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まだまだ続く神戸からの報告 (95/4/1〜4/14)

半年目の神戸(1)
半年目の神戸(2)
半年目の神戸(3)

95/4/1
 昨年から私の頭に一番頻繁に思い浮かんだ言葉は「ドメスティック」。その人がどの範囲に暮らしているかによって、指摘する「家庭」の範囲が変わってくる。町内で生活する人には、家庭にこもる人が「ドメスティック」であるし、それよりも大きな範囲で暮らす人には、町内にこもる人が「ドメスティック」ということになる。地震の時には、文字通りの「家庭」という範囲にまで「ドメスティック」度が萎縮してしまい(ひどい被害を受けたものはしかたがないにしても、被災状況の程度の軽いものも含めてそうだった)、その意識が学校再開に向けての動きの妨げになっていた。
 個人の目の高さでものを見て、個人の目の高さで判断するという意味の「ドメスティック」なら問題ないが、想像力を奪っている。自分が身動き取れないときは、全員がそうであるわけではないし、逆に自分が身軽なときも、みんなが身軽であるとは限らない。全員が仕事できない状態であれば、全員が休むべきと言う横並びの発想はごめんだし、仕事につけない人がいても批判すべきではなく、別にかまわないのだ。震災時、動けるものが動いたのが生活者というボランティアであり、動けるものも動かせなかったのが行政であり、動けるのに十分な働きができなかったのが、巨大な組織だった。サリン事件が引き続き起こったが、それら巨大組織が日常的に活躍する場面が増え、別の方面に向かって身軽になっていくのは、断じて好ましいことではない。
 さて、三月のはじめに神戸の西に住む人から、須磨、舞子の埋め立て工事が再開したという話を聞いて、そんなバカな話がこんな時期にあるはずはなく、嘘だと思っていたら、そのことが昨日の新聞に(行政を批判するコラムの形式で)出ていた。今あちこちで求められている復興に要する工事を十分にできないうちに、自然破壊だと反対のある工事を、震度五という古い耐震基準のまま進める、お役所の気持ちがわからない。
 舞子の浜というのは神戸に唯一残された自然海岸で、これが完成すると神戸から自然の海岸線がすべて消えてしまう。小さな海岸だけでも残してもらいたいという考え方自体、「ドメスティック」だと言われてしまえばそれまでだし、災害後、安全地帯を確保するために、様々な規制をもうけて、そこに住む人の権利をがんじがらめにしていると訴えることも、行政の立場からは「ドメスティック」ということになってしまうのだろう。
 建築規制も含めて、行政の処置がすべて悪いとは思わない。ただ、だれでも死に直面するほどの病気をすれば人生観が変わるように、震災では町が瀕死の目にあったわけだから、都市計画感なるものがもっと変わってよいはず。震災発生からわずか一ヶ月かそこらで示された、交通渋滞を引き起こしたから道を広げる、火災を最小限にくい止めるために公園を作るといった程度の、素人の私でも言えそうな都市計画案ではとうてい納得できないと言っているのだ。みんなが唖然とするほどすごい計画を見せてもらいたかったし、これからでも遅くはない。
 新学期にそなえて散髪に行って来た。新装オープンしたばかりの店だが、店主によれば自宅が全壊し、改装中、仮店舗にしていたプレハブに、今も家族と暮らしているとのこと。理髪店にしては値段が高いと思ったが、まあ、いいか。

95/4/2
 昨日、開通したばかりの東海道線に六甲道駅から乗る。東西に長く、南北に狭い神戸の町の、六甲山の向こう側をのぞけば市街地の北に位置するところに私は住んでおり、六甲道は中央部やや南に位置することになる。距離にすればごく短いこの間に、南北問題とでも呼びたくなるような現状の差異が存在している。
 私の家から阪急六甲までの間に全壊の家屋は少なく、八割がた、日常性を取り戻しているが、阪急の踏切を越えて南へ下がると、学校はもちろん、保育所や老人憩いの家にも避難民がいて、狭い園庭にはテントがはられている。ボランティアの引き上げについて、あちこちのニュースで取り上げられ、避難生活者の自立と言うことがしきりに叫ばれているのも、南北問題を連想させる。
 それにしても、自立というのは一体、なんであろう。避難所の人たち自らが自立すべきと声を上げるのではなく、新聞が一斉に自立を書き立てること自体、行政に手を引くきっかけを作ってやっているだけのようで、なにかうさんくさい。
 さらに南に下り、山手幹線を渡ると、突如、家屋の損傷の度合いがひどくなってくる。震災直後にはジェットコースター状態だった高架線は見事に復活し、仮の駅舎も建てられていて、この辺りの復興のシンボルであるのを感じさせられる。しかし、まわりの建物の多くは使用できない状態で、にぎわいを取り戻すにはほど遠い。四月二日より営業を再開しますの飲食店の張り紙に、必死の思いがこめられている。JRに乗り、東へ向かうが、沿線沿いの苛烈な惨状、復興の拠点としての六甲道と、そうではない場所の差をまざまざと見せつけられる。震度七の揺れでへしゃげた家と、火災で焼けただれ、熱で変色し、ゆがんだ鉄の塊とがすさまじい当時を思い起こさせる。
 当時?そうなのだ、北に住む私にはすでに過去のできごとになりつつあり、南に住む人にはまぎれもない現在なのだ。それぞれ撤去作業の進んでいる場所でも、更地にした土の色が違っており、窓から見える学校の校庭には仮校舎かテントが例外なく存在している。神戸市という単位で見れば、数年で南北問題の処理は完了するのかもしれないが、そこに住むひとりひとりの人生にとっては、一生かかっても取り戻せないほどの負担になって、のしかかり続けていくのだ。

95/4/4
 先日、震災後はじめて県境を越えて、親戚の家に行った。妻の叔父が東京から二年前より単身赴任していて、二月の終わりになって家族が大阪に移ってきたのだが、地震当日、新大阪の社宅にいた叔父は、関西では地震があるはずがないという思いこみがあるため、揺れている最中、東京が壊滅したのではないかと考え、すぐに東京へ電話し家族の無事を確認したそうだ。数時間して電気は復旧、テレビで震源地を確認。その日は地下鉄が止まり、タクシーも拾えず、会社を休んだが、翌日から平常通りに出勤。そして直後の日曜日、ゴルフのコンペがあり、ゴルフ場へは福知山線を利用して行くらしく、いくらなんでもゴルフバッグを提げて電車に乗り込むのは不謹慎と思い、コンペを中止したのが地震にまつわるできごとのすべてだったとか。
 大阪から神戸方面に通勤通学をし、交通の不便を味わっている人をのぞいて、神戸と大阪というごくわずかな距離で、事実の認識に大きな違いがあるのを思い知らされた。大阪も東京も、被災地である神戸ですら、目に見える生の現実は別にして、情報を得る手段はテレビであり、ラジオであり、新聞であるのは共通している。ほとんどそれらのメディアが同時に情報を伝えることで、世界は一つになったというような言い方をされるが、情報のどの部分をさして共通の認識と呼ぶのだろう。
 大阪にも震災による死者があったわけだし、当日、叔父とほぼ同じような場所にいて、死生観が変わったとまで言った人もいたから、想像力とか感受性の鋭敏さも関係があり、一律に言い切ることはできないが、大部分の人にとっては、ものすごく揺れて、しばらく停電になり、一日くらい通勤の不便があったということで、震災は完結してしまったのではないか。
 数十キロのへだたりまでは、震度5とか六とか、少なくとも関西ではこれまでに体験したことのない揺れを味わったわけで、その意味では確かに共通の部分もあるし、テレビや新聞、ラジオの報道で与えられる情報に、東京にいる人よりも強いインパクトを受けたかもしれない。だが、震度三とか二とか、これまでの体験とさしたる違いのない揺れであった場所から向こうは、五十キロ先であろうが、五百キロ先であろうが、五千キロ先であろうが、受けとめる情報の温度差はあまりない。
「起こった事実」から「伝えるべき事」を差し引き、そこからさらに「伝えうること」を差し引いた残りがなんであるのか、「起こった事実」そのものを、丸ままわしづかみにする方法がないだけに、この検証は困難かもしれないが、今度のことで考えてみるべきことのひとつである気がする。
 レポートから欠落したものから、逆に「起こった事実」を類推していくのが、もしかしたらフィクションの力なのかもしれない。
 今日、新聞を見ると死者がいつのまにか五千五百人を越えていた。

95/4/6
 震災と戦争を比較する論調が多く見受けられるが、わたしたちはもっとすごいことを知っているのよと言われているようで、抵抗を感じる。戦争を体験したことのない世代は、危機に際しての処し方を学ぶ機会がなかったと言いたいわけだろうが、人災である戦争と天災である震災を、同一に論じていいものなのか。
 被災地からの距離に比例して、戦争との比較をしたがる度合いは高まっていく気がする。地元では燃えさかる炎を見て空襲を思い出した人はいても、地震そのものを戦争にかぶせてものを言う人は少ない。住居の損壊状況のひどい人ほど、瀬戸内寂聴さんの公共広告機構のテレビCMを不快に思ったのではないか。事実、何度も私はそのような感想を耳にしたが、私自身、不快に思う理由がよくわからなかった。別な言い方をすれば、実際に渦中にいないものにとって、わずか数十秒の揺れで起こった出来事について、ほかに比較する対象が見つけられなかったということになるのだろう。
 戦争をしかけられる側はともかく、戦争をしかける側にとっては国家の計画的な企て、十分準備をする時間があったのかもしれぬが、地震は突然。危機管理の問題として別個に論じるならともかく、危機管理の不足を戦争と結びつけられては、どうにもかなわない。さらに派生してボランティアの義務化だの、安全優先の都市計画だの、制度の問題にすり変わっていくのでは、なお困る。水道も電気もない場所、あるいは時代での被災なら、当然、ライフラインなど問題にならなかった。糞尿を始末する穴を掘る地面すらない、高度に文明化された状況での被災であったことが問題なのだ。被災地の苦しみは、戦争とは違い、自分たちだけが取り残されていくあせりの部分が一番大きい。

95/4/7
 昨日、会議中に震度二の余震。新築したばかりの体育館の一階(震災時、霊安所になっていた)という建物の構造から考えれば、体感としては三くらいのかなりの揺れ。地震の被害にあって、授業料の減免を申し出ていた生徒、およそ三百名。全校生徒の六分の一に相当。全壊、全焼の場合、県から授業料の補助が八割出るらしいが、その認定がかなりややこしく、手間取っている。就学困難の中身は実に様々、学校でも独自の取り組みをしているが、そちらの認定作業も難しい。両親の死亡、負傷、失業。完全な失業に至らなくても、自営業で営業再開できないもの、勤務先から一時帰休を命じられ、給与の出ないもの、給与がカットされているもの、営業可能な状態でも、まわりの損壊状況により、顧客となるべき住民が戻っておらず、以前のような集客を望めないもの、身内に大きな被害があって、その身内を引き取らねばならないものなどなど。
 今日は入学式、娘も中学生になる。授業は始業時間を遅らせ、四十分の六時間。JRは開通したが、阪急、阪神はまだのため。緊急時に関する校則では阪急がストまたは普通の場合、休校というふうに決められているが、復旧は八月までずれこむらしい。JRへの集中がすでにはじまっていて、学校のはじまりとともに、一層の混雑が予測されるので、無理をせずに来れるようにと、さしあたって四月一杯はこの時間割で行く予定。

95/4/9
 桜が満開の中を朝から強い雨。アスベストと杉花粉の飛散をふせぐためにはありがたい。屋根の工事がはじまっている家が増えたが、ブルーのシートがのっただけの家もまだまだ多い。せっかくのシートが何度か吹いた風にあおられ、めくれあがっていて、雨漏りに困り、滴を受ける容器を持って家の中を右往左往している。シートをのせるだけで五万もぶったくった業者がいて、簡単にやりかえるわけにもいかない。
 地震直後にも多量の雨が降った日があり、次々と避難勧告が出され、今度は自分たちではないかとテレビを注視していた。地盤というのは三カ月くらいの期間に安定してくるものなのか、あるいは単なる感覚の鈍化なのか。新幹線が開通し、東海道線が復旧して、神戸にいても、場所によって地震というものがどんどんと歴史のひとこまとして、過去に追いやられようとしているのがわかる。
 深く傷ついたものだけは、なお化膿した傷に悩み続けるが、そうではないものは、復旧とか再開とかいう言葉と共に、風景の中から無意識のうちに、地震にまつわる光景を排除しようとしている。書店に行くと、いわゆる震災ものが驚くほどの数、出版されている。新聞社編集の写真集や縮刷版をはじめとする記録ものと危機管理もの、現地の被災体験、ボランティアをはじめとする救助体験など、すべてが収束に向けて動き始めているのは間違いない。
 テレビでは全国ネットのニュースがまずあり、続いて地元局のローカルニュースに切り替わるわけだが、サリンに端を発した不気味な事件の影響もあって、大震災は完全にローカルニュースの枠に押し込められている。戦争体験、原爆体験に代表される、事実を語り継ごうという意志と、風化しようとする自然の力との対立は、実は事件あるいは事態が発生した瞬間から起こっている。歴史のかなたにおしやられていくのなら、歴史の中で、危機管理能力の欠如の指摘にとどまらず、いかなる現象であったのかを総合的に、きちんと評価をしてやらなければならない。忘却と歴史は全く違うものだ。

95/4/10
 昨日の雨でさっそく崖がくずれた場所がある。崖崩れを防止する金網でどうにか支えている箇所もあったが、表六甲ではその金網が雨で崩れた岩を支えきれなかったらしい。芦屋の山の方では、部分壊ですんでいた家が完全に倒壊し、道をふさいだところもある。あの地震でかろうじて踏みこたえた家も人も、少しの力がくわわっただけで、よろよろと倒れてしまう。
 天候は不順だが、花見の季節である。花見をできる公園には避難者のテントがあり、テントに暮らす人は、地震がなければ今頃、ここで自分も含め大勢が花見をしていたのになと思い、息をひそめ、無事だった人はこんなときに花見なんてひんしゅくものかなと、やはり息をひそめて、すみっこで遠慮がちに弁当を食っていく。同じく避難所になっている小学校からカラオケで発散する声が聞こえてきて、その声の大きさがかえって聞くものにつらい思いをかき立ててくる。
 今夜は雨こそやんでいるが、春の嵐。近所中の屋根のブルーのシートが激しい音をさせ、不気味な気配を漂わせている。今日から小学校がはじまった下の娘たちは、学校からまたもや救援物資のあまりものをもらってきた。カロリーメイトと韓国製のチョコレート。小学校にはまだまだお菓子類が山積みになっている。ほしい時になくて、必要とする場所にもなくて、いらなくなってから、いらない場所でいろいろなものが配布される。そういえば長女の新学期用のノート類もすべて緊急物資でまかなえたようである。私もまた、やはり緊急物資の中から防塵マスクを頂戴してきた。今年はアスベストのほかに、花粉症がひどいのだ。
 卒業生から電話。結婚式の出席依頼。高校三年を担任した学年が適齢期にさしかかっているということなのか、今年は実に多い。彼女は当初予約していた式場がだめになり、大学のチャペルで挙式を、食堂で披露宴ということになった。相手は放送記者で、地震の日がちょうど当直であったとか。彼女の母親の店は全壊し、今失業状態。喜びと悲しみがあちこちで同居している。

95/4/13
 先日は強風が吹いて、あちこちで工事中の建造物が被害を受けた。雨が降っても風が吹いても、神戸はしばらく危険な状態が続く。学校で被災生徒の授業料減免の受け付けをやっているが、朝礼に行って受け取る罹災証明(全壊、全焼、半壊、半焼)のコピーを添付した書類の数を見ると呆然としてしまう。
 地震のあと始業時間を遅らせて、授業をしているが、遅刻してきたり、授業中にやる気を見せない生徒と被災生徒が必ずしも一致しないのはおもしろい。通学時間と被災状況とは反比例するところがあって、被災の程度の少ないものほど通学に時間がかかっているのは確かだが、それだけではない要素があるような気がしてならない。
 これまた単なる感傷に過ぎないのかもしれないが、地震でひどいめにあった生徒は、その代償にかけがえのないものを学んだのではないかという気がする。不届きにも学校をさぼって、震災当日香港に家族旅行をしていた生徒がいたが、私が思ったのは「恐い目にあわなくてよかったな」ということではなく、「かわいそうに」ということだった。誤解を覚悟して敢えて言わせてもらえば、命を奪われないかぎり、歴史の現場に居合わすという希有な体験であったのは間違いないし、かけがえのない成長の機会を逸してしまったのだ。
 このあいだ整理券を手に入れ、加藤登紀子のチャリティコンサートに行った。その時、地元NGOの事務局の人が舞台に現れ、加藤登紀子から義援金を贈呈されたが、NGOのK氏は中学生時代にあるキリスト教団体でお世話になった人で、幼いなりにかなり過激な意見のやりとりをした記憶がある。彼が舞台での挨拶の中で、主としてオーバーステイの在留外国人の救援活動を行っていること、集めた義援金をそのまま分割して渡したら、施したことになり、問題の解決にはつながらないことなどの説明をし、活動資金に充てると言っていて、なるほどと思うところがあった。
 ボランティアは無償で労働力を提供しているわけだが、無償ですべての活動がまかなわれているわけではないという当たり前なことを、もう少し我々も理解すべきだと指摘した。慈善にお金をからめると偽善と誤解されるのが日本だが、慈善を慈善だけで押し切ってしまうことの方が、もっと偽善かもしれない。K氏はそのまま引き上げたらしく、話す機会はなかったが、K氏の主張を何も知らない中学生のようにその通りだと素直に聞いてしまった。

95/4/14
 またもや大雨。花粉とアスベストの飛散を押さえてくれるのはありがたいが、ブルーのシートの家も、屋根を剥がして瓦を葺き替え中の家もあり、もちろんいまだテント暮らしの人もいる。
 妻が学生時代の友人と久しぶりに会うと言う。どこで待ち合わせをしているのか聞くと、阪急三宮の西口だという。ちょっと待てよ、阪急会館はすでに取り壊されたあとで、そもそも西口などというものが現在、存在しているのか、いや御影、三宮間が開通しているのだから、駅があれば出口があるはずとあれこれ考え、三宮駅の構造がどうなっていたのか思い浮かべようとし、ああ、あっちの方は高架下を使っていたからそのままかな、とようやく見当をつけた。
 十分機能を果たした、十分役割を果たしたという言葉をあちこちで聞き、文字を見かける。誰のための機能か、誰のための役割か、早く切り上げたいための雰囲気作りに過ぎないのではないか。病気をして入院しているとき、どの時点で退院をしていくのか、それによって予後の生活設計はずいぶんと違ったものになってくる。すぐに復職できるものもいれば、リハビリに何年もかかるものいるし、そのあげく結局は復職がかなわなかったという人も出てくる。 悪性腫瘍の切除をして、医者が退院の許可を与えても、一度のぞいた死の恐怖からの立ち直りは決して容易なことではなく、医者から見ればなにをそんなに怯えているのかと言われても、睡眠薬の助けを借りなければならない夜が、術後一年八ヶ月経過した今でも少なくない。
 半分以上が原状に復したから、ケアは終わりというような大ざっぱなことではいけない。部分的にはそれなりの対処をすると役所は言うのかもしれないが、いまだ立ち直る術のないものにとっては、もうそろそろおしまいという言葉そのものが、暴力なのだ。撤退の口実作りにマスコミも無意識で協力しているとすれば、大変罪作りだ。
  ここまで書いたときに余震、テレビを見ていた三女が、灘区で震度1とテロップが出たと知らせに来る。子供もやはり完全に開放されたわけではない。学校から帰って、私も妻も留守の時は、余震の度、淡路のおばあちゃんに「今地震があったね」と必ず電話をしているらしい。だれでもいいから、こわさをわかちあいたいのだ。


やめてなるものか神戸からの報告へお進みください。
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