やめてなるものか神戸からの報告 95/4/16〜4/28)


95/4/16
 世間の話題が防災から防犯へと、微妙に変化している。防犯の対象は人で、防災は自然、危機管理という言葉でひとくくりされがちだが、実際は似ているようで全く違うものだろう。防災における初動の遅れの指摘が、防犯上の問題にすりかわっていくのは、ちょっとどうかと思う。今後、一般論として危機管理を論じるとき、犯罪の予防と災害の予防を混同してはいけないということを、きちんとおさえておかなければならない。
 震災で重傷を負い、ずっと入院していた生徒が、先日の土曜日、はじめて登校してきた。二人の親友にはさまれ、庇護されるように、恥ずかしそうに、不安そうに、職員室に入ってきた。直後に見舞いに行った担任からは、全身に包帯を巻かれ、わずかに見える顔が腫れ上がり、本人かどうかすら識別できないほどひどい様子だったと聞いていたが、見た目はもとの感じに戻っていて、安心した。教室で会えるかと思い、授業に行ったが、やはり以前と同じ空席のままで、あとでどうしたのかと担任に聞くと、職員室からそのまま保健室に行ったということだった。登校してくるだけで、まだ十分に回復しきっていないエネルギーのすべてを使い果たしたのかもしれない。
 担任に配られている被災状況の資料を見ると、全壊、半壊の「壊」の文字がほとんどひとりおきくらいに並んでいて、昨年までの資料と現住所との食い違いの多さに、現在なお被害を引きずっている現実を突きつけられ、愕然とする。授業をしていても、震災前は予習を欠かしたことのない優秀な生徒が、簡単な問いにも答えられないことがあり、彼女の今の帰宅後の生活と心の中を、あれこれ創造してしまう。

95/4/18
 一日置きの雨。今年、普段と違い一挙に咲いた桜もあっというまに散ってしまった。震災で重傷を負っていた生徒の話の続き。月曜日は通院のため、火曜日は発熱のためという欠席届があった。心も体も、癒えるという状態からほど遠いに違いない。震災以来、所有欲がなくなったとか、人を思いやる心が芽生えたとか、他人のことに無関心に思えた都会の住民が助け合っているのはすばらしいとか、実にさまざまなことが言われてきたが、そのいずれも事実であっても真実ではなく、絶えず変化し続けている長い時間の一断面に過ぎないのではないか。これが地震における人の心のありようだというようなものは、いつまでたっても出てこないに違いない。

95/4/19
 前に住んでいた人工島の知人から電話。三宮の中華料理屋のコックさんをしていたご主人が地震のために解雇され、大阪のファミリーレストランにようやく職を見つけたとのこと。病気の子供も抱えて途方に暮れていたが、一段落。未来を指向するコンピュータ制御の無人電車、ポートライナーは復旧の目処が立たず、臨時バスに頼っているが、人工島にある企業の従業員を搬送するのにめいっぱいで、毎日が大変な混雑、歩いて行き来している人もいる。
 小学校の卒業式で、突然立ち上がった私も知っている人が、世間をさわがせているサリンはオウムのせいではないと演説をして、華やいでいた式が一挙にしらけたという話。彼も病気の子供を抱えている。だれも知らない間に引っ越してしまったから、あの人も関係者だったのだといううわさで持ちきりとのこと。奇妙なことが多すぎる。

95/4/20
 朝、犬の散歩に行こうとして、家の前で狸を見た。山に近いところだが、狸を見るのはここに住みはじめて五年になるが、はじめて。めずらしいものを見ると、ついなにかの前兆ではないかと疑ってしまう。地震で壊れたスチール製の書架の整理がやっと終わり、ようやく荒ごみに出せる。いつのまにか本が再び増えはじめている。割れて減ってしまった食器は、まだ補充する気になっていない。六甲道に用事があって、マンションが全壊し、大阪に避難中の人の駐車場を借りようとしたら、すでに工事車両が違法駐車していた。

95/4/21
 重傷だった生徒、一日登校してきただけで、その後はまだ出てこられない。週の内、三日はリハビリのための通院、見た目はどうもないと思うのだが、本人によると顔のことが気になっているらしく、そのほかの日もなかなか出てくるのが難しい。しかし、地震の特集を組むことにしている学校新聞に手記を書いてもよいと言っている。闘っているのだ、恐怖を克服するために。書くこと、心にあることをすべてあからさまに書いてしまうこと、ガンから立ち上がるために私がまずやったこと。実際に筆をとることができるかどうか、まだわからないが、とにかく筆をとり、自分を客体化しようとしているのは確か。吐き出すことで立ち上がれる、きっと。

95/4/22
 カメラを使おうと思って出してきたら、レンズの部分がばらばらになっていた。直後には気がつかなかったあちこちに、地震の被害がある。書斎の窓から見える町の光はかなり戻ってきているが、それでも地震前を百とすれば、七十くらいのもの。残っている建物がどうしても際だつために、あんなものが前からあったかと思うことがときどきある。毎日思うのではなく、ほんのたまに。
 罹災証明と税金の話は前に一度書いた。半壊、全壊は簡易計算表を使って処理されているが、一部損壊については、税務署もいろいろであるらしい。申告がはじまって最初の頃は、一部損壊も簡易計算表を使って機械的に受理されていたものが、最近になってにわかに税務署の対応が厳しくなってきたという。罹災証明が必ずしも被害の実態を表していないと税務署が疑っているわけだ。当初、機械的に受理しておいて、最近になって厳しくなると言うのは、どうにもげせない。震災直後は人を思いやる心が芽生え、寛大になっていたのが、状況が落ちついてくると、急に入るべき収入が減るのが惜しんでいるようで、あまりいい気分がしない。夜景の、明かりの戻っていない部分が減収分だ。きっと税収に一喜一憂する立場の人は、明かりの多寡を税収の増減に当てはめて、夜、物思いにふけるのかもしれない。税金の事だけではなく、すべてにわたって、身を投げ出しても助け合うべしであったものが、損得勘定をしながら動くようになってきてしまっている。

95/4/23
 六甲道のコープ、店舗は全壊。以前、来客用の駐車場に使っていた縦に細長いビルを仮店舗にしている。車がぐるぐるまわりながら上にあがっていく、いわばすべてがスロープという構造。そのスロープに商品を並べての営業。日曜日の人出はかなりのもの。買い物をし歩くという活気を待ち望んでいたのだ。ずっと数は減ったとはいえ、被災地ルックの人はまだまだいる。テント生活の人は今日の厳しい雨はこたえただろう。そういえば今朝、豪雨の中、犬にレインコートがわりにビニールシートをまきつけて散歩に出かけた時、家が半壊、屋根は瓦が落ち、外壁も内壁も落ちているすぐ近所の人、一家で車に乗り込んでいた。姫路に親戚がいるらしく、雨があがるまでそこへ避難するとのこと。

  95/4/24
  昨日の強風豪雨の時、勤務先の講師の家では、地震で壁が剥落し、ビニールシート一枚だけが一階の南面を外部と隔てる唯一のよりどころ。風が吹き込み、あおられ、屋根が飛ばぬかと恐怖でまんじりともできなかったとのこと。そういう家でも罹災証明上は一部損壊になっているらしい。再申請が可能かどうか知らぬが、もう一度役所に出向くことを勧めておいた。役所は地震直後に専門家の手を借りて、外部から見て歩いて、被災地図を作成したと言うが、曖昧な部分がかなり残っているはず。古い家の場合、単純に地震だけの被害と言い切れないかもしれないが、実際に不自由を生じているのだから、柔軟に対処すべきであろう。
 宗教団体がらみと地震を並列して、世紀末現象とくくる傾向濃厚だが、自然現象は精神状況としての世紀末と無関係。今なお残り、癒えることのない災害のあとを、世紀末の一点景にされてはたまらない。東京でなくて良かったという地震さなかの論調と同じで、宗教団体がらみも神戸でなくてよかったと思わぬでもない。「日本」というのは、「東京」の代名詞みたいなもので、マスコミを支配するのは「東京」の出来事、国会を支配するのも「東京」の出来事、国論も「東京」の世論、この国には国会議員のいうところの地盤としての地方と、日本としての東京があるだけで、本当の意味の国というのは存在しないのではないかと思うことがある。よく言われる国家が幻想に過ぎないという言い方が、妙に説得力をもって響いてきてしまうのだ。嘘だと言うのなら、東京から政府の機能の一切合切をどこかにうつしてみたらよい。しばらくは「日本」という国家のアイデンティティを失って、右往左往するに違いない。

95/4/25
 またもや雨。重傷だった生徒、登校してきて、職員室までは来ることができたが、教室は遠い。高校三年で進路調査の用紙が教室で配られていて、あせりもある。通常の登校拒否とは違う。どう扱って良いのか、まわりが慎重になりすぎている。母性的なのは最近の学校の特徴。母性原理で支配されるのは必ずしも生徒にとってはプラスではない。黙って待つ、これしかないのか。病気のあとかなり長く、教師である私も教室に行くのにおびえがあった。回復していないエネルギーが、まわりの持つ活力に圧倒され、たじろいでいたのだ。
 全壊した家を建て直すことにした知人の話。プレハブメーカーに発注しようとすると、年内の着工はほとんど無理で、ひどいところになると三年先と言われたとか。プレハブが強かったという神話と、工期が短いと言うことで注文が殺到しているらしい。業界に偏りはあるだろうが、復興景気が存在しているのは間違いない。結局彼は、在来工法で建て直すことにして、早ければ年内に完成すると言うこと。避難生活はつらい。

95/4/27
 自衛隊の撤収式が王子競技場であり、歩いて行ける距離なので、授業の合間に見物に行った。サブトラックにはってあったテントはすでになく、数台の車両と簡易トイレが残るのみ。壁面が崩れ落ち、復旧工事をしている旧ハンター邸のすぐ下、福祉事務所の仮庁舎になっているあたりの金網、仮設住宅についての掲示があり、人数は少ないが、何人か真剣に細かい字をのぞき込んでいる。
 陸上競技場のトラックの周囲にトラックやジープが半円状にならび、まんなかに整然と整列した自衛隊員。来賓として防衛庁長官、知事、市長、地域団体、そろいの帽子の幼稚園児、スタンドには百名前後の市民と、その三分の一くらいの数の取材陣。自衛隊はカーキ色の戦闘服、県職員は知事以下紺色、神戸市職員は薄い草色の作業服。人数的にも色彩的にも、寂しい感じの解散式風景。自衛隊への複雑な思いのあることを差し引いても、閑散としていたのは、自衛隊と接触する機会の多かった人たちが、大震災にピリオドを打てるところまできていないというのが、本当の所ではないか。
 役所の縄張り争いみたいなちぐはぐもあったが、私も何度となく自衛隊の大きなトラックに引かれた小さなタンクから水をくませてもらった。まだ活躍を必要とする地域も多く残っているのだろうが、とにかく自衛隊は今日をかぎりに引き上げていく。組織だから当たり前のことかもしれないが、解散式の雰囲気をひとことでいえば、自衛隊はやはり感情を押し殺した集団だ。いちいち感情をあらわにしていたら、命令だけでどこにでも出動するのは無理だから、当然と言えば当然のこと。
 式は被災者への黙祷にはじまり、中部方面隊総監の挨拶、陸海空各自衛隊指揮官の報告があり、続いて防衛庁長官訓辞。一目見てシークレットサービスとわかる私服警官が、まわりに立つ。宗教団体がらみの様々な事件を思い浮かべ、ふと自分がカメラと違うものを持っていることを想像してしまった。防衛庁長官訓辞の途中、地震が来るまでは王子動物園の駐車場だったところを歩いてみると、自衛隊の車両が並んだところに、公園の時計があり、柱のてっぺんで首をかしげるように折れ曲がっていた。その文字盤にある針は、まぎれもなく五時四七分をさして止まったままになっていた。

95/4/28
 今日、明日と文化祭。かれこれ十四、五年、かつて私が生徒会の顧問をしているとき、市立盲学校の福来四郎先生が指導して、全盲の生徒たちに作らせた彫塑展を文化祭で催したことがあった。その時、生徒の発案で市盲生を招待しようと言うことになり、以来、交流が続いている。今年は集合写真だけをとって、スナップは写さないつもりであったが、高校三年になって来校するのが最後になる市盲生のご家族から、地震でアルバムを失ったから、できれば写してもらえないかと言われた。いわゆる社会的弱者と呼ばれている彼らにとって、地震の恐怖は私達とは比較にならず、学校の再開が遅れ、再開しても毎日授業ができない状態で、精神的に登校が困難になる生徒が続出したとのこと。
 防災拠点としての公園について。神戸市が提出した復興計画では、道路を広げ、大きな公園を作ると言うことが盛り込まれているのに対して、地域住民が自主的に作成した計画では、小さな公園をあちこちに分散配置するという形になっていた。
 そこでふと思い出したのは、水のこと。地震による断水というのは、夏場の渇水による時間給水とはくらべものにならぬほどの経験で、少なくとも近代都市においては初めてのことではなかったのか。一日一時間の給水であっても、その時間になると家で水をためることができるのと根本的に状況が違う。震災後、車に乗るなと言うことが行政から言われたが、水の重さたるや尋常なものではなく、必要最小限の水の運搬にみんなどれほどの苦労をしたことだろう。
 たとえば復興計画に盛り込まれている大きな公園に、地下タンクなどをもうけて給水所にするとして、そこから水の供給を受けなければならない住民は、どの範囲に及ぶのか。ポリタンクを素手で運ぶとして、どのくらいの距離が限界か年齢によっても違うが、強靭な体力の持ち主であっても、毎日のことになると、数百メートルがいいところではないか。
 ならば広い範囲の地域に大きな公園をひとつもうけるよりも、小さい公園を比較的狭い範囲にひとつ配置する方が重要であるか、あの苦行の記憶がある間にみんなが防災公園のあるべき姿を訴えておくべきである。火災のためとか、仮設住宅のためとか、いろいろ理由はあるかもしれない。しかし、大きな場所に大勢を集めて、少ない場所ですませようとするのはあくまでも管理する側の発想に過ぎない。これからはすべてにおいて、集中管理ではなく分散を考えていかなければならない。


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