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クリスマスになって初雪が降っても神戸からの報告
(95/11/10〜12/30)



震災後の更地にうっすら積もる雪


95/11/10
 阪神大震災でパソコン通信が役に立った、ネットワークが貴重な情報源になったという話があちこちで聞こえてきて、パソコン通信という言葉が、近頃ではいつのまにかインターネットという言葉に置き換わって、緊急時の貴重な情報手段として通信網を整備しなければならないと新聞では毎日のように書かれている。
私自身もこの意見の特に後者については否定するものではないが、前者については、少々疑問である。一般の人に役に立ったとされる「一般の人」というのは、被災地内部の人を指していないのではないかと、最近思うようになっている。例えば商用通信で流され、役に立ったとされる情報のひとつに安否確認があったが、家族の範囲で限ると、家族がそろっている時間帯で、家族そのものを確認する必要はほとんどなく、家族以外の肉親については電話と足が情報収集のための手段ではなかったのか。安否情報も、外から内を知るためのもので、外に安否を知らせたい人は、家も失い、通信手段もなく、知らせる方法がなかったのが実状で、かなりの部分、電話がその役割を果たした。
被災直後、被災地で必要としていた一番の情報は、生活情報で、これについては、当初はきわめて貧弱だった。足で行かなければならない場所の、通路の情報などについては、たしかに被災地内部の人同志で情報の交換をしあい、安全かどうか、どの経路をとるべきかの選択に役に立っていた面もあるにはある。
市の広報から流れた情報を、ネットワーク上に流してくれる人たちも大勢いたが、これもまた市そのものが最初からデジタル化した情報を流すのではなく、ボランティアの人たちの手でデジタル化されて流されたのであろうから、どうしても情報の新鮮さにおいては問題があり、なるほど、こういうものがあったのかと感心することはあっても、実際に役に立った例は少ないのではないか。
 被災地でパソコンを使える状況にあるということは、少なくとも安全が確保されている人たちで、その人たちは別の手段でもその手の情報は収集しえたわけである。避難場所になっていた学校には、パソコンないしはワープロが必ずといってもよいほどあったろうが、ネットワークにつながっていたものは、きわめて少なく、それを使いこなせるものはさらに少なかったのではないだろうか。
震災とネットワークについて、正確に言えば、被災地で被災直後に役に立ったというよりも、未来に置いて役に立ちうるメディアであることを認識するのに役だったというべきかもしれない。被災直後の混乱がおさまってから後の、ネットワークの果たした役割は、記録の面でもボランティア情報の面実に大きなものがある。
 あくまでも私達は未来の道具としての可能性を認識したのであり、実質的に有効に機能しえたわけではない。もちろん現代都市で起きた大災害の中に、パソコンを持ち込むことに成功したわけであるから、そこから得られるものは数多くあるだろう。
内側にいた私にとっては、マスメディアによって、ゆがめられて伝わっている情報とは違う目の前のできごとを、外に向かって伝え、個人的な思いを吐き出すのには大きく役立ち(ある種のヒーリングの効果があった)、ある意味では通信手段としてではなく、ミニFM放送的とでも呼べばよいのか、新しいメディアの可能性を探ったということになるのかもしれない。
いずれにしても、パソコン通信のような、メニューの用意されている、いわばパッケージ型のコミュニケーションツールですら、多くの人にとり、敷居が高いのに、インターネットとなると、闇夜の海に放り出されたようなものだ。今回の場合、外からしきりに語りかけ、手をさしのべてくれたネットワーク・ボランティアの手助けで、ようやく、私個人はきわめて重要かつ緊急に整備すべき未来のツールとして認識できたように思う。
 震災ネットワークが果たしているもので一番すごいのは「記録」の蓄積ではないか。これは過去のいかなる歴史的事件とも比較にならぬほど膨大な資料が、政府でもなく、学術機関でもなく、多くの個人によってなされていることは、驚嘆すべきことであるに違いない。こういう個人の存在がこれから増殖していく限り、歴史をゆがめて解釈するような、愚かなことはなくなっていくのではないかと、そういう意味においても、インターネットを評価していきたい。

95/11/17
 毎月十七日が来ると、なにか書かねばならない気分になってくる。私の住む比較的被害の少ないあたりでは、民家の取り壊しは終わり、すでにいくつも新しい家が建っている。崩れ落ちたまま残っているのは木造モルタルアパート形式のもので、住んでいる人との間にややこしいことがあるのか、あるいは所有者が年をとっていて、経済的に建て替えるのが難しいのではないかなどと、勝手な想像をしている。
私の近所は、長田や東灘、灘のJR沿線ぞいのように、一瞬のうちに倒れてしまったわけではなく、見た目は大丈夫そうで、調べてみると実はというタイプの全壊、あるいは半壊が多くあって、民家の始末が一段落付きはじめてくると、今度は少し大きめの建物のあちこちで工事がはじまっている。
待避所や仮設住宅とは違う、一見恵まれた避難生活の中にも様々な悲劇はあり、マンションが壊れた一家が、別の場所で家の壊れた親と一時的にアパートを借りて住むうちに、それまでうまくいっていた家族関係がぎくしゃくしはじめ、がまんの限界に達し、離婚問題にまで発展している話を、二カ所から立て続けに聞いた。マンションの補修工事が終われば、またもとに戻るのじゃないかと、あてにならぬなぐさめを言うほかに、相談を受けた私のできることなど、なにもない。
すでに郵便局では年賀状の販売がはじめっている。今年は喪中の知らせがいつもよりも多いのは当然として、その喪中の葉書すら出せない状況の人も多くいるのではないかと考えてしまう。年が明ければよいことがあるのかどうか、少なくともいやでもあの日を思い出さなければならない一月十七日が、正月あけ早々にやってくる。
阪急三宮のビルは完成してもあの大きさなのか、それとも仮の建物なのか、いやに小さな三階ほどのビルになってしまった。三宮の空は広いままである。

95/11/23
 少し早めの古希の祝いをした直後に父は脳梗塞で倒れた。その父が今日、喜寿を迎えた。最初の一年は猛烈な痛みのために病院で呻き続け、二度の腸閉塞を起こし、何度も医者に見放されたが、どうにか退院し家に戻ることができた。その後、風呂に入ったり、朝のリハビリをしたり、車椅子に乗り、食事をしたり、本を読んだりテレビをみたりする以外の時間はずっと、ベッドの生活である。リハビリと言っても回復の見込みなどなく、介護者の力が少しでも楽にすむように、短い距離を歩かせるだけだ。退院してからの四年間は入浴させるのは、隣りに家を建てて住むようになった私の日課だった。しかし、二年前に私がガンで手術を受けてからは妻の仕事となり、それは今でも続いている。
頭の先から足の先まで、左半分が完全に機能を失っている父は一月十七日の朝をベッドの上で、一人で迎えた。母は、毎朝、近所のお年寄り達と、父が眠っている間に早朝の散歩に出かけていて、その日も丸山公園にいて、地べたにたたきつけられている。古希の祝いの直後に倒れたときの記憶が生々しいために、父から五年遅れの母の古希の祝いはしなかった。しかし、来年は金婚式を迎えるらしく、正月に両方の祝いを兼ねてやろうということになっている。
 一昨日、地下のガレージに水漏れがあって、家を建てた工務店に来てもらうと、地震でゆるんでいた水道管が、震災から十一カ月もたって亀裂が大きくなり、長い時間かけてたまった水が、もちこたえきれなくなってあふれていたのだろうということであった。亀裂の入り方が通常の使用では考えられないような形で、震災後あちこちの現場で似たようなことがあったらしい。
年金生活の中での出費は厳しいが、地震以来の口癖で「それでもね、家があるだけましだもんね」とつぶやいて、母は自分の不満を封じ込める。家裁と地裁の調停員をしている母は、今月は二十件にものぼる調停に立ち会っており、そのほとんどは震災にまつわる立ち退きや借地権などにまつわるトラブル。
 昨日の帰りがけ、某短大から合格通知があり、担任が飛び跳ねて喜んでいた。保育系短大に合格したその生徒の家も長田で被災し全壊、今はポートアイランドに住んでいる。  同じ昨日、犬が子供を生んだ。自分でへその緒を咬みきり、胎盤を食ってすぐに鼻で子犬を引き寄せ、授乳をはじめた。子犬の排便排尿の始末も親犬がする。もとは狼であった犬の習性なのか、巣に臭いを残さぬため、小便はなめ、大便は食ってしまう。ガンの告知をされたあと、何度もこの犬のことを思った。犬は死におびえることなく、淡々と生きて、淡々と死んでいく、なんとすばらしいのだろうと、感慨に耽り、岸田秀によれば、「本能の壊れた動物である」人間の私は、自分のふがいなさに情けない思いをした。
 その犬もまた、震災の日、おびえて、半日ほど三女と一緒に机の下に隠れていた。

95/12/3
 昨日、阪急三宮駅のビルがオープンした。
 神戸からの報告を最初に発信したのは、震災の翌日、一月十八日だった。そして学校のものとは別に、私個人のホームページの形で立ちあげたのは九月の終わりごろであった。その時、朝日ネットでは五十人ほどしかまだホームページを立ちあげていなかったが、今はある雑誌の記事によると十倍近く、あるいはそれ以上にふくれあがっているということだ。
 一対不特定多数(実際にはネットにつながっている人が限られているから、特定と言うべきかもしれない)というコミュニケーション手段を生まれてはじめて手に入れて数カ月の間に、実に多くの人から様々な反応をもらった。私のページが「神戸からの報告」を中心に成り立っているから、メールをいただく人の多くがそうなのかもしれぬが、阪神大震災についてあちこちで、個人の力で記録をしようと言う動きがあるというのがよくわかってきた。大学などの組織の名前のついているところでも、おそらくは中にいる個人が個人の発想と努力で記録を蓄積し、整理しているのだろうということは容易に想像がつく。神戸あるいはその隣接地にいるものは自らの体験を蓄積し、被害地域の外にいる人たちはその関連情報を整理統合している。
 インターネットについては、自分でやっているときには、いつも未来を思い描き、希望に満ち満ちているのに、ひとたび外で語ろうとすると、絶望的な思いにしばしばとらわれ、つい悲観的な気分になってしまう。阪神大震災に役に立ったかどうかということについて、今回の阪神大震災そのものについては微々たるものではあったとしても、インターネットにつながりはじめた日本人がはじめて自国で体験した大災害であったことをさしひいたものに、今回の経験という希望の係数をかけていくと、次に(次があってはならないが)は相当な力を発揮しうるのだと考える方が健康ではないかと、ちょっとだけ思いはじめてきた。
 来年の一月十七日にインターネットを使った防災訓練が行われると新聞に書いてあったが、自分の身近な状況が悲観的なものであるからといって、ほかならぬ自分自身が悲観論を述べて、少しでも前進しようとしている人たちに対して、足を引っ張る形になってはいけないという気がする。組織の中での硬直性に、何もしらないくせにと腹を立て、今度は自分が足を引っ張るとすれば、自分自身に向かって「ちょっとかじったくらいで」と非難の言葉をあびせてやる番かもしれない。

95/12/8
 神戸のことを覚えていますか、と外へ向かってよりも、あの日も、そして今もずっと神戸に住み続けている自分自身に問いかけてみる。すでに戦後ではないという言葉が使われたのは、戦争から何年過ぎてからであるのか、すでに被災地ではないという言葉が頭の片隅で響きはじめている。九十年代の時間の流れ方というのはそれほど急速であるのか、私の感性が反比例して鈍感になっているのかわからない。物理的な復興の速度は確かに戦後の数十倍の速度であろうが、人の心の傷が癒えるのにかかる時間は、一向に短縮されたりはしていないはずだ。
 深酒をやめようとしない亭主に、「わたしは人の痛みなら何年でもがまんしてあげるわよ」と、肝硬変で亡くなった父親の看護を長くしてきた奥さんが言っているのを聞いたことがあって、その時はその亭主と同じく大酒飲みであった私は、彼の奥さんの言い方のおかしさに「そりゃそうだ」と、へらへら笑って聞いていたが、いざ自分が開腹手術を受けてみると(酒が直接の原因ではないが)、奥さんの言わんとしたことが身にしみてわかった。ガンがこわくて煙草が吸えるかとうそぶくまわりの連中に、告知されてから、強がりではなく平然と同じ言葉を口にできるのかなと、心の中で幾度も思い、ビタミン剤や健康食品の類に異常なほどの関心を今なお示してしまう自分を、どうすることもできないでいる。
 未だに仮設にいたり、テントにいたり、ふだんの生活を取り戻せない人との距離は、どんどんと開いていく。一月十七日午前五時四十六分の時点で、すでに歴然とした差があったはずなのにしばらくは、自分自身の片方の重心を被災者の方にかけて、生活をしてきた。しかし、今は「神戸では震災があったのですよね」と自分自身に呼びかけてやらなければ、忘れている時間の方が長くなっている。だれに強制されるわけではなく、半ば義務的に「神戸からの報告」を書き続けることで、かろうじて震災を意識し続けているだけだ。
 他人の痛みをわかる人になるようにと、教室で教師はしばしば口にするが、なまこの嫌いな人に、なまこの好きな人がなまこをおいしいと思う気持ちを理解してみろというふうに言い換えると、他人の痛みを理解するという言葉の嘘がわかるというようなことが、たしか「哲学の教科書」という名前の本に出てきたが(例に挙げてあったのは、なまこではなかったが)、どうしようもない状況を前にして、自分はどのようなスタンスでいればよいのか、次第にわからなくなってきている。
 ハンセン氏病患者の強制隔離に関する差別的な法律がいよいよ撤廃される方向で検討されことになったと夕方のニュースで見た。脳梗塞で倒れる直前、七年前、父が健康な状態で最後に旅行に出かけたのが長島愛生園だった。ハンセン氏病の患者の子供に対する「未感染児童」という差別的な言い方がいつの時点で出てきたのかを指摘する論文が、父が書いた最後のものだった。

95/12/13
 復興進む神戸と報じられている町はどうなっているのか、あちこちの学校や体育館などの公共施設からは避難者の姿はほとんどいなくなったが、表面上はなにごともなかったように見える町のところどころにも仮設住宅が点在している。今度の震災は、震度七であったと認定された地域が、JRと阪神の沿線ぞいに集中して走っており、狭い地域の中で南北問題を思わせる状況だと、震災直後に書いた。被災者を仮設に集めて(結果的に)分布が帯から点(拡散から集中)に変えることで、被害程度の少なかった私のようなものに、すでに被災地ではないと言う気分を植えつけている。
 もちろん私の住むあたりにも更地はあるし、風にあおられ、雨にさらされ、ひきちぎれた青いビニールシートにまだ屋根がおおわれたままの家も、くずれかけたままの塀も、人の住まなくなった家もあるが、その光景自体を見慣れてしまって感覚が鈍くなっている。例えであるかもしれないが、屍が散在しているのが日常になった戦争中の感覚というのも、こういうものであるかもしれない。
 長田や東灘の惨状は、復興の「ふ」の字も感じさせないのはわかっているが、震度七の帯からはずれた、いわゆる南北問題の「北」に住み、被災を集中させた「点」からもはずれたところにいる者にとっては、いまだ通行規制をされた幹線道路から迂回してくる車が数珠繋ぎになり、いっこうに進まぬ渋滞に巻き込まれるような、自分自身の不便によってしか、震災を思い出さなくなっていて、人間のこの忘れっぽさが、震災からの真の復興を難しいものにしていくのではなかろうか。
 ガンの手術を受けたのは雨ばかりの夏、あとになって気象庁が梅雨明け宣言を取り消したほどであったにもかかわらず、空が青いという印象が強く残っている。何度も台風が上陸し、九州や四国だけではなく、東京までが水に浸かった。崩れた土砂に呑み込まれたひとの名前が報じられる度に、即死に近い状況であったにせよ、告知されて以降、私の味わった思いが、コンマ数秒の時間に凝縮され、死んだひとりひとりに襲いかかったのだと考えるだけで気持ちがすくんだ。
 かつて結核の療養所であった病院に、今はホスピスができている。死に至る病が結核からガンに変わっただけなのだが、ガンが過去のものになったとしても、ひとが死を迎える場所がどこかに必要だった。体を起こせば海が見えるところに病室があったが、近くには墓地もあり、あまり気分のよい景色ではなく、たいていはくすんだ空を眺めているばかりであった。
 それにもかかわらず、空は青いと思ったのだ。
 青い空は雲でさえぎられ、いつもどんよりしていたが、私は分厚い灰色の彼方にある青空を思っていた。私の病状がどうなろうが、心情がどのように変化しようが、私が死んでからもなお、私が生まれるよりも前から青かった空は、これからも青くあり続けるだろうと思ったのだ。
 長田で生き埋めになり、瀕死の重傷を負った生徒は、希望していた看護系の大学に合格することができた。心配していた欠席日数も、もう少しでクリアできそうなところまでこぎつけた。まだリハビリが続き、看護婦としての勉強をはじめるには困難がつきまとうだろうが、自分の力で克服していくに違いない。

95.12.18
 先日、阪急王子公園からJR六甲道まで歩いた。震災当時の惨状は取り除かれ、震災の記憶は空白となって残っている。新しい家もたくさんたちはじめているが、大部分は更地の状態である。水道筋市場の中には、小さな箱を店舗にして営業している店がいくつもあるが、灘警察から六甲方面に少し進んだ空き地に、店舗に使っているのと同じ構造の「住宅」が百五十万円の値段がついて売っている。大きさは小さな二DKといったところであろうか。百五十万円という値段が震災当時のものであるのか、十一カ月過ぎて値引きしたものなのかわからぬが、あのどうしようもない状況の中で、瓦礫を撤去した跡地に百五十万円を出して、金属製の箱を買わなければならなかった人たちが何人もいる。

95.12.22
 東京の友人から、神戸の人に年賀状を出してもよいのかという電話を立て続けにもらった。喪中である場合は、喪中の知らせが届いているであろうから、あのような大災害の傷も癒えぬ神戸に向かって、あけましておめでとうございます、というようなのんきな挨拶をしてもよいかどうかという意味の問い合わせなのかもしれない。私個人で言えば、震災の影響と思われる喪中の葉書は予想したよりも少ない。ということは、幸いにも親しい関係にある人に被害が少なかったのか、あるいは喪中の葉書すら出せない状況であるのかのいずれかだろう。命には別状がなくても、住む場所がなくなった人は数え切れないほどいて、その人たちにどのような住所で年賀状を出せば届くのか、それこそ去年までの住所の所へ出してみなければわからない。辛い思いが続いているにしても、年賀状というもので、ごく短い時間でも日常を取り戻すことは不快なことではあるまい。
 一年前の年の暮れはどうしていたのか、正月はどうであったのか、地震の前の日は連休であったが、その連休をどのように過ごしていたのか、思いだそうとしてもなかなか思い出すことはできない。未曾有の災害故、震災を境に震災以前の記憶が欠落したと言うようなことではなく、年齢相応の、あるいは相応よりもはるかに早い健忘のはじまりのせいだろう。覚えているのは、地震の前夜、テレビの前でごろごろしていて、震度一の地震があったということだ。家族のほかのものは、食事の後かたづけをしていたか、はしゃぎまわっていたか、「あっ、地震や」という私の指摘にだれも同意を示さなかった。そのことがあったために、十七日午前五時四十六分、多くの人が、地震だとは思わず、ただただ何事かと思ったという、ダンプにでも突っ込まれたような激しい揺れの瞬間、少なくとも私は「地震」であるとの認識ができた。一月十七日からあとのことについては、この「神戸からの報告」を読みなおすことで、記憶をたどりなおすことができる。
 ルミナリエというニュースでも度々報じられている町の電飾を子供を連れて見に行ってきた。神戸にこれほどの数の人が住んでいたかと思うほどの人出だった。光には闇を照らすものと闇を隠すものがあるが、まさに闇を隠す光で、光の洪水から逃れた奥には、地震の傷跡がそこら中にあった。
 なにもかもが壊れ、消費のむなしさを感じた直後から十一カ月と一週間が過ぎた。住専の処理に支出される六千八百億を国民一人当たりに割ると、五千円、四人家族で二万円の税負担、これを消費税ベースで考えると、現在の三パーセントを五パーセントに値上げしたとして、増税分の二パーセントで二万円をまかなうとすれば、一軒あたり百万円の消費増をしなければならないということになる。しかし、すぐれた政治家もいるもので、消費税を十パーセントにすると明確に述べている。この場合は七パーセントの増税分で考えると、わずか二十八万五千七百十四円の消費増ですんでしまう。消費や所有のむなしさを感じたのはほんの一瞬のことで、破綻した経済を支えるためと称して、ひたすら消費を続けていかなければ成り立たない仕組みになっているらしい。

95.12.25
 朝起きると、一面雪景色。日が射してくるとすぐに解ける都会の雪とは言え、神戸のホワイトクリスマスはめずらしい。病院へ行くのに、震災後、二ヶ月ほどかぶり続けていたスキーの帽子を取り出してきた。あの時は寒さよけというよりも、いつ余震があり、上からものが落ちてくるかわからぬ恐怖感があっていつもかぶっていたのだが、今日は純粋に寒さ対策のためにだけである。
 今朝の新聞に三十年近く前の子供の頃、世話になったことのある小児科医が、廃院届けを出したという記事が出ていた。震災後、七十を越す同様の届けがあって、その中のひとつとして名前入りで取り上げられていた。震災で木造二階建ての医院兼住居が全壊し、しばらく大阪に避難していて、現在は取り壊した家の跡地に、コンテナハウスを建てて、おひとりで暮らしておられるという。震災前からおひとりであるのか、震災でおひとりになってしまわれたのか、そこまではわからない。医院を再開するには機材や薬、建物を用意するのに一億以上はかかるらしく、金の問題だけではなく、七十半ばになって気力もないという。
 病院の帰り、医院の跡地を探して歩いてみたが、三十年前のおぼろげな記憶では探しようもなく、仮に探し当てたところで、ただの野次馬でしかないのだ。新聞にあった住所に近い市場の被害もひどく、ここの魚屋さんは安いのよ、ここの八百屋さんも安いのよと、妻が言うどの店も仮設の店舗であったり、仮設の店舗のさらに前を借りての営業であったり、安いのを単純に喜んでよいのかどうかわからなかった。
 考えてみると、大学を卒業し、教員になってから、ずっと赤倉にある寮でのスキーキャンプに、引率者として参加していた。クリスマスの礼拝の後、サンタクロースの衣装を着けて、生徒にサービスをするばかりで、一昨年、病気をするまで家にいて、家族とクリスマスを過ごしたことは一度もなかった。前もって用意しておいたプレゼントを妻に渡してもらうだけで、サンタクロースが来た翌朝の子供の様子を全く知らない。せっかく家族で過ごせるクリスマスを迎えたと思ったら、子供たちはすでにサンタクロースを信じない年齢になってしまっている。昨年のクリスマスの時、七面鳥を買ったJR六甲道にあったスーパーイタリアーノは、九ヶ月ぶりの復旧工事の後、ダイエーになっていて、目当てのものはなかった。

95.12.30
 震災の直前に何をしていたのか、いっこうに思い出せないと前回書いたが、子供たちは震災があったのと同じ一月を迎えるに当たりいろいろなことを思い出すらしく、十七日の前の晩には、お風呂の水を捨てたらあかんよ、などと言っている。今日、車にガソリンを入れてきたのだが、そういえば震災の直前、満タンにしていたから助かったよな(しばらくは給油所はなく、あってもかなり長い時間並ばねばならなかった)、というようなことを思い出してきた。
 長田などの火災のひどかった地域で、自家用車が引き起こした渋滞が救援活動を遅らせ、また救援物資の到着の邪魔をしたということもあった。緊急時には車を使ってはいけないということは予備知識としてはあったし、その後の行政当局からの呼びかけがあったのも知っているが、早朝に水をくみに行くときだけは車を欠かすことはできなかった。最初は近所の川にわき水をくみに行っていて、その時にはもちろん徒歩であった。しばらくして、給水所が二キロほど離れたところにできたのを知ってからは、いけないと思いつつ、車を使っていた。兄夫婦も避難してきて、寝たきりの父を含む総勢十一名で一軒の家に暮らしていて、その生活用水を確保するのは容易なことではなく、二キロといっても、ほとんどすべてが急な坂道、水の重さは尋常ではなかった。
 水道が回復してからもしばらくは、できるだけトイレの水を流さないでおこうという意識が家族全員にあったが、今ではそんな気持ちも次第に薄れてきた。しかし今なお、その時の記憶がしみついている次女、三女は小便の時には流さずに出たり、流す前にだれかほかにする人はいませんかと呼びかけたり、だれかが入った後、流さんといて、と声をかけ、トイレにかけ込んだりしている。たまたま、流さないままになっているトイレに入ってしまった長女は、小学生と中学生では気分が違うのか、トイレに入ったら流せと妹を叱りつけたりしている。
 年末と言うこともあり、一年を振り返る番組をあちこちの局でやっている。あの日の午前、近畿地方で地震がありましたというアナウンスのあとに示された地図の、震度を表す数字が神戸だけないニュースの場面をはじめて見た。
 十二月二十八日付け朝刊で、震災による死者の数が六千三百八人に訂正されていた。


年が変わって神戸からの報告へお進みください。


ご意見、ご感想をお寄せいただければ幸いです。

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