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年が変わりましたが神戸からの報告

96年1月の住吉近辺の写真

96.1.1
 神戸の大晦日は除夜の「汽笛」。港から停泊中の船がいっせいに鳴らす汽笛が聞こえてくるが、昨夜はどうだったのか。ビートルズの新しい歌というのをテレビで聞いて、そのまま眠ってしまったのでわからない。
 一夜開けて、元旦、日の出が七時二分だから起こしてくれと次女に言われていたので、声をかけ、私は犬の散歩に出かける。あいにく空は曇っていて、初日の出を見るのは難しいようだが、坂をどんどんと人が登ってくる。いつもならラジオ体操の時間にあがっていくお年寄りがいて、私が散歩に行く頃になると上から降りてくるのだが、今朝は逆方向からたくさんの人が来る。
 どこかで見た光景だと思いつつ歩いていると、震災で全壊した家のあとに新しい家が建っていて、まだ外溝工事も終わっておらず、建築資材も起きっぱなしの家の門灯に明かりがともっていて、壁には表札代わりの紙切れがある。新年を新居で迎えるために無理をしたのだろう。全壊前の住人が戻ってきたのか、新しい別の人なのかは、表札を見ても前の名前に記憶はなくわからない。
 そうだ。老若男女を問わず、寒さをさける服装で次々に坂道を登ってくる、どこかでみた光景というのは、震災直後の水くみだった。みんなが初日の出を見る丸山公園の横を右へ進むと、そま谷というところがあり、そこにわき水が出ているのだ。
 雑煮を祝った後、ポートアイランドに行ってみる。震災以来、はじめて。四十三号線方向から入る道は落ちたまま、ハーバーランド方面のバイパスなどあとかたもなく、神戸税関方面から仮設の橋がついている。橋を渡りきり前進すると、まだ道路には亀裂がくっきり。先日、正月の買い物にハーバーランドへ行った際に、前に住んでいたマンションの人と会って、ふつうの生活ができていいわねと言われたが、これから修復工事に入るそのことをさしていっているのか、それともほかに問題があるのかわからない。
 正月というのは、初詣客でにぎわう繁華街以外、どこの町内も閑散としているものだが、あたりを彩る樹木も少なく、同じような形状の高層建物が並んだところ、いっそう閑散として見える。神戸市がこの人工島を売り出すきっかけにしたポートピア博覧会の年に結婚し、妻が次女、三女を妊娠中、この未来都市ポートアイランドに新築された二十四階建て高層マンションの八階に引っ越した。運転手のいないコンピュータ制御の無人電車とバイクを半々に使って通勤していたが、その頃からまだ新しかった高層住宅群を眺める度、ブレードランナーやマッドマックスの何作目だったかに描かれた未来の廃虚を予感させるものがあって、あまり好きな景色ではなかった。
 そんなところが、バブル最盛期にはには、四LDK、八十三平米ほどのマンションが一億数千万にもはねあがり、業者が毎日のように売りませんかとやってきた。父が倒れた後、そばに住む必要ができて私が自室を売りに出したのは、バブルがはじけてからで、億万長者になりそこねてしまった。
 島から市街地に向かう広い道路の西側には仮設住宅があり、ここに三女の友達がいるのだろうが、砂利を敷き詰めた上に、同じ様な建物、どこがどこかわからない。そういえば、そのマンションで玄関ホールまで新聞を取りに行き、帰り、夕刊を読みながらエレベーターを降り、いつもの歩数、いつもの方向に歩いて、ノブをひねり中に入り、靴を脱いだ所でようやく階を間違えていたことに気づいたことがある。

96.1.5
   年賀状、今年一番多かったのは、去年は大変な年でした、今年はよい年でありますようにというようなもの。地震、あるいは震災というナマの言葉が含まれていたのは、阪神間以外のところからのもの、そして大阪、京都方面からのものは、三宮に出ると心が痛みますというような気を使ったものが多かった。
 年賀状の返事のかわりに、遅れてきた喪中の知らせが二通、そして住所が仮設になっていたものが二通あり、その内の一通は淡路からのものであった。妻の両親が住む生穂からほど近いところにある志筑の埋め立て地の仮設からの年賀状は、子供の頃、お世話になった、いわゆるお手伝いさんからのもの。集団就職で出てきて、両親ともに仕事を持って忙しく、留守がちであったので、かわりに私達兄弟の子守をしてくれていたのだ。十代半ばで満鉄に勤務して以来の国鉄職員で、今は退職し、淡路島洲本市の観光ホテルを第二の仕事場にしている妻の父親によると、ホテルそのものの被害はなかったが、自粛ムードのあおりで、震災の後、多くの従業員が希望退職をしたり、自宅待機であったりしたとか。夏以降、少しずつ客が戻りはじめて、遅配ぎみの給料がようやく、何十パーセントかカットの状態のままながら、支払われるようになり、最近、ようやく元に戻ったとか。しかし、ボーナスは無理で、年末、全員一律の寸志であったという。大勢の従業員の首を切ったために、年末年始は新米のアルバイトが多く、妻の父親のような年配のものも、結構忙しかった模様。施設が無事であったホテル、旅館でこういう有り様だったということは、施設にも被害のあったところは、どれほど苦しい状況であったことか、いや今も有り続けていることか。新年になって予約の入っている団体客のいくつかは、町から震災関連の見舞金が五千円出て、自己負担は二千円という老人会の、入浴プラス宴会という日帰りのものであるらしい。
 正月に連絡をとりあった私と同年輩も、あちこちで被害にあっていたようだが、働き盛りですでに家を建て直したとか、建て直しつつあるとか、みんな元気に再出発をしつつあるようだが、口をそろえて言うのは、その親の世代の心の傷。命を奪われることもなく、けがをしても大したことなく、けがそのものからは回復していても、一度失われた気力が戻ることがないと、そのことを嘆いていた。
 震災前になにをしていたのか思い出せなかったのだが、年を越し、その日が近づいてくるにつれ、主に記憶力の確かな子供たちの言葉でいろいろなことがよみがえってくる。三日の夜、猪名川で震度四の地震があったとテレビの速報で見たが、一月になっての地震はぞっとする。病気の時には夏になると、記念日症候群というやつのせいで鬱状態になってくるのだが、この時期は神戸に住む人みんなが似たような気分になっているのではないだろうか。
 町へ出ると、震災の日の特集番組の取材なのか、テレビ局のカメラが阪急三宮駅の建てかわったビルを撮影していた。忘れまいとして、時折かさぶたをはぐだけで、私自身、ふだんの生活に震災を意識することは確実に減っている。私のように被害の少なかったものと、被害の大きかったものとの意識は、今後ますます広がって行くに違いない。  正月はぼんやりテレビを眺める時間が長いが、年の瀬は阪神大震災とオウムのことばかりであったのが、新年の四日、海外旅行に出かけるタレントのゴシップばかり。おそらく十七日の前後に記念番組が集中し、次第に薄れ、あとは文字どおりの年一度の記念日だけの取り扱いになっていくのだろう。
 震災の後、ずっとコンテナで営業していた店舗が、しばらく見ない内にプレハブ建築ながらふつうの建物になった箇所もあるにはあるが、ほとんどは空白のまま。仮設住宅の使用は二年ということだが、実際にはその二倍、三倍の時間が必要だろう。六甲アイランドの仮設、仮設の中では結構よいらしく、そこに住む老夫婦が、わたしら、このまま、ここでかめへんわと言っていたが、そういうわけにもいかぬし、その言葉自体がどうにもやりきれない。

  96/1/7
 かつて監督をしていたソフトボール部の卒業生が家に遊びに来てくれた。あれ以来、はじめて会うので、話題はどうしても震災の話、だれが無事で、だれが被害にあったなど。
 一人は家が半壊し、両隣の家がもたれかかってきたとか。神戸市兵庫区に住んでいる彼女の近所で家の形が残っていたのは四軒だけとのこと。大工が娘さんのために建てた家を買い取ったもので、柱も梁もふつうとはくらべものにならぬほど立派、そのおかげでどうにか助かったらしい。その家が先日ようやく改築が終わったところ。
 県警の庁舎がすぐ近所で、子供と一緒に空手を習っている彼女、師範である刑事が無事かどうか夜が明けてすぐに聞きに行ったところ、「まあ、なんとか」と顔見知りの刑事が曖昧な返事。あとで聞いたところによれば、ちょうど勤務している時間帯で、三階建ての庁舎の一階部分が押しつぶされ、そこからどうにかこうにか助け出され、家族の安否確認もままならぬ状態で、そのまま勤務について出動して行った。刑事は山口組に爆弾を仕掛けられたと思ったという。
 彼女のご亭主は港湾関係の建築会社、関西新空港の埋め立てなども請け負っていたらしく、一番大切な会社の装備は船ということで、通常の勤務の時の職種に無関係で現場に出る必要があり、一度出勤すると、何日も戻って来れず、わがままを言ってはいけないと思いながらも、行かないで、と何度も泣きついたという。
 一人は航空会社の地上勤務。ポートアイランドにあるK-CATというのか、関西新空港へ向かう船があるが、その乗り場にも勤務地があり、震災当日、彼女の同僚は朝6時過ぎからの勤務のため、タクシーでポートアイランドに向かっていて走行中に地震発生。まわりの家がぐしゃぐしゃとつぶれるのが見えて、「お客さんどうしますか」と運転手に言われ、とりあえずそのまま出勤しようとしたが、神戸大橋が落ちて島に入ることができず、運転手に「私の家でよかったら、お茶でも飲んでいきなさい」と言われ、親切な申し出に甘えることにして、六甲道方面に向かった。そして運転手の家に着いたところ、家が全壊していて、下敷きになった奥さんを近所の人が助けだそうとしているところに遭遇、「すまんけど、ここから自分でどうにかして」と運転手に言われ、歩いて大阪方面に向かったが、運転手の奥さんは生きて救い出されたかどうかは不明。
 関西新空港側の勤務地では、地震情報が正確に入ってこず、神戸からだれも出勤してこないので、ひどいことになっているらしいと、大慌てで情報の収集がはじまったという。  一人は大手建築会社勤務。地震の直後から、早く出勤しろとやいのやいのの催促。この会社もまた営業であろうが事務であろうが、動員できるものはみんなかり出され、しばらくは大変な状態であったらしい。問題の発生が予測される地域の解体作業などは、社内でさえも秘密の扱いで、突如出動命令が下り、奇襲作戦さながらであったらしい。
 震災の後、風呂に入れず、あちこち渡り歩いた話しになって、自衛隊の風呂はもちろんだが、一人は山越えして有馬温泉の公衆浴場、一人は新神戸駅近くのラブホテル、一人は福原のソープランドで入浴したという。知らなかったが、ある時期、近所に無料で開放していたらしい。

96/1/10
 先天性斜視弱視で生まれ、手術の結果、見た目はふつうになったが右目の視力は回復しないまま。そんなわけで幼い頃からいろいろな眼科にかかっている。そんな中で一番長く世話になったのが東灘区甲南市場近くのH先生。弱視治療の先駆者であったが、私の場合、その一番初期の患者、長くリハビリをして結局はうまくいかなかった、それを失敗例として学会に発表し、失敗を認めたがらない医者仲間からは総スカンをくらった人。正確には失敗例というよりも、不成功例と言うべきで、私の時にはノウハウそのものがなかったのだ。この年になってなお、病院に行くと、大勢の患者の前、子供の頃の呼称で「ちゃん」づけで呼ばれるから困ってしまうのだが、先日、奥さんと話をした。
 震災で医院は全壊し、部屋から出るのに二時間かかった。扉をけやぶるとよく言うが、あれは体力のある若い人の話、布団を体に巻いて、何度かぶつかってみたように思うが、そのあたりの記憶が消えて、どうやって出たのかわからない。
 すぐ裏に豆腐屋があって、火を入れる直前で(昔なら午前四時頃に火を入れていたろうが、最近は機械化されていて、ちょうど地震の起こった頃が仕事のはじまりであったらしい)、火事が起こらずにすみ、とにかく命だけは救われた。
 住吉川沿いのマンションに娘が住んでいるので、そこに避難したところ、十九日に原因不明の火事があり、マンションは焼失。少しでも着るものを持ち出そうと、医院に戻ってみたら、泥棒にやられたあととのこと。ひとつの家族を何度痛めつければ気が済むのだろうか。
 ちょっとした大学病院並みに機材をそろえてやっておられたが(儲け主義の医者ではなく、盲学校の生徒の作品を自宅に保存するなど、私財を投入し、様々な奉仕活動にも取り組んでおられた)、一カ所だけ割った窓から、二十人の人を頼み、半数が中に入り、あとの半数は、もしも家が崩れた場合の救出にそなえて待機し、その窓を通る大きさの機材を持ち出すのが精いっぱい、壁をこわしてという話しもあったが、倒壊の恐れがあって、涙をのんだという。ほかのものを無理して持ち出したところで、精密機械、激しく揺すぶられ、転倒したものが正常に作動するかどうか調べようもない、着るものひとつ、すべて一から買わなければならんばいと、奥さんは目をうるませて語った。
 つい最近、元の医院から少し離れたところに部屋を借りて、また診療をはじめられたのは、ややこしい目をした私にとって、とてもありがたいことだ。


ちょうど一年です、神戸からの報告へお進みください。


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