交う車がお互いに譲り合ったのは、震災後の一ヶ月ほどで、復興作業がはじまってからは、ノルマで働く車が我が物顔に道を走り、ただでさえ渋滞している中、危険きわまりない。
 ガンになってから、死んだ方がましな人生と、死ぬよりはましな人生があって、自分はどちらを生きているのだろうと思うことがよくある。発病した直後の痛みのすさまじさは、死んだ方がましだと思いたくなるほどの痛みで、この痛みから抜け出ることができるのなら、死ぬのもよいかもしれないなどと思ったのだが、ガンを告知されてからあとは、死ぬよりはましだと、手術に至る検査にも手術の痛みにも必死になって耐えた。少なくとも私自身について言えば、いくら達観したようなことを言ってみたところで、「死にたい」は「生きたい」の裏返しに過ぎなかった。地震で家族を失い、孤独の中で死の不安と向き合っている仮設住宅の老人たちも、死ぬよりはましと死んだ方がましの間を、ゆらゆらと揺れ動いているに違いない。
 今朝も余震があった。震度三。

95/6/24
 先日、寝室で横になっているときに震度三の地震があった。一月十七日と同じ場所にいたということで、余震は繰り返しあるはずなのに、妙にどきどきした。二年前にガンを発病したのが七月で、ふだんは忘れているのに、季節があの時のことを思い出させようとする。医者に聞くと、記念日症候群と呼ぶそうだ。地震も場所とか時間とか、様々な状況があの日、あの瞬間の記憶を呼び覚ます。
 震災で重傷を負って、しばらく登校していた現在はリハビリ中の生徒が、また登校できなくなっている。新聞部の生徒が彼女にインタビューしたものを(神戸からの報告にも書いた)、学校で準備しているWWWに掲載するため、本人の了承を得て、アメリカ人教師に英語になおしてもらい、さっきまでそれをタイプしていたのだが、あらためて読みなおして、被災し、重傷を負った状況から立ち直ろうとしているその勇気に感動した。
 自分が経験した苦しい状況を語るというのは、絶望から立ち上がる第一歩ではあっても、そのまま立ち上がって、簡単に歩き始められるわけではない。立ち上がりかけたところから倒れ、また立ち上がろうとし、さらにまた倒れ、それからまたまた立ち上がろうとし、やっとよろよろと稚拙な歩みをはじめるのだろう。
 瀕死の状況というのか、抽象的ではなく、誰のものでもない、リアルな自分自身の「死」、山の向こうにある死ではなく、目の前の地面がくずれ、がけっぷちからのぞき込むような「死」を突きつけられた状況から立ち直るのが容易でないのは、私にもよくわかる。免疫力の強化の薬を飲むだけではなく、睡眠薬や精神安定剤に頼り、気功の教室に通い、瞑想を繰り返すなど、ありとあらゆることを試してみた。
 今、私の身近で震災から奇跡的に生還したのは彼女一人であるが、阪神間には数え切れないほどの人が、同じ状況に苦しんでいるに違いない。私自身、死をのぞいてしまったあの時の気持ちを思い出しつつ、そのことを彼女に話してみたい誘惑にかられないでもない。
 病気の時には、実に多くの人から、実は私もそうでしたという話を聞かされたが、術後五年で元通りということが頭にあり、相手が術後一年とか二年とか経過したのを知ると、それだけであせりを感じてしまうような、せっぱ詰まった気持ちに陥っていたのだ。それだけに安易に声をかけることもできず、出席簿に彼女の欠席の印を黙ってつけ続けなければならないつらさがある。そして、増え続ける欠席日数が彼女の卒業をはばむことになるかもしれない。
 なんでもないと思っていた私の住む町内でもビニールシートはもちろんまだあちこちに残っているが、実に多くの家が取り壊され、更地になり、早いところでは新築の工事がはじまっている。更地になったために、それまで隠れていたその奥の家の壁が無惨にくずれかけたままであったのがむき出しになっていたり、いつになれば神戸がもとの姿を取り戻すのだろうか。
 私の母校から同窓会のニュースが届き、地震では無事だった敷地内で、地震で地盤がゆるんでいたのが、五月の豪雨の影響で崖崩れを起こし、その修復に一億五千万円かかるとの報告があった。昭和四十二年の阪神大水害の時には在学していて、授業をカットし、水害の後始末の作業をしたのを思い出した。くずれた家の修復の仕方を見ていると、完全に新しいものを立て替えられる場合はよいが、ブロック塀が倒れたところにまたブロックを積み上げていたり、壁を一枚はいだところに板を貼り付けたりしているのを見ると、いつまた同じことが怒るとも限らず、不安になってくる。

95/7/5
 昭和十三年の阪神大水害は七月五日に発生し(それまで三日間の総雨量は神戸市で四百五十ミリを越えていた)、芦屋川、住吉川、石屋川、都賀川、青谷川、生田川などが氾濫、死者は六百名を越え、昭和になって以降(九十五年一月十七日までは)、神戸が経験した最悪の自然災害だった。昭和四十二年七月豪雨と命名された、二回目の阪神大水害は、西日本中心に死者 三百六十五、家屋全壊二千二百六十六とあり、やはり七月七日から十日まで降り続いた。
その時、私は中学生で、一回目の阪神大水害のおりに氾濫した青谷川の近くに住んでいて、その時もまた水があふれ、人を殺し、車や倒壊した家屋からの冷蔵庫 などの家財を押し流していった。私は父や兄と、神戸多い斜面に家があるため、 向かいの家に崩れていくのをおそれ、合羽を着てスコップで溝を掘り、なんとか たまった水を分散して流そうと必死になっていた。
 昭和十三年と四十二年の被害の差は、六甲山にほどこした砂防ダムや、護岸工事をはじめとする防災施設の差が大きいに違いない。そして昭和四十二年にもまた、大がかりな工事をあちこちにしたはずで、警報が出てなおも降り続く雨の中、山は持ちこたえているのだろうが、六甲山に水をためておく自然の仕組みの方は、今度の地震でかなり損傷を受けているに違いない。
 芦屋川にしても住吉川にしても(住吉川上流のある地域は地震以来、地滑りの危険で、避難勧告が解除されないままである)すべて地震の被害の大きかった辺りで、石屋川沿いにはいまだに多くのテント村があり、都賀川下流域 は火災よりも地震そのもので多くの家屋が倒壊したはずだ。ふだんは川とよぶのさえはばかられるような水量の少ない貧弱な川であっても、六甲山を控えているだけに、雨がふるたび、恐ろしい被害の記憶をよみがえらせてくる。私の家の辺りも山際で、近所の人との最近の会話は、四十二年の水害の時にここらがどうであったっかという情報の交換である。
 昭和十三(一九三八)年と四十二(一九六七)年の間が二十九年、そして今年が一九九五年で二十八年、昭和十三年とその前、さらにその前がいつであったのかわからないから、ちょっと安易なのだが、不気味な周期だとつい考えてしまう。大雨洪水警報が二日も続くと、本当に恐ろしい。

95/7/18
 あの日は赤く不気味な満月だった。学校の宿題で新聞から月例を切り抜いている三女によると、地震から半年後の七月十七日の月は月齢十九・二であったそうだ。三女は震災の日、長い時間、飼い犬と一緒に震えながらテーブルの下に隠れ、なかなか出てこなかった。
 どちらかといえば引っ込み思案で友達の少ない三女の、数少ない仲良しグループのうちの二人が、夏休みに引っ越していく。今度は小さいけど、わたしの部屋があるのよと、先日遊びに来ていた明石に転居するというその友達が屈託なく言っていた。彼女たちは震災以来、わが家から数分のところにある公立中学でずっと暮らしていた。その友達と夏休みの一日、一緒にプールへ行きたいがついていってもらえないかと、ものをねだることの少ない三女が家内に頼んでいた。明日がクラスでのお別れ会だそうである。 運動場が地震でくずれ、半分使えなくなっていて、体育の時間にほかにできる種目もなく、一学期の間、ナガナワ(長い縄跳び)ばかりをして、入れ替わり中に入ってくぐることを、連続千五回成功させたお祝いを兼ね、担任の先生がパエリヤをごちそうしてくださるという。
 震災の後、行方がわからなくなっていた卒業生から葉書をもらった。ソフトボール部の監督をしていたとき、県大会の準決勝まで勝ち残った時の一番バッターで、地震当日、芦屋に住んでいた。卒業してからずっと会っていなかったのが、昨年の暮れ、私の病気見舞いを兼ねて、三人のチームメートと自宅を訪ねてくれた。それからほどなくしてあの地震。家が全壊し、着の身着のまま逃げ出したという噂だけを聞いて連絡を取れずにいた。その彼女が石切に仮住まいをして、来年三月に完成するマンションを西宮で手に入れ、新しい生活の目処がついたとのこと。
 石切には有名な神社があり、できものをとってくれる効能がある。私が入院しているとき、家内の両親と三人の子供たちがお百度を踏みに行ってくれた。家内の母親が、もしよければと、ほんの気持ちだけなんだけどと、気を使った言葉をいっぱいつけ加えて、お守りを手渡してくれた。夏の暑い盛りに、ひたすら私の回復を祈り、歩いてくれた幼い娘の姿を想像すると、そのお守りを邪険に扱うことができず、入院している間ずっと、手術義を着ているときをのぞいて、パジャマの胸ポケットに入れておいた。
 お百度というのは、二十数メートル離れて立つ石と石の間をひとまわりする度に、百円で買ったお百度紐を一本ずつ折って回数を確認していくそうだ。みんなで一緒にまわっていたから、同じ回数であるはずなのに、どこでどう間違えたのか、三女の分だけ十本余ってしまったという。単調な動作の繰り返しに、大人でもつい折るのを忘れたり、余分に折ってしまったりして、一本か二本、数の狂いが出てくるものであるらしい。
 それにしても三女の手に残った数が多すぎるので「もういいわよ」と汗まみれになり、疲れて青ざめ、うつろな顔をしている娘に家内が言ったが、娘は「いや、さいごまで歩く」と承知をせず、残りの十本分をひとりで歩き通したという。その話を病室で聞き、末の娘のひ弱できゃしゃな体つきを考えると涙が出そうになった。その三女の友達が、この夏、転校して行ってしまう。
 神戸元気村のボランティアの人たちが、仮設に住む老人にベルを配り、ベルが鳴るとコンピュータで電話番号を確認し、老人からったアンケートで老人の趣味や体調などを確認してから電話をしている様子をテレビで見て、きめの細かい活動に感動した。

95/7/24
 昨日、日曜日だけ通行可能な国道二号線を通り、神戸市東灘区森南地区を車で走った。前につんのめりかけていたマンションは解体され、そこら中にあった家は軒並みに撤去、建物があると思ってよく見ると、工事現場で見かけるプレハブの事務所みたいな建物、それもこれからはじまる工事のためのものではなく、住居のかわり、あるいは店舗のかわりがほとんど。
 プレハブでも山小屋風、あるいは嵐山や北野あたりで見かけるおみやげ物屋さん風のちょっとみためのよい建物もまじっているが、ひと部屋分くらいの大きさで、たいていは仮店舗になっている。その中の一軒である整体師のところへ週に一度通っている。手術の後、腰痛がひどいのだ。そこに行ったついでにカットをしてもらいに入った店では、震災時、元町で営業していたが、一室を借りていたビルの撤去に五年、建て替えに十年かかると言われ、あきらめて震災の被害を受けなかったビルを求めて、転居してきたという。撤去に五年というのは震災直後の見通しで、今ではその見通しも半減していると思うが、町がある程度の機能を回復するまで、三宮などの中心部はともかく、周辺部は本当に五年十年かかるかもしれない。
 整体をしてもらい、髪を整えてもらったあと、かつて森市場のあった辺り、芦屋川手前のサティ東神戸店というスーパーに寄って驚いてしまった。スロープ状の通路をあがっていく形式の屋内駐車場になっているのだが、「二階は仮設住居になっています。徐行して下さい」の表示、まさかと思いつつ、車をすすめていくと、ただでさえ狭い通路を仕切り、テレビのセットを裏側から眺めるような板張りの住居が両側にびっしりと並んで建っている。遠隔地に建てた仮設に入る人は少なく、みんな少しでも生活拠点に近い場所に仮設住居を求めるという話を聞いていたが、こういう場所に建ててなお不足。
 サティの地下にはスーパーと、かつての森市場にあった店とが同居していて(どうやら駐車場の仮設は全滅した商店街の人たちの住まいとなっているらしい)、両方並んであればつい市場に行く。豆腐とか厚あげとか、なぜだか知らぬが毎日食っても食いあきることはなく、どこにいっても魚屋とうまい豆腐屋はないかと探してしまう。当店は天然にがりしか使用しておりませんの看板を発見し、やったと思い、近づいていくと、都合により、当分の間、営業を中止させていただきますの札があり、がっかり。もしかしたら、豆腐を作っていたご主人になにごとかあったのではないかと思うと、気が重くなってしまう。
 公立中学の体育館に避難していて、今度引っ越していく三女の友達、プールに行く約束をしていた昨日、彼女の家の都合で約束が果たせなくなってしまった。このまま会えずに引っ越していってしまうのかと思うと、三女がかわいそうで、どうにかして連絡とれないのかと聞いてみたが、学校のどこにいるかもわからず、偶然、道で出合う以外に方法はないという。避難所にはいろいろと難しいことがあって、迷惑がかかるから、学校へは行くなと先生から言われているらしい。
 私が三女を連れて行ってやれば簡単なことなのだろうが、最初聞いていた引っ越し先が、いかなる事情によるのか、かつて私達家族が住んでいた場所に変更になったらしく、向こうにまだ住んでいるかつての同級生に連絡して、その子とお友達になってもらい、二人一緒に遊びにきてもらうと言っている。それもまた、人との別れに際しての子供なりの解決のしかたかもしれないと、成りゆきにまかせておくことにする。


台風から紅葉の季節になりますが神戸からの報告

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