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台風から紅葉の季節になりますが神戸からの報告
(95/8/6〜10/30)


95/8/6
 広島の原爆記念日。朝から平和公園での式典の模様が、どのテレビでも放映されている。どのチャンネルを変えても、総理大臣が黙祷を捧げている。子供たちが平和の誓いを述べている。千羽鶴がかざられている。エノラゲイ号が飛んでいる。キノコ雲があがっている。キノコ雲という記号に置き換えることで、原爆の持つリアリティをすり替えてしまっている。
 一月十七日の震災と、その破壊のすさまじさを戦争にたとえることを大勢の人がしてきたが、このふたつが同じであるわけはない。戦争による破壊、自然破壊、価格破壊、破壊という言葉を何度使われ、何度聞かされようとも、リアリティがあったためしなどない。豊富な情報を与えられているようであるが、実は量的に豊富なだけで、質とか種類の面では貧困そのものの情報でしかなかったことを、今さらのように感じている。
 地震後、しばらくして登場した地震学者と呼ばれる人の意見が、客観的で科学的なものであったとしても、また大きな地震が起こるのではないかという不安を現地にいるものに与える以上の利益をなにかもたらしたであろうか。「敵」を知ることが、不安を解消することだと言うのは、不安を抱いている当事者でないものの意見で、例えばガンは告知すべきである、告知によって残された生活のクオリティを向上させることができると十把一絡げにいうが、告知によって、免疫力を低下させ、死期を早めさせることだってあるだろう。告知後のケアをする準備のない医療機関が、横並びで告知をするなどもってのほか。告知する側と告知される側の気質も問題にしなければならない。
 今度の震災で「心の傷」ということが大きく取り上げられ、それに取り組むボランティアの力も大変大きなものであった。ロサンゼルス地震における精神科医の活動をテレビで見て、私達も精神的ショックを受けた生徒のケアに取り組まなければならぬと、最初の登校日に作文を書かせることをした。私自身、病気のあと、病気について恐怖や不安など、あるがままの感情を文章にしてみることで少しずつ精神的に立ち直ってきた経験があったので、その時は正しいことだと確信を持っていた。しかし、書かせただけで、それ以上のことは何もできなかった。
 その後読んだ、野田正彰氏ら専門医の記述には、少数のグループに分けて、作文を題材に話し合わせることが大切だとの指摘があった。何をしたらよいのか、何をしてはいけないのかと言うことがよくわかっていなかったのだ。緊急時において、とにかく、やるだけのことはしました、と私達が言う中身を検証してみると、こういう曖昧で中途半端なものも数多く含まれている。
 はっきりとしないものはやらない方がよかったのか、効果を云々する前に思いついたことはなんでもやってみるという姿勢が緊急時において正しかったのか、まだ私は判断を下すことができない。
電話の子供なんでも相談室ではないけれども、今回の震災の経験をデータベース化しておいて、どこかで緊急時が起こった場合、これこれのことに対して、どのように処置をすればよいでしょうか、と質問すると、それはね、とやさしく答えてくれるシステムも構築しておく必要があるかもしれない。死傷者の名前、生活情報をどうやって与えるかということについては、あちこちで述べられているから、今後、うまくシステム化されていくのだろう。ケアの問題についても、どんどん活字化されるのであろうが、リアリティのない時にいくら読んでも、役に立たないのではないか。
 AMDAの人たちのように、現地に駆けつけてくれる医師団以外にも、遠隔地にいて問診に応じる医師団(おもに精神科的領域のことかもしれない)がいても、よいような気がする。パソコン通信上に、生活情報以外にもきめの細かいテーマを持ったフォーラムを設定し、それこそボランティアの医師団がモデレータをするような形のものができればよいのではないか。質問する側が匿名を望むなら、匿名にすることができるようにすることも必要であろう。CTの映像を送り、遠隔地で診断をするということだけが、マルチメディアではないだろう。双方向性を生かすならぜひ考えてもらいたい。

95/8/16
 十日、震災以来、はじめて妻の実家のある淡路に行った。一月十七日、激しい揺れの後、道に止めた近所の人の車から、ボリュームをいっぱいにあげたラジオから、震源地が淡路であるという内容の放送が聞こえてきて、これはえらいことだ、神戸でこの揺れなら淡路は沈んだのではないかと冗談抜きで思っていたところに電話が鳴って、妻の父親から無事だと連絡があった。電話が通じたのはその一瞬だけ、あとはこちらからどこにかけても通じなかった。
 淡路に出発したのはお盆の休暇のはじまる十日だった。通行規制が緩くなり、昼間走れるようになった二号線を通って須磨港まで向かったが、かつて六車線あったあたりも、両側あわせて二車線しか使えない区間がしばらく続き、阪神高速も須磨までのほとんどすべての区間が工事中であった。例年なら予約をしなければ五、六時間待ちを覚悟しなければいけないフェリーであるが、駐車場には車の影はなく、船にも五台しか乗っていなかった。犬を連れているので、ふだんはずっと車の中にいるのだが、ちょっとくらいいいだろうと甲板に上がってみると、私の家族をのぞくと二十人くらいの大人がいるだけで、子供を連れた家族の姿はなかった。
 十三日、この震災を通じてできたメーリングリストのオフラインミーティングに参加するために一度神戸に戻り、翌日、今度は明石から播但汽船に乗って淡路に向かった。神戸市内を車で移動するのを避けているためか、結構混雑していた。例年の六割程度に落ち込んだ淡路の観光客は、岩屋からの便と、津名港につく大阪からのフェリーをおもに利用しているらしい。四国からのトラックも神戸市内を避けて、津名から乗り込んでいるという。岩屋から洲本に向かう国道の、旧道とバイパスの出合うところでガソリンスタンドをしている親類の話によると、本来ならかきいれどきのこの時期の売上としては例年の五割程度とのこと。
 岩屋から洲本に向かう国道沿いには、屋根にシートをかけた家がいくつかあるが、そんなにひどい被害の痕跡はないが、バスに乗り合わせた地元の人の話によると、震源地の北淡町と志筑のあたりにはかなり大きな被害があったらしく、津名の埋め立て地にはたくさんの仮設住宅があった。Uターンラッシュがラジオのニュースで伝えられている中を戻ってきたがやはりフェリーは半分くらいの乗船率で、船を運航すればするほど赤字になるという感じかもしれない。
 神戸市内の、辺り一面、焼け野原、更地だらけの中に仮設店舗を作って、新しく生活をはじめようとしている人たちも、品物を売ろうにも顧客の数そのものが減ってしまって、どうにもならない状況であるらしい。今、出産をひかえて入院している、その地域に住む知人の話のよれば、子供の通う学校のクラス数、四月時点で三クラスあったものが、二学期から一学級減になるらしい。
 暑中見舞いのなかに、震災のために家が全壊、転居通知を兼ねたものが三通ばかりまじっていた。まもなく避難所が閉鎖されるが、新しい生活をはじめられる人は、とっくに苦しいながらも新しい生活をはじめている。まだ避難所にしがみついている人を、甘えているだの自立心に欠けるだのと言い切ることはできない。全壊した家を建て替えるのに、どのくらいの費用を必要とするのか。震災とはじけたバブルで、価値のさがった担保でどのくらいの金が借りられるのか。マンションが唯一の資産であった人の、壊れたマンションには担保の価値などあるのだろうか。

95/8/22
 形の上では避難所はなくなったそうである。
 弁当の配給は中止されたが、場所を移し、名前を待機所に変えてまだ存在している。かつて家内は市役所でアルバイトをしていたことがあり、その時の上司が近頃よくテレビのニュースに登場する。避難所を解消することになって、住民のもとから逃げるように立ち去るところにテレビ局のマイクを向けられ、しどろもどろになって、ちょっとすいません、いそいでますのでとミニバイクで走り去っていったりするのだ。なんの権限もなく、ひたすら伏し目がちに逃げるしかない職員も大変である。行政と、ひとことでくくってものを言うが、なにをさして行政と呼ぶのか、ついカフカの「城」みたいなことを考えてしまう。
 しかし、やっぱり、行政は行政なのだ。
 家族を連れて、先日、山の向こうにあるしあわせの村というところへ遊びに行ったが、そこには体育館をふさぐほどの多量の救援物資が山積みになっている。あの物資はどうなっていくのだろう。日常的にボランティア活動をしていて、今度の震災を契機に、複数の学校のボランティアグループを統合して、独自の活動を進めようとしている高校生が、余っている救援物資をバザーでうりさばき、その収益で現在、被災者が本当に必要としているものを手に入れる資金にあてようと計画している話を聞いたが、その後、どうなったのか。計画がなく、いずれ廃棄するしかないとするなら、高校生達の「バザー計画」協力してやってもらいたいものだ。
 震災後、立入禁止になっている丸山公園に行ってみた。震災でくずれた石畳がはぎとられ、中央の芝生に瓦礫の山ができていた。ついこのあいだまで近所の飼い犬であったはずの犬が、二匹ばかり野良犬になって徘徊している。毎日犬を散歩させていると、どんな人が住んでいるのか知らなくても、どこにどんな犬がいるかについて、やけにくわしくなるもので、○○さんの犬ではなく、たとえビーグルのおじさんで通じてしまう。そのうちの一匹はよく知らないが、もう一匹は家が全壊して、どこかに引っ越していった人の飼い犬だった。アパートらしき建物に飼われていたので、同じ場所に飼い主が戻ってくるあてはない。
 公園は海抜にすれば二百数十メートルメートルの位置になる。上から見おろすと、予想よりもはるかにたくさんの、青いビニールシートが屋根を覆っている。猛暑の夏が過ぎれば、次は台風の季節、今年は幸いにも台風の発生が少ないらしいが、大雨に風がともなうのはかなわない。
 私の家の向かい、全壊し、取り壊されたあとの更地、掘り返され、ならされた地面に雑草の青さが目立つようになってきた。

95/9/30
 地震で痛んだ家具を買い換えようと(地震がなくても相当に痛んでいたのだが)、知っている店に電話した。一軒は神戸市兵庫区にあり、もう一軒は西宮にあるが、片方は電話が通じずもう片方はまだ営業を再開できずにいる。しかたなく行き当たりばったり三宮に出かけてみた。ここにあったはずだと一番先にいったあたりはすでに更地で、周りの状況も記憶とは違っており、妻と顔を見合わせ、ここやったな、さあ、そうやと思うけどと、本当にそこであったのかどうかも自信がない。それではとデパートに行ってみたが、一軒は別に家具売場を移しており、もう一軒は家具売場を移転する準備のために、今日明日はやっていないと言われた。
 三宮駅の辺り、倒れかけていたビルの多くはすでに取り除かれ、爆撃の後のようなすさまじい感じはなくなりつつある。残っているビルも、(ごく最近に建築された総ガラス張りのビルは、少なくとも見た目は無傷で残っているが、市役所だって何センチがゆがんでいたらしいから実態はどうなのか)、かつては視界をふさいでいたビルの上部階だけが撤去され、なにか寸たらずな感じで立っていたり、値段の高い土地を有効に利用するために、ごくわずかな空間も無駄にせず、ジグソーパズルのように空間を埋めていた細長いビルの両隣が取り除けられ、鉛筆みたいに突っ起っている様子は、みじめを通り越し、滑稽でさえある。
 文化住宅とかつて呼ばれた木造モルタル二階建てのアパートは、おそらく神戸からほとんどすべて消滅してしまったが、口で説明するのは難しいが(三宮駅のすぐ北側、真横に倒壊したKビルのそば、某銀行がテナントとして入っていたビルの、途中の階が押しつぶされされていた姿が幾度となくテレビに映され、昭和五十年代に建てられたと紹介されていた)、同じ様なデザインのオフィスビルのほとんども消滅してしまった。ここはなんだったとだろう、なにが建っていたのかしらと、神戸に生まれ、ずっと神戸に暮らしてきて、おそらく何百回も前を通りかかったはずの建物がなんであったのか、いっこうに思い出せなかった。こうして復旧の進む町を歩いてみると、あらためて地震というのはすごいものだとつくずく思う。
 今日の朝刊に九月一日の防災の日を受けて、七日に行う防災訓練は、台風を想定して行い、地震については考えない旨、神戸市が発表したという記事が出ていた。仮設住宅もテントも、風が吹けば飛んでいくかもしれないし、ゆるんだ地盤も大雨に耐えられるかどうかわからない。地震よりも台風の方が現時点で危険だという市の判断は、それなりに正しいのかもしれない。しかし、である。しかし、記憶の新しいうちだからこそ、阪神地区以外のだれもが経験したことがないからこそ、震災の反省というものがあるとするなら、それを生かした訓練をする義務も、神戸市にはある気がするのだが。うがった見方をすれば、避難所を解消する宣言をしたにもかかわらず、「避難所」から出ていけない人が大勢いる中で、避難者を刺激したくないと言うような意識があったりしないだろうか。
 いや、あるはずないよな。
 あってたまるか。
 そんなこと、あるはずありません。

95/9/14
 学校のホームページを、ほぼ完成した。地震直後、生徒が英語の授業で書いた英語の作文を中心にした、全編英語のものだ。その中に長田区菅原商店街の生徒がいて、彼女の近所の人が写した菅原商店街の火事のすさまじい写真がある。もちろん燃え尽きた彼女の家がやっている米屋の無惨な姿も出てくる。天気がよかったせいもあり、不謹慎であるが、炎の色があざやかで、実にくっきりと写っている。さすがにあれから大分日が過ぎているので、写真を見て、写真を撮ったことを不謹慎だとは、もう誰も言わなくなっている。その一連の写真を見ての反応のほとんどは、「よく、写真を撮れたわね」「私はぼんやりしていて、何もできなかったというようなものだった。
一月十七日、直後に学校へ行ったとき、明かりがつかず、薄暗い職員室の中でバッテリー式の液晶テレビを見て、はじめて事態の深刻さがわかってきたのであるが、そこにいた放送部の顧問にビデオをまわしておけばどうかと言った。生徒はだれも来ていないということもあったのか、彼は学校中の被害のあった場所を撮影してまわっていた。それから生徒のはじめての登校日にも同じことを彼に言ったが「地震を作品に使いたくない」と言ったのだが、少しのやりとりの後、とりあえずは撮影しておこうということになった。しかし、だれかがこんな時に不謹慎だと文句を言ったらしく、貴重な記録は完成されずに終わった。しばらくして学校として震災の記録を残そうという余裕が出てきてからは、どこにも直後の学校を写した写真がないと、担当者はあわてふためいていた。
 私はこっそりと何枚か写していたが、やはりおおっぴらにできない空気があって、被写体に堂々と向かっていない。私の写した写りの悪い数枚の写真だけが、今のところ見つかった記録である。その担当者も、こうなることがわかっていたら、わたしも写しておいたのにねと後悔していたが、私に言わせれば、こうなることは地震が起こった直後から予測されていたことなのだ。過去の歴史の中でも、及び腰の公式の記録というものが歴史の記録となり、いわゆる庶民の記録はすみにおしやられ、何十年もたってから、市井の記録が掘り返されたりする。記録を残そう、事実を伝えようと言う精神は、感傷と相いれないものであるらしい。
 緊急時に陥った時(もちろん人の命を救わなければならないような状況にいたら、それが優先されるのだろうが)、記録を考える精神というものはなんであろうか。私の父には記録癖があった。社会福祉を専攻する学者であったこともあるが、長男すなわち私の兄を医療過誤で死なせていることが、おそらくその根っこの部分にある。父も脳梗塞で倒れる五年前にガンを患っているのだが、たとえばそのような時には、どういう名称の薬を与えられ、どういう治療を受けたのかというようなことを克明に記録していた。その父が脳梗塞で倒れ、自分の手で書けない時には、私と母が、父がするであろうことをした。そして、私自身がガンの手術を受けたときには、今度は自分自身でその治療内容を記録した。
 そのこと以外、私は日記をつけたこともないし、手帳を持ち歩くこともなく、大体行き当たりばったりで生活しているが、記録する精神というのはなんであるかと、阪神大震災のあとずっと考えている。不謹慎という言葉に尻込みして、事実が失われ、当局の記録に塗り固められた過去はおそらく掃いて捨てるほどあるに違いない。
個人の記録の蓄積の場として、インターネットがふさわしいのかもしれない。よくグーテンベルグの印刷の発明にたとえられるが、私の個人的な感覚では、活版印刷と言うよりも、謄写版の発明に近いような気がする。謄写版で安価簡便に印刷できることで、政治も動き、文学も生まれてきたのだ。
 今度は私自身のホームページを作ることにする。

95/917
 東それていったはずの台風十二号の余波で、昨夜何度も家が揺れた。朝、起きて犬の散歩に行こうとすると、道にはどこかの家の屋根から飛んできたブルーのシートが、一旦停止の標識に巻き付くように落ちていた。伊豆半島沖にいる台風でこうなるということは、よほど巨大な台風で、もしも阪神地区を直撃していれば、仮設住宅のいくつかは本当にごろんと転がっていたかもしれない。
 近所の商店街に買い物へ行った。入ってすぐのあたりには、震災の後、結婚式を挙げた教え子の実家(布団屋さん)があって、半壊だと聞いていた店舗の、前半分の部分で営業を続けている。いくつかの商店街が枝分かれして、市場を構成しているのだが、そのうちのひとつで買い物をすると、百円につき一枚の三角くじがもらえた。一等はオリックス賞で千円、二等はホームラン賞で五百円、三等はイチロー賞で二百円、あとは十円とはずれになっている。十円、はずれに当たる残念賞はスタンプが押してあるが、イチロー賞以上は鉛筆の手書きである。
 まだ優勝もしてへんから中止かいなと組合に聞ききに行ったけど、今日こそ大丈夫やろいうことになったんよ、と店の人が言う。オリックスが優勝したら、ぜひうちの商店街でパレードをと、長田をはじめ、被害の大きかったところからの引き合いがたくさんあるという。ホームラン賞が一枚、イチロー賞が五、六枚、十円も結構当たったので、八百屋で北朝鮮産のまつたけを買った。まつたけでもくじを引けるかと尋ねてみると、まったけだけは特別やねん、すまんなあと言われた。
 家に帰り、オリックスの試合を見た。立ち上がり三点をリードして、今日こそはと眺めていたが、四十二才の佐藤投手が七回で交代したとたん、逆転された。なんとかこじつけて勝たせようと、アナウンサーが、今日はあの日からちょうど八ヶ月です、逆転してくれないものでしょうかと叫んでいるのを聞いて、ああ、十七日であったかと思い出し、いつのまにか月ごとに訪れる十七日に特別な思いを抱かなくなりつつある自分に気がついた。バッターボックスに立つ選手が地震でどの程度の被害を受けたのかについても、アナウンサーが繰り返し説明する。なんでもよいから、神戸にちなんだよいことがあってもらいたいと願う空気がひしひしと伝わってくる。もう何年前になるのか、阪神タイガースが優勝したときの騒ぎとはまた違った、静かな熱気みたいなものが商店街にはあった。

95/9/30
 いつも学校に行くときに通る今年で定年を迎える先輩教師の家が工事をしているので、地震の影響ですかと尋ねてみた。もともと古い家であったが損傷がひどく、修理に五百万円以上かかるとのこと。定年後、奥さんと行くつもりにしていた旅行の費用を切り崩したらしい。
 涙もろく人情家である彼は、震災の時には自分の家は大丈夫だと思い、中山手の友人宅へ食料と水を運んでいったらしい。その途中ちょうど西村コーヒー(神戸では有名な宮水コーヒーの店)の向かいあたりにつぶれた家があり、停電なのに明かりが見えたのでのぞいてみると、一人のおばあさんがくずれかけた家の中にいて、ろうそくをつけておがんでいたらしい。
「おばあさん、なにしてるんや。避難所にいかなあかんやないか」
「鍵がないんや」
「鍵がないて、家、つぶれてるやないか」
「ここで私は死ぬ」
 声をかけても動こうとしないので、友人に運んできた水とおにぎりをおいて、目的地に向かった。その翌日もまたわざわざ出かけて行き、おにぎりと水を渡し、そのまた翌日もというふうに、数日繰り返したところ、ある日、おばあさんの姿が見あたらなかった。避難所に誰かが連れていったのだろうと忘れていると、半年ほど過ぎてから、名前に覚えのない人から、ハムの詰め合わせが届き、不思議に思って差出人に問い合わせると、おばあさんの息子であるらしく、そのおばあさんが亡くなったとのこと、近所の人に水とおにぎりの話しを聞いて、お礼の品を送ってきたという。
 彼はまた、地震の直後、近くの高校に避難してくる人のために、近所の家を回り、毛布か布団、余ってませんかと声をかけてまわり、十数枚たまるたびに体育館に運んでいった。六十三才、数学教師、今年で定年を迎える。あんなことがあったのが、今年でよかった。学校をやめてからやったら、途方に暮れたやろなとしみじみ。
 東灘区田中の交差点から芦屋にかけて、倒壊した家が撤去された広い更地にぽつんぽつんと小さな仮設店舗が並ぶ。オープンハウス、二DK、バス付きの看板に車を止めてみると、なんのことはない仮設住居の展示。一DKはトレーラーハウス。

95/10/8
 インドネシアの地震にAMDAから医師団が派遣されると新聞報道。サハリンに比べて小さな記事だった。地震の被害がサハリンよりも小さいのか、インドネシアはサハリンよりも日本から遠いのか。
 先日、王子公園で妻が幼い頃に絵を習っていた先生と出合った。遠足の引率で動物園まで来たらしい。彼は現在、長田の方のある被害の大きかった小学校の校長をしている。
「先生、お元気そうですね」
「まあなあ、元気なんかなあ」
 そんな短い挨拶を交わしただけでわかれたのだが、よくよく考えてみると、校長先生は数年前に、これまた妻のピアノの先生だった奥さんにガンで先立たれ、震災では自宅を全壊し、描きためた絵も奥さんの思い出のピアノもみんな失い、奥さんの位牌だけをかろうじて掘り出し、そのまま避難所となった小学校に一ヶ月以上も泊まりこんでいたのだ。
 阪神大震災は、世界から見ればおそらく局所的なできごとだったのだろう。それでもしばらくはあらゆるメディアが注目せざるをえないほどの死者を出し、その上、何よりもこれまで経験のない近代都市での大災害であったために、いろいろな意味で経過を観察しなければならなかった。オウムの頃から、日本の中でも阪神大震災は次第に、文字どおり局所的なできごとにかわっていった。それどころか、半月もしないうちに大阪をリュックで歩いている奇異な目で見られたり、女の子は「おねえちゃんどこいくの」などとナンパされるようなこともあったと聞く。 神戸にいて、震災にこだわり続けてきたけれど、神戸の中でも震災はともすると、さらに局所的なできごとになりつつある。
 大丈夫でしたかと、人に会えば必ず聞いていたが、震災の安否を問う枕詞が消えつつある。そこに被災者がいたことさえ忘れる時が必ず来る。今でも半分くらい、忘れかけている。あちこちにまだ新しい生活をはじめられない空白を見てもなお、そうなのである。恐ろしかったできごとを忘れたいと願うベクトルの起点には、いつも深い傷を負った人たちが、そこから身動きすることができずに存在し続けるのだろう。
 図書館のアルバイトの司書からの欠勤届には、「自宅の解体に立ち会うため」と書いて合った。

95/10/14
 神戸市の避難者が二千人になったと新聞に書いてあった。避難者というのは、避難所、または待避所にいる人のことで、仮設住宅にいる人は含まれていない。ましてや屋根が壊れ、傾いた家にいる人は、統計上の避難者であったことは一度もないのだ。
 退職して講師になって来ている先輩教師に、「今、ポートアイランドから通っているんや、ポートライナーに乗って、ああ服部さんも昔、これで来てたんやなと思ってたんや」と朝早くに声をかけられた。彼は足が不自由で、杖がなければ歩けず、乗り物に座ってくるために始業時間の一時間以上前に登校している。
「先生、引っ越しされたのですか」私の知っている場所なら、知人も多いのでそのことを話題にしようと軽い気持ちで言った。「いやな、やっと仮設が当たってね」知らなかった、家が住めない状態であるのを。これまでどうしていたのかと問うと、娘夫婦の家に厄介になっていたが、つい先日転勤になってしまったとのこと。奥さんをとっくの昔になくし、家族は娘一人。彼の足を不自由にしているのは、私の父と同じ脳梗塞の軽い症状。仮設のトイレは、風呂はと気になることばかり。
「ダイエーが近いから、帰り買い物していくのに便利やねんけど」杖を使うために両手をあけねばならず、ナップサックを背負っていて「これかて、先生と一緒やろ」
 私は女子校の教師であるのに、一年中ジーンズをはいていて、ポートアイランドにいたころは、ナップザックを背負い、中型バイクに乗っていた。統計上の数字で、避難者は二千人になったのかもしれないが、本来住むべき場所に戻れない人はみんな避難者ではないのかと思う。これが数年経過して、仮設から立ち退かなければならない状況が迫ってくると、仮設生活者は何人という、新しい統計が新聞の片隅に小さく報道されることになるのだろう。

95/10/23
 先日は奄美で地震があり、またメキシコで地震があった。阪神大震災以来、国内の地震計の設置場所も増えているだろうし、地震情報の出し方もきちんとしたものになっているのだろうが、今年、日本で、あるいは世界で起こっている地震の頻度というのは、平年並みなのか、あるいは平年よりもはるかに頻度が高くなっているのか、はたしてどうなのだろう。っそれとも、私自身が地震情報に過剰に反応するようになっているだけなのか。
 高校の時の同級生が母校で生活指導を担当している。私の母校というのは、自分で言うのもおかしいが、どちらかといえば生徒に厳しく、きちんとしていて、問題の少ない学校であった。しかし、震災の直後、始業時間を送らせたり、カバンなどの持ち物を安全を優先させて自由にした時期があり、掃除も下校時間を早めるために、週一度にしていたらしい。掃除くらいと思われるかもしれないが、冬でも短パンいっちょう、なぜか上半身裸、素足でトイレ掃除をする、今はどうだかしらないが、乗り物の中では絶対に座らないと言うのも、私達の頃は伝統のひとつであった。世間から見れば、重要文化財に指定してもおかしくないような学校であったのが、一度たがをゆるめてしまうと、もう元に戻らなくなってしまったらしく、一日に数人しかいなかった遅刻者が、七十人にもなるような日がざらになってしまったらしい。神戸市内の生活指導の担当者の話し合いで、似たような報告がたくさん出されている。ある「名門」の女子校では、過去八年分の処分者の数を上回る「処分者」を今年度の四月から今日までに出してしまったということだ。処分の対象になったできごとがなにであるのか、くわしくは知らない。
 震災直後、学校がある種の解放区になったような気が私自身もしていたし、事実、それまで登校拒否気味であった生徒が登校していたような事例もあった。だから厳しすぎる校則が生徒の精神衛生上、問題をきたしているのだなどと、今ここで校則論議をするつもりはない。見た目にもはっきりとして精神的な傷を負ったものだけではなく、あれほどの災害をなにごともなくやり過ごしたものなど、おそらくほとんどいないのだろう。

95/10/30
 併設大学への願書の受け付けがはじまり、高校三年の半数の生徒は近く行われる推薦試験へと臨む。長田で被災し、重傷を負った生徒は、私が授業を行うクラスで一番前に座っている。欠課時間数との戦いで、リハビリの日を調整しながら、必死になって登校している。
 韓国のジャーナリストが書いた日本人の「内」と「外」について言及する文章が教材。プロ野球の外人問題から、在日朝鮮人への被爆者の問題にいたり、今度の震災で、関東大震災の時のことをふまえ、在日の人たちが襲われることがなかってよかったというような報道が韓国であったのを思いだし、つい脱線して一月十七日のことに触れてしまった。NGOの事務局の人に聞いた、外国人被災者の医療問題などにも触れて、ついついしゃべりすぎて、ふと一番前の彼女を見ると頭をうなだれていた。
 看護婦を目指し、看護学校を受験しようとしている彼女の握力は、手術を受け退院した直後には二キロとか三キロしかなかったらしく、茶碗を持つのがやっとのありさま。今はどのくらいまで回復したのか。うなだれているのが疲れているせいならよいが、もしも私の話のためならと思いながらも、話をやめることはできなかった。
 思えば私自身、手術の直後、逸見政孝さんのスキルス・ガンの告白があって、彼にはなんのうらみもないがそれ以後、逸見という名前を見るのがいやで、テレビも週刊誌も見ることができなかった。ガンという病名を自分で口にできるようになるまで、一年ちかくかかった。今年の一学期、彼女が学校に戻ってまもなく、新聞部のインタビューに答えてくれるかどうか尋ねると、お役に立てるならと、心の中はいざ知らず、ほほえみながらの返事。学校のホームページにも文章を掲載したいがどうだろう、やなら名前を伏せてもいいんだけどと問うと、これまたお役に立てるならとの返事。彼女は彼女の中で苦しみつつも、夢に描く未来の職業について、明確な意思を示そうとしているに違いない。



クリスマスに初雪が降っても、神戸からの報告へ進む。
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