まだおわりにできない神戸からの報告(95/5/7〜5/31)


95/5/7
 連休も終わりの日。板を裁断する電動工具の音と、瓦を剥ぐ音と、洋瓦の下地を固定するパチンパチント言う、ホッチキスに似た工具の音が、それぞれ別々の方角から聞こえてくる。ガレージに止めた車の上には、茶色い砂埃が層をなして堆積している。家のまわりのちこちで、地震の爪痕の修理がはじまっている。
95/5/8
 家が全壊、仮設住宅にも入れず、避難中の学校の寮からいまだに出られずにいる三姉妹の二番目が、職員室にやってきて、新聞部に入りたいと言ってきた。高校三年生の部員が出てしまうと、実質的に活動ができなくなりそうだったので歓迎。あらゆるメディアで地震の記録を残しておくのが、地元に住むものの義務だと思い、震災のその後について特集を組むつもりでいた。彼女にもそのことを告げたが、いやがる様子もなく、積極的に協力してくれるとのこと。不安定な生活の中にも、彼女なりの安定を見出しつつあるのかもしれない。
 部長をしている高校三年の生徒は、連休中、長田でボランティア活動をしてきて、天候の悪い中、テントでの生活もしてきた。機会あるごとに行政もメディアも区切りをつけたがっているが、事実はそう簡単にいかない。安定を取り戻しつつある生徒もいる一方で、重傷を負っていた生徒は、あいかわらず教室に入ることはできない。
 井狩春男の「ベストセラーの方程式」(文庫版)のなかに、こんな記述があった。「テレビや雑誌で間に合う内容、あるいはその方が速く情報が伝わるようなものであれば、速くて二〜三カ月後になる単行本を出す必要はない。また出しても売れないことが多い。例えば阪神大震災については、一番はテレビや毎日出る新聞。二番は週刊誌。三番は月刊誌や臨時増刊やグラフである。かなり遅れて出る単行本を読む人は少ない。」
 あくまでも書店の側の立場を述べているわけだが、私が今している記録にもどういう意味があるのか、今のところわからない。震災のさなか、たとえば関東大震災で学校という組織がどのように機能を回復していったのか痛切に読んでみたかったのも確かで、震災の悲惨や建造物の被害のすさまじさを記録する記述は、勤務先の図書館にもいくつかあったが、組織がどう対処したかについては、たとえば後藤新平の話などはあっても、企業は学校といった単位のものはなかった。
 そういうことを考えていくと、新聞などとは違った、世間の好奇心からすればむしろ些末と思える対象をみすえての、詳細な記録をしておくことの重要性がある気がする。医療について、学校について、鉄道について、水道について、ごみの処理について、水洗便所について、ともすれば全体像を残そうとするあまり、記録の「部分」にされてしまうものこそ、きちんと検証し、残しておかなければならないのだろう。パソコン通信で様々な情報が交換されたが、今述べたようなジャンル別というのか、マスコミの記録からは欠落していく可能性のある部門別の記録を、ボランティアが組織化されるに至る過程を含め、どこかで統合していかなければならない。

95/5/11
 神戸市東部のある小学校。現在も避難者が多く、のいてくれと言うわけにはいかず(市が教室からの移動を交渉したが、避難者を怒らせる結果になったとのこと)、校区内の別の小学校近くの公園に仮設校舎を建て、そこで授業を行っている。 自分たちの本来の学校は、校舎だけではなく、運動場にも、駐車中の避難者の車であふれていて、体育などに使用できない状態。仮設校舎(私自身、毎日のように前を車で通っていたが、ずっと仮設住宅だと思っていた)への移動を求めることも検討したが、水道施設の問題があり、うまくいかないという。 このあたりは火災はほとんどなく、住居がもろに倒壊したところ。その学校に通うかなりの生徒の家そのものが住めない状態。校舎からの立ち退きをせまるということは、同時に児童の居住場所をも奪うことになってしまう。運動場が使用できないために、体育の時は、かなりはなれた、被害の少なかった山の近くの学校にまで移動しているらしい。

95/5/13
 一晩に降った雨量が、平年の五月ひと月分に匹敵するらしく、昭和四十二年の阪神大水害を思い出した。風向きのせいなのか、限度を越えた雨のせいなのか、子供部屋の壁を伝って、雨が漏ってきた。これもまた地震のせいである。地震直後から梅雨の時期を恐れていたが、解体作業に入りかけていたビルが倒壊したり、あちことで恐ろしいことが起こりかけている。
 NTTから協力の申し出があり、勤務先の学校のホームページを作ることになった。教師ではなく生徒自身からの情報発信を目指し、あれこれ考えてから、生徒に英語で書いた作文や写真などの、様々な資料の提供を求めてみた。女子校であるせいもあろうが、インターネットについて知識がないものがほとんどで、これこれしかじかと説明すると、おもしろい、すごいと身を乗り出してくる大多数のものと、複雑な表情をする少数のものの二種類にわかれた。全員に声をかけたわけではなく、地震直後の授業で書いてもらっていた英作文を読んだ上で、これはという生徒に個別に依頼してまわったのだが、被災の程度がどりらかといえばひどい生徒たちでも、現在の自分を示す写真の提供をすすんで申し出るものもいた反面、あとずさりするものも当然いた。
 あとずさりした生徒を見ると、こんなことをしてもいいのだろうかと、一瞬ためらいを覚えるのだが、逆に、だからこそ、情報を発信できるものが、今ある状態を伝えていかなければならない、つたえることが結果として残すことにつながるのだと、思うわけである。
 あらためて地震直後の学校の状態がどうであったか、生徒の通学経路がどうであったかと、資料を手に入れようとしても、ほとんど手に入らない。写真による静止画も含め、映像で記録をするという行為が、死者や負傷者を冒涜する不謹慎なことに思われて、自己規制してしまっていた。プロのカメラマンが職業的な立場で写真撮影をするのはごく当たり前のことだが、学芸会や運動会を写すのと近い精神のあり方で、個人の立場で、私的な記録を残すことの難しさを実感している。あちこちから写真をかきあつめて事実らしきものを再構成したところで、現実にあったことにたどりつくのは、もう不可能だろう。

95/5/17
 震災発生から四カ月が過ぎ、外から見て大丈夫だと思っていた近所の家のあちこちが取り壊されはじめている。よく調べてみると実はだめだったというのが、結構ある様子。
 ホームページを作るにあたり、学校という立場から地震体験の報告をしようと、生徒たちに英語でのレポートの提出を求め、最初拒絶していた生徒の何人かが、熟考したのち、やっぱり参加すると申し出てくれた。それぞれのところで、それぞれの傷の癒し方をはじめていることを喜びたい。
  戦後五十年ということもあるが、先日、戦争体験についての文章を読む場所があって、戦争そのものではなく、戦争の時に生きていたひとりひとりには、怒りと哀しみだけではなく、喜びも楽しみもあったはずで、そのこともきちんと残しておかなければならない旨の発言があり、今度の地震の時に私が感じていたことにも共通する部分があって、共感した。地震についても悲惨の記録だけではなく、市民の生活を残しておく必要があるに違いない。
 それにしても、いったい現地というのはどこのことを言うのか。現地というのは、被災地のひとことでくくられる「点」ではなく、広大な広がりを持つ面で、「ここが現地です」という掲示もなければ、現地であることを認定するだれかがいるわけでもない。私は被災地にあり、怪我もせず、家族のだれも失わず、居住空間を奪われることもなく、死体を掘り出したわけでもなく、ボランティアに励んだわけでもなく、勤務先のことも含め(生徒が日常性を取り戻すためには、どうしても学校をはじめることが必要だと思った。その学校の中でも、ボランティアに出かけていくべきか否かの、意見の対立があったのも事実だ)、自分の日常性を取り戻すことにのみ力を注いだ。被災地にいたくせに、傍観者であり続けたことが、戦争を知らず、戦争を止められなかった大人を非難した、戦争を知らない子供たちであったことを、逆に問いかけられているのであろうか。
 阪神大震災から二ヶ月目を過ぎた辺りから垂れ流されてきて、そろそろ沈静化に向かう兆しのある宗教団体の騒動についても、登場人物の固有名詞から出身大学、入信に至る経緯に至るまで、すべてを知りつくしているつもりで私もいるが、あの事件のなにを私は知っているのだろう。

95/5/21
 一月十七日 靴を履いていなければ部屋を歩けないような状況で、パワーブックを持ち出してこの報告を書き始めたとき、近所のあちこちに崩れている箇所があり、窓から三カ所ほど、町に大きな煙があがっているのが見える以外、テレビもなく、ラジオもなく、なにもわからなかったが、暖房のない寒い中で、悲惨の報告だけはすまいと思っていた。ほかならぬ自分と自分の家族が無事であったからこそ、そんなふうに思ったのであろうが、ガンの時に病気を楽しむと言うような余裕が全くなかったために、この次、死と直面する機会が訪れたら、死をかいま見ながらも余裕のある態度がとれないものかと、無理な願いを抱いたことも、その理由のひとつだった。
 一日目、二日目は、比較的落ちついていられたが、兄一家が避難してきて、同じ屋根の下に両親を含め、十一人が暮らすようになって、食料や水の確保に奔走しなければならなくなり(避難所の方が水や食料が手に入りやすかった)、電気が最初に回復し、煙しか見えない町の状況が、死者、行方不明者の数という具体的な数字で見せられるにつれ、のんきをよそおい続けるのが難しくなって、この報告も悲惨を訴える評論家的な部分が出てくるようになった。評論という人を切る刀は、必ず自分をも傷つけるわけで、そういうお前はなにをしていたのかという言葉になって跳ね返ってくる。
 学校再開に至るまでの間、職員室の勤務態勢は五人の当番制だった。当番制と言っても、交通網の寸断のはなはだしい地域にあって、出勤できるものは限られており、五人のメンバーはほとんど入れ替わることがなかった。その当番の五人に、学校を避難先にしている教職員が数人加わって、安否確認の作業に当たった。電話が復旧してから受け取る電話の数たるやすさまじいもので、職員室へつながる三本の回線があいている時間は全くなかった。生徒からの報告、遺体安置所への親族の安否の確認を求める電話、また役所から派遣されている職員への連絡、卒業生から教師の、卒業生から卒業生への安否の問いかけなど、手を休める暇はなかった。
 そういう中で、やはりボランティアに出かけるべきか否かのやりとりがあり、実際にボランティアに出かけるものもいて、学校はますます手薄になっていた。電話を受け取りながら、その資料を集計する作業も同時にやらなければならなかった。そしてまた、そういう職場に出勤してくる前に、ほとんど全員が自分たちの家族のための水くみやら食料調達に走り回っていたのだ。係をしている図書館にしても、三人の司書の内、出勤できるのは一人だけで、六万冊の書籍を修復するのが可能かどうか、最初は途方に暮れたものである。学校という職場は、やはり千八百人の生徒が日常性を取り戻すための装置であるから、その回復を目指すことこそ、公共への奉仕だという意見と、いや非常時には自分たちが禄をはむ職場を投げ出し、より困っている人のために力を注ぐべきだと言う意見の対立については、結論を出さないまま、今日に至っている。
 図書館に関わっている関係もあり、書評を見ることが多いが、震災のあと、あまた出版された地震関連書籍についての書評は、節度なく感動してほめあげるものか、冷徹に、もっと別な行動の取り方が可能であったのではないかという批判めいたものと、二通りに分けられる。
 新聞やマスメディアは事実を伝えるのが仕事で、評論家はあるべき姿を論じるのが仕事、そうすると評論家でもなく、新聞でもない、たとえばこのパソコン通信のようなメディアは、何を伝え、何を残していくべきなのか。ボランティアの情報や交通情報、生存者の確認など、ある程度の速報性のある掲示板的な役割のほかに、「マス」ではない個人のメディアとしての役割をどのようにとらえ、どのように総括すればよいのであろうか。  病気の時もそうであったが、震災のことに関しても、異常事態で神経が高ぶり、価値のない情報を垂れ流しただけだと言う批判も一方で可能だということを認めるが、部外者が考えるほど、当事者は異常な精神状態にあるわけではなく、実は、心の片隅で、むしろ異常な精神状態にあるふりをしたがっているだけだということも見逃さないでもらいたい。

95/5/22
 先日、教え子の結婚式に出席した。高校在籍中、三年間、担任をした生徒で、母親がやっている店が全壊の被害を受けている。当初、予約していた結婚式場もだめになっていたが、母校のチャペルで挙式を、そして学生食堂で披露宴。簡素で好もしい式であった。
 NHKの放送記者である新郎は、一月十七日がちょうど当直だった。地震当日は停電で見ておらず、結婚式当日、新郎新婦の生い立ち紹介のビデオにその場面が挿入されていて、私自身、昨日、初めてじっくり見たのだが、何度も放映されたらしい地震発生時の神戸支局の場面で、ソファーから布団をはねのけて跳び起きてくるのが、新郎その人であった。彼が神戸海洋気象台と連絡を取り、震度六(後に七に訂正されたが)を確認して、大阪経由で東京に連絡し、神戸が震度六であるという第一報が流れることになったらしい。首相官邸への第一報は、京都が震度五というもので、神戸の情報はなく、隣に座りあわせた副局長の話では、NHKでも一度は震度五に訂正されたという。地震直後の混乱ぶりが、なまなましく伝わってきて、こういう人たちと偶然に出会うこと自体が、神戸に住んでいることを実感させた。
 新郎は大学時代に中国へ留学していて、その二年目に天安門事件い遭遇しているらしく、ジャーナリストとしては強運の持ち主ということになる。
 これは余談だが、ちなみに新婦の誕生日は一月十七日であった。

95/5/23
 学校の用事で三宮に出る。文明の中断と言えば大げさになるが、ものごとの終わりとはじまりを、これだけ大規模に見られる機会は一生のうちに何度もない。なにか壮大だが、同時にむなしいものを見せつけられている思いがする。完全な解体はともかく、膨大な応急処置の果てにくるものは、なんであろうか。
 そごうは左右を残して、中央部はすっかり削り取られている。今は残っている左右の部分はどうなるのか。古い建物を、改装に改装をかさねて、建物全体を化粧板のようなもので覆ってあったが、えぐられたところから、かつての建物が一部のぞいて見える。センター街を歩く。アーケードのなくなったのがかえって開放的で、いい気分。路地を通り、モロゾフの前を通る。中をのぞくとショーケースのお菓子に白い布がかけてある。すぐ前のビルが地震で取り壊しになって、太陽が直接あたり、チョコレートを溶かしてしまうのだ。これもやはり地震の、予期しなかった傷あとなのだろう。
 全壊した知人に、新しい家の工事はどうなったのか尋ねてみると、自宅の境界線があいまいになって、隣の地主との間で話がこじれているらしい。終戦直後、母方の祖父の土地が、見知らぬ人に奪われたことがあって、その時も境界を示す証拠がなく、泣き寝入りすることになってしまったのを思い出した。不動産というのが、いかにも確実な財産として扱われてきたが、実にあいまいなものによって支えられてきたのを、改めて思い知らされている。
 学校では中間考査が行われているが、採点をしていると、地震の影響をひきずっているのを無視できない生徒が、かなりの数いる。地震までは安定した成績をとっていた生徒が、震災後の居住状況によって、十分な学習ができず、それが成績にあらわれているのだ。
 さらにまた、高校生活はなんとか続けられることになったが、大学進学の見通しが立たない生徒もいて、意欲を失わせているケースもある。いつもはあまり数の多くない、返済義務のある大学予約奨学金に関する問い合わせがたくさんあるのも、特徴的。今年は大学入試に関して特別な措置が、あちこちの学校でとられたが、阪神地区の受験生の「偏差値」なるものは、他地域に比べ、大きな影響を受けているに違いない。

95/5/26
 アスベストの危険性を訴えるビラと防塵マスクが学校で配られたのは二度目である。女生徒たちは格好悪いのを理由に、だれも使用しようとしないが、私はガンに対する恐怖心からいまだに抜けきれずにいるので、ふたつばかりもらった。前回配布されたときは、花粉症の時期とも重なっていて、私自身、毎日のように使用したが、今回は鞄にいれておいて、よほどひどい地域を通行するときにのみ使用している。
 テント村について、雨の心配ばかりをしているが、夏が近づくにつれ、強い日差しも大変な苦痛を強いている。仮設住宅とテントで、市内の開いている土地のほとんどすべてが埋め尽くされているわけだが、そこに暮らすすべての人が、新たに住居を獲得し、あるいは建て直して、もとの生活を取り戻すことなどありえるのだろうか。住む場所を失った人たちの公営住宅を新しく建てようにも、建てる場所そのものがないのではないか。
 いくら土地があったとしても、すでに年金生活に入っている老人が、新たに家を建てることなど不可能に近い。市会議員選挙がはじまり、仮設住宅を建てることをマイクで演説しながら車を走らせていくが、仮設住宅から強制的に入居者を追い出す日が、いずれやってくるのは間違いない。その日のことを考えながら、仮設住宅を建設を押し進めていかないと、またもや修羅場を見ることになる。

95/5/28
「阪神大震災、心よりお見舞い申し上げます」の枕詞ではじまる張り紙が、取り壊し寸前の商店のゆがんだシャッターにはってあり、「短い期間の営業でしたが、やむなく廃業することにいたしました。みなさまには一日も早く回復されますことを、心よりお祈り申し上げます」という店主自らがマジックで書いた口上が続く。

95/5/29
 家屋全壊し、半ば生き埋め状態から脱出した人。堀り出した電話機、プッシュホンのボタン部分がじゃりじゃりいっていた。分解掃除して砂を取り除いたが、結局は使えなかった。捨てるに捨てきれず、あきらめていたところ、電話屋が来て、アダプターを交換してもらうと、よみがえったらしく、そのことをうれしそうに告げに来る。失われたと思っていたものがよみがえる、なにものにもかえがたい喜びなのだ。
 阪神大震災の時のマスメディアの取り上げ方について、神戸以外の地域でどうであったか、私は知らないのだが、地下鉄サリン事件以来のオウム真理教関連の報道、そして今夜一晩のことだろうが、横綱貴乃花の結婚式についてのテレビの取り上げ方、あるいは事件ではないにしろ、ラジオのAM放送でのナイター中継など、どうしてこうもすべてが横並びなのだろうか。どこかを出し抜いてやろうという、報道機関らしい意気込みを全く感じさせない、なれ合いのいやらしさに辟易する。
 神戸からの報告として、ひとつのことにこだわり続けてきて思うことだが、パソコン通信というメディアを使って、マスではなくピンポイントの、パソコン通信社とでも呼ぶべき、仮想新聞みたいなものができないかと思う。取材は現場主義というのが原則で、メディアも基本は忠実に守っている。しかし、現場に出かけてくるのは、現場にとってのよそ者ばかりで、いわばみんな現場ずれして、そつのなさだけが目立ってしまう。今回の阪神大震災の私の立場がそうであったように、現場には必ずそこに暮らす人がいて、事件には当事者がいて、当事者にきわめて近い人がいるわけで、増え続けているパソコン通信の会員と、現場に暮らす人、当事者に近い人が重複してくる可能性が、年々高まっていくとのだろう。
 たとえばパソコン画面上に日本地図のようなものがあったとする。どんな事件も現象も、いつ起こるかわからぬが、必ず場所というものがあって、その場所には必ずそれに関わる人が住んでいる。情報を伝えたい側の者は、地図上の事件ないしは現象の起こった場所をクリックし、そこに書き込みをする。情報を知りたい側は、たとえばどこそこで、これこれという事件が起こったというのを新聞で知ったのち、画面上のどこそこの場所をクリックして、書き込みを探すというようなことができるのではないだろうか。

95/5/31
 サハリンでの大地震のニュースに、あの日、あの朝、あの時の衝撃の記憶がよみがえってきたのは、私だけではないだろう。その瞬間、被災地の中にいた私は、被災地の外の人間になった。被災地の中の傍観者であったものが、被災地の外にいる、なんの価値もない傍観者になったのである。
 ある意味で無責任な言葉を垂れ流してきたことが(被害が小さく、かつ汗をかかなかったことを理由に私の書いたものを非難する、阪神大震災における外の人もいたのは確かであるが)私は、自分自身が放ったのと同じ批判の矢を、自分に向けられることになるのだろう。
 あの時、通信手段もなく、電気もなく、あらゆる情報から途絶した中に置かれていたのであるが、震災後、神戸からの報告にまつわる様々なつながりから、パソコン通信からさらに発展して、インターネットというネットワーク上で、起こっているいろいろな情報の動きがほんのわずか見えるようになってきて、ある種の感動を覚えている。これまで新聞、テレビの報道が第一報であったものが、マスメディアとは違うルートで情報が流れてくる時間の逆転現象を体験していることも、きわめて重要なことなのだということを、身を持って知りつつあるところだ。テレックスで外信が入り込んでくる場面をテレビや映画で見て、自分とは無関係の報道現場だと思っていたことが、自分の書斎のパソコンの中で進行しているのだ。
 ニュースを発信する人がいて、それを媒介する人がいて、ニュースの向こう側に無償の行動を起こす人がいると言うこと、これらすべてのことは大変なことなのだ。そして、形を変えて、それらの動きを統合しようとする人たちもいて、それでもなおかつ大勢の人が救われないでいる事実は残るのだが、行動することのない批判を繰り返すよりも、ここにいてできることを考えていかなければならない。募金もそのひとつであるのなら、募金をして、それを身近なところで呼びかけることくらいはしなければと、居ても立ってもいられない気分だ。
 震災後、学校復興のために走り回った友人が、脳出血で倒れたのを昨日知った。彼は家が全壊した西宮市から自転車で五時間かけて通勤し、朝から晩まで、働き詰めに働いた。自宅の整地をすませ、あとは家を建て替えるところまで来ていたのに、今度は境界線がわからないというトラブルが発生。市の職員に立ち会ってもらいたいという隣の地主からの申し出で立ち往生。市の職員が立ち会いに来ることができるのは三ヶ月先だという。
 彼のくわしい容態はわからぬが、無事に手術に耐え、職場に復帰できる日が来るのを強く望む。サハリンについてのニュース速報であの日の記憶がよみがえり、友人の脳出血のことで、ガンを告知された瞬間の記憶がよみがえってきた。暗い表情ひとつせず、働き詰めに働き続けた彼に、なにか壮絶なものを感じている。家の下敷きになったものだけではなく、彼もまた地震に健康を奪われてしまったひとりだ。その日の内に医療団を組織し、現地に向かって飛び立ったAMDAの人たちも(ついこのあいだまで、神戸で働いていたに違いなく)、無事に任務を遂行されることを心より祈る。
 なにを書いても、傍観者の位置にいる自分の足場のいいかげんさが際だつようで、つらい。それでも書き続けずにはいられない私を、お許し下さいと、誰に対する思いなのかわからぬが、とにかく書いておく。


夏になっても神戸からの報告へお進みください。