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さらにもっと神戸からの報告(95/3/16〜3/31)


95/3/16
 風邪のせいか、おなかの調子が悪い。よく眠れない状態が続いていて、頭痛もする。授業を抜け、医者に行くついでに、震災にまつわる手続きがどうなっているのか、体験しに行くことにした。被災の程度によって税金が戻ってくる。還付請求に必要な書類は源泉徴収書のほかに罹災証明。全壊とか半壊とか、見た目にもあきらかに、実生活に明白に支障をきたす場合はわかりやすいが、食器の半分ほどが割れて使用不能になり、スティール製の書架がだめになり、風呂のタイルが剥がれ落ち、壁にごく小さなひびが入り、床板にほんの少しひずみがある程度という私のような中途半端なものはどうなるのかと、まず罹災証明をもらいに行ってみる。
 プレハブメーカーからの修理の見積もりはまだ来ていないが、ざっと見てもらって、家財と合わせ、数十万の金がかかるのは確かなのだ。全壊、半壊の次のランクに一部壊というのがあり、それが二十パーセントくらいを指すというふうに、広報誌には書いてある。たとえば積み木10個で家ができているとして、そのうちの二個が壊れたら、二十パーセントになるというのが文字通りの意味だとすると、正直に包み隠さず告白すれば、おそらく私の被災程度は百個の積み木の家の、一個か二個崩れた程度なのだ。
 全壊、半壊など義援金の対象になる大きな害がなければ、直接、だれかしかるべき人に見てもらうという制度はなく、とりあえず、壊れている場所をポラロイドカメラで撮影しておいた。手続きの方法を聞くのに区役所に寄ってみると、中は義援金の分配やら家の解体のことやら、まるで年度変わりの時の駅の定期券売場のような混雑ぶり。区役所から三百メートルほど南へ下がった、都賀川沿いの公園に設置されたテント内に、罹災証明発行所があるらしい。
 避難所になっている区民ホールの横を通り、ボランティアの人たちのテント村を通り抜けて目的の場所へたどりつき、用紙に記入して窓口に持っていく。一軒一軒の戸主の名前まで記載してある地図を開いて確認される。どうもその地図には震災後、外部から見た状況を記録してあるらしく、当然、私の家は無事と言うとになる。今度は再調査と書かれた窓口へ移動させられる。そこで用意してきた写真を見せると、「お気持ちはよくわかります」といとも簡単に一部損壊の証明が発行された。
 今度は灘税務署に向かう。税務署のそばに納税協会があって、サラリーマンはこちらと言われた三階にあがり、順番を待って説明を聞く。単に罹災証明だけでは、簡易計算表による二十パーセントの控除が受けられないのが判明。それではどういうふうにして、簡易計算表を利用する損壊状況であると判定するのか、さらに尋ねても、もひとつはっきりしない。家財の損害状況についても、何が壊れたのかひとつひとつ抜き出せと言われても、そんなものは捨ててしまったあとで、なにがいくつあったのか、わかりはしない。
 あとで聞いたところによると、対応する係りによって、罹災証明でそのまま認めてしまう人もいたりして、中身には結構差があるらしい。知人の某氏は同じ程度の被害、同じランクの罹災証明で、これこれの扱いを受けていましたよと、やりあうのもばかばかしいので、黙っておいた。こんなことがなければ確定申告などしない、サラリーマンにとって、税の不平等を教えてもらえる機会でもあった。かくして私は風邪を引いて下痢気味の体で無理をして出かけ、さしたる収穫もなくすごすごと引き上げてきたのである。
 病院の帰り、阪急電車の高架線上をトラックが走っているのを見た。もちろん不通区間で工事のためだが、不思議な光景のはずなのに、一緒にいた女房に指摘されるまでなんとも思わずにながめている自分に驚いてしまった。

95/3/17
 この頃、爪の先が割れないかとか、指先にさかむけができないかと、何人かの人に問いかけると、そう言えばと自分の手先を見て、ほとんどの人が自分にも同様の症状があるのを認めた。最初は冷たい水しか使えず、手が荒れるような仕事をする機会が多かったからではないかと思っていたが、話し合う内にみんなの見解はひとつのところに。救援物資として、神戸に一番大量に持ち込まれたのはカップラーメン。震災後しばらくたってから、街を歩いていても、ただで配られることがよくあり、私自身、震災直後から、学校再開までの期間、ほとんど毎日、昼食にラーメンを食い続けた。チキンラーメンの新発売当時が子供の頃で、ラーメンなどのインスタント食品とのつきあいの長い不幸な世代だが、今回の地震ほど長い期間食い続けたことはまずなく、添加物の問題で最近はむしろ敬遠していた。そのラーメンが原因ではないかというのである。野菜などの生鮮食品がなく、栄養が偏っていたこともあって、ラーメンだけに全責任を負わせることはできないが、食糧事情がみんなの手先を荒れさせたのはまちがいなさそうだ。
 今度の不幸中の幸いということを探せば、季節が冬であったことではないか。なるほど暖房の手段のない避難所での生活では、寒さは身体に応えるが(石油ストーブは余震の恐怖が去るまで、心理的に使えない状態だった)、衛生面では夏と比べものにならない利益をもたらした。停電中であるにも関わらず、冷蔵庫に残っていたものの腐敗の心配も少なく、あちこち走り回り、やっと確保した水も、タンクに入れた状態で長い時間おいておくことが可能であった。そしてトイレも、小便はもちろん大便でさえも、臭気を最小限におさえることができた。また入浴できないということも、汗をかく夏ほど気にはならない。発生時間が大部分の人が活動を開始する前の早朝であったことも含め幸運であった。夏にこの震災が起これば、考えられないような疫病の蔓延もあったかもしれぬ。緊急時の対策を考えるときには、季節のことを欠落させてはならない。
 震災の余録として、近隣の人とのコミュニケーションの復活、芽生えを指摘する声が多く、たしかに土地を持っていて、家を建て替える財力があるものにとっては、新しい近所づきあいを育てつつ、これまでとは違う新生活を夢見ることができるが、経済的に強いダメージを受け、同じ場所で立ち直れない人は、仮設住宅を含め、全く見知らぬ地域への移動を余儀なくされている。誤解を覚悟して、露骨な言い方をすれば、神戸では被災者の分布に貧富の差がかなり明確に出てしまっている。地震発生がもう少し遅れていたら、貧富老若わけへだてなく、恐ろしいばかりの数の被害者が出ていただろう。
 プレハブが強く、在来工法が弱いという指摘(大阪のプレハブメーカーが悪意をこめて流した噂だと言う人もあるが、真相はわからない。被災地には様々なもっともらしい噂が飛び交っている)も正確ではなく、金持ちの建てた、金をかけた家は大丈夫だったのだ。  さして強力とも思えない台風のとき、ばたばた倒れた街路樹が、今回の地震では一本も倒れず、それどころか、斜めに傾いた家をけなげに支えていたりしたのが、とても印象的だった。繰り返しになるが、震度七に耐えうる街づくりというのには、どうしても疑問が残る。ましてや昭和四十年代に考案し、実行できず、お蔵入りしていた都市計画を、これを機会にやろうとしているという、指定区域の、そのまた道路拡幅計画の線上に家があるため、規制を受けて、にっちもさっちもいかなくなり、不満をつのらせる知人の言うの本当だとすると、なにをかいわんやだ。

95/3/18
 週末の義援金集めのバザー準備のために買い物へ行く。四百人分のカレーの材料の分量なんて全く見当がつかない。二百食目くらいから利益が上がるように考えながら、男二人でいいかげんな買い物をする。一人、肉五十グラムとして、四百人分というと二十キロになるわけで、こんなに買ってもいいのかとおびえつつ、よく煮込んで肉が小さくなったことにして、三十グラムでがまんしてもらうかなどと、少し分量をおさえ目にする。それでも普通の買い物をしているほかの人たちにとっては信じられないほどの量、みんなおっかなびっくり、ながめている。
 雨が降っていたし、駐車場までかついで行くには重たすぎるので、一人が車を取りに行くことにした。待っている間、道行く人が大量の肉と野菜をつめこんだダンボール箱をのぞき込んで、「これ、救援物資か。もろていこか」などと、冗談とも本気ともつかぬ物騒なことを言うので、荷物からおちおち目を離すことができない。震災後しばらくたって緊急物資があふれかえり、町のあちこちに箱を置いて、自由にお持ち帰り下さいの札が置いてあった。
 避難所での炊き出しを個人の負担で一週間続けるとすると、どれほどの金と労力、そして材料が必要なのかと想像してみる。神戸では震災直後から今日までの間に、あちこちで膨大な資金と労働力が提供されていたのは確かな事実、そのほとんどがボランティアの力であったのを考えると、素直に感動する。だからといって、大学でボランティアを単位に組み込み、点数化するというようなことがまじめに考えられているということだが、釈然としない。アルバイトができないからと、ボランティアをやめると言った女子大生を、グループのリーダーが殴って怪我をさせる事件も起こっているのだが、善意というものには単純には割り切れないものが含まれていて、気分は複雑だ。
 今日、家が半壊の同僚から義援金の証書なるものを見せてもらった。ちょうどお札の幅を倍にしたほどの大きさの紙切れで、署名捺印をし、本人が指定金融機関に持っていけば、十万円の現金に引き替えられるらしい。彼女はとても前向きな人で、弱音をはくことなく、事態を受け入れているように見えたが、あらためて半壊の罹災証明をもらうと、自分が罹災者なのだという思いがこみあげてきて、とてもつらくなったと言っていた。手術のあと、少し立ち直りかけた頃、ガン保険がおりるということになり、医者に証明を書いてもらった時には、同様の思いがあって、念押しされるいやな気分はとてもよくわかる。
 明日はゴーグルを用意して学校へ行く。授業の合間をぬって、玉葱を剥き続けるのだ。保健所によると本当は前日から準備をしてはいけないらしいが、でもうまいカレーを食ってもらうため、誰に向かって許しを乞うべきか知らぬが、とにかくどうかお許し下さい。

95/3/19
 バザーの準備。カレー用の肉がたらないのではないかと、さらに十キロ追加して、合計二十キロ、玉葱百数十個。生徒四人の手伝いを得て(今年は震災の影響で交通網が寸断され、大勢の生徒を放課後学校に残すわけにはいかない)、私が授業の合間に皮をむいておいた玉葱をきざみ、カセットコンロにキャンプ用のバーナーを使い、次々にいためていく。生徒の下校時間の4時になっても(これも震災のせいで早いのだ)、うんざりするほどの分量がまだ仕上がらずに残っている。アーティスト氏と二人、総計四時間をかけて肉と玉葱を炒め終わる。今度は鍋で煮込みをはじめ、午後六時に弁当屋で買ってきた弁当を食い、作業を続行。ああでもないこうでもないと、様々な香辛料をぶちこみ、一段落ついたのが午後八時半。
 そんなことをしながら、手伝ってくれた別の教師と、修学旅行について議論。彼女の所属している学年が、秋の修学旅行を震災のため自粛する旨職員会議に提案するというので、そことについてのやりとり。内容は例年より一日短縮するというもの。そんなものなにが自粛か、神戸だからと言ってみんな苦しんでいるふりをする必要がないとアーティスト氏。修学旅行そのものをやめるというのならわかるが、一日の短縮なんて、共同募金に千円寄付してよしとするようでいやらしいと私。そんなことない、一日でも自粛するのは意味があると彼女。生徒が申し出て一日削るのならよいが、職員会議で決まったからとあとで生徒におしつけるつもりなら卑怯と私。もともと長すぎる修学旅行、地震に関係なく、しんどいから短くしろというのなら納得できるとアーティスト氏。
 私も彼も、泥にまみれていない知事や市長の作業服と同じく、意味のない自粛ムードがいやでたまらないのだ。今準備中のバザーだって、自粛すべきだという教師もいる。自粛はみんなに呼びかけるのではなく、黙ってすべきこと。高校野球にしても、応援だけは自粛するなんてちっともわからない。結局は中止にする勇気も決断力もなく、はじめからやりたいくせに、あれこれ理屈をつけているようで、どうにも釈然としない。
 地震と言えば、被災のひどい場所ばかり報道するマスコミ、もしかしたら湾岸戦争の時だってそうだったかもしれず、北朝鮮の核ミサイルだって本当かどうだかわからない。日本に地対空ミサイルシステムを買わせたい死の証人の陰謀ではないか、意図を持った報道と意図に答えようとする地元みたいな奇妙な関係があって、それが日本をだめにするのだと疲れた頭で侃々諤々、議論はつきぬが、作業だけは手を休めることはなく粛々と進んでいき、やっとこさ、バザーの店開きの準備は終了。
 翌日のバザー当日。来客の数は交通事情もあり、例年の四分の一。いつもと違い、保護者の協力も得た。全壊、半壊、様々な家庭があるが、みんなひさしぶりにうっぷんをはらした様子。例年はクラス単位の参加であったのを、教師が店を提案し、生徒が有志で参加する形をとったため、実によく働いた。もしかしたら全員が同じ仕事をしなければならないという平等主義こそ、見直すべき時が来ているのではないか。ひとつの組織の中でも、やりたいものがやりたいことをして、やりたくないものはそのほかのルーティンをこなすか、自分のできる仕事を見つけて、そこで自己主張をする。これこそ新しい形。家がだめになったものも、「おとうさんの仕事が大丈夫だったから、ええねん。またがんばれるもん」と屈託がない。仕事があれば家がだめになってもやりなおせる。本当に深刻なのは、震災で失業した人たち。

95/3/20
 昨日の日曜日、卒業生の結婚式。礼服を着て町を歩くのに、抵抗を感じる。前々からの約束だからしかたがない。神戸は花粉とアスベストとほこりで、場所によっては目を開いていることも、息をすることもままならない。大安であるのに、宴会はふたつだけ。ロビーから日本庭園を見ると、池の底に補修したあとがくっきり、地震で底が割れたのだ。隣に座り合わせた軽金属会社勤務の東京からの客、地震のおり、自社製品で三分で組み立てられる簡易ハウスを神戸に送り、最初市役所に届けたが、不公平になると受け取りを拒まれたために、直接現場に行き、設営したとか。テントは湿気に弱く、その点で軽金属製品は喜ばれたらしい。そういえば先日のバザーで、交通事情もあり、来客数が予想をはるかに下回り、仕入れた食品が余る売店が出た。そのうちのひとつであるうどん屋、百食分のうどんがあまり、避難所に電話してみると、うちは五百人いるから、不公平になると次々に断られ、やっと近所の体育館が、避難者の数が少なかったせいか、ありがたくいただきますと引き取ってくれた。それにしても、不公平というのはなんだろう。公平の原理というのはなんだろう。
 近所に住む人、自分の家の屋根の具合を見させてほしいと、わが家に来る。ちょうど居間から彼の家の屋根を見ることができる。ビニールシートを固定していたロープが風にあおられて切れ、雨漏りの心配がある。屋根をなおしてもらおうにも、業者は忙しく、見積もりにも来てくれないらしい。瓦にするか、別の素材にするか、みんな迷っている。彼は三宮に店を出していて、昼だけの営業をしている。彼の言葉によれば「たちの悪い連中がいっぱいおって、治安があぶない。壊れたビルがそこら中にあるから、ひっぱりこまれたらわからんようになる。なにをされるかわからへん。夜は歩かん方がええですわ」とのこと。どうも善意とか立ち上がるための苦悩だとかばかりが強調され、付随して起こっている現実が隠蔽されているような気がしてならない。

95/3/21
 病院で定期検診。あちこちに「落下物注意」だの「倒壊の恐れがあります、危険」の札があるが、避けて通ろうとすれば、神戸には歩く場所がない。この病院は震災のさなか、多くのけが人がかつぎ込まれ、たくさんの方が遺体になって運び出されていったところ、救急車のサイレンが耐えることなく、一ヶ月近く修羅場が続いていた。まわりのがけが崩れていたり、道路に亀裂が走っていたり、陥没箇所があったり、すぐ上の学校が活断層上にあって(まだ四時間授業しかできないので、三月三十一日まで授業をやるという)かなりの損傷を受けていると聞いていたので、心配していたが、病院の建物そのものは無事。廊下には緊急物資として運び込まれたものだったのか、点滴用剤などの救急薬品をつめたダンボール箱が廊下に山積みにされているのが、その名残であるらしい。震災時の勤務については、とても厳しい者があったと無口な主治医(自宅は半壊だとか)も言っていた。
 震災のあと、携帯電話が神戸ではたしかに増えている。自宅が壊れて電話が使用できなくなったこともあるだろうし、とにかくそこら中で携帯電話の安売りをしている。通信手段の確保を震災に学んだと言うことになるのかどうか(携帯電話と携帯用パソコンによる通信の有用性を指摘する専門家もいたが、実際には震災直後は携帯電話も通じなかった)。病院内待合い所で、診察費の支払いを待つ間、二度も携帯電話が鳴り、それぞえ別々の人が突然大声で独り言を言いはじめるのに驚かされた。ポケベルは始終鳴るのを聞いたが、電話は今までになかったことだ。この突然の独り言だが、震災のあと、精神状態に不安をきたした人の数が増加したのか、あるいはこれまで陰に隠れていた人たちが、布団をたたいて埃をまいあがらせるように、浮遊しはじめたのか、道でわけのわからぬ言葉を口走っていたり、奇妙な行動をとっている場面によく出くわす。心の問題は町中に漂うアスベストと同じで、年々尾を引いてむしばみ続けていくのかもしれない。
 まだ、震災直後の状況から抜けられない人たちと、震災から離れ日常性を取り戻しつつある人との、二極分解がはじまっている。五千人を越す死者と大勢の避難民を思えば感傷に流される部分もあるが、最終的には感傷に流されず、今回の震災で学んだことを整理しておきたい。近隣の人との情けある交流があり、それが必要不可欠だったからといって、都市生活を否定するようなことは、私はしないでおこうと思っている。たとえは悪いが、いざという時、コンクリートにおおわれた地面から液状化した泥が吹き上げたように、情というものを噴出させればよいのだ、きっと。もっと別の言い方をすれば、都市生活者というのが、これまで指摘されてきたほど血も涙もない存在ではなく、ごく普通の人間であったということが明らかになっただけで、村的社会がよいなどと短絡思考だけはすまい。

95/3/22
 昨日、ハーバーランドに買い物に行く。妻の両親から長女の卒業式に着る服を買ってやるようにと、現金書留が送られてきた。神戸で営業している唯一のデパートが、阪急。ダイエーも、ダイエーが経営するコーズクラブという会員制の安売りの店も、液状化現象の影響で閉鎖中。休日は比較的道路事情もましだろうと車で行くことにした。いつも通る二号線は通行規制中、許可証がなければ走れない。それにバイパス自体が通行不能なので、加納町から大倉山方面へ向かう。休日で工事をしている箇所は少ないが、窓を開けて走ると埃と花粉でくしゃみが出る。何度見ても、湾岸戦争時のミサイルを撃ち込まれたビルの映像を思い浮かべてしまう。ついこないだ、大地が揺れたのが信じられない。
  ハーバーランドのほとんどの建物、シートでおおいをかけられ、近寄ることはできない。シートの向こう側から、激しい落下音がする。壁でも剥がしているのかもしれない。地面もあちこちに凹凸があり、前からあったのか、新たにできたのか、アスファルトで処置した段差が気にかかる。それでもかなりの人出。服装も一時に比べ、いわゆる被災地ルックの数は減ってきた。営業しているといっても、五階建ての三階部分まで。しかもかなりの部分、ベニヤの壁で仕切られている。子供服売場も少ししかなく、あれこれ迷うほどの品物はないが、おじいちゃん、おばあちゃんの孫への思い、少ない中から選ぶよりほかない。ごく短い時間に、長女の同級生、次女三女の同級生の家族と立て続けに出合う。休日に買い物と言っても、行けるところが限られている。
 行くときには気がつかなかったが、立入禁止のNHK、同じく立入禁止の生田消防署の近く、萬寿殿という中華料理屋(下半分、工事のためのシートがかぶせられているが、二階か三階部分で折れて、前につんのめりかけている)の向かいのビルの壁面にある大きな時計、五時四十七分で停止したままだった。大地は間違いなく揺れて、なにもかも破壊したのだ。前を走るワゴン車のリア・ウインドウ、ダンボールがガムテープで貼り付けられている。どうやって後ろを見るのか、あるいは後ろなど見ている余裕はないのか。

95/3/23
 震災から何日かたって、プレハブメーカーの東京本社から点検にやってきた。私は勤務に出ていて、知らないのだが、あちこち調べたあと、被災地で撮影したビデオを見せ「ごらんのように、うちで建てた家はみんな大丈夫でした。だから安心して下さい」と説明していったそうだ。確かにプレハブの建物はほとんど無事で、その映像を見せればすごい宣伝になるだろうとは誰でも思うことだが、まさか実際に震災で流れた五千四百名の血の乾かぬうちに、そんなことをする企業があるとは思いもよらなかった。でもやってくれたのですよ。東京からある建築メーカーのポスターを送ってくれた人がいて、現物を見ながら書いているので、これは憶測でも伝聞でもない 。
 新N○鉄グループ レ○○ハウス(W・・工法)の宣伝ポスター。「平成7年1月17日。あの日の神戸の真実です。」という大きな活字の横に、一階部分が半分押しつぶされ、斜めに傾いている文化住宅を背景にして、しっかりと建っている○ス○ハウスの大きな写真がある。「うちだけが大丈夫やなんて、ご近所に悪いような。まったくなんちゅう建物や!」という所有者の勇気あるコメントと写真が添えられている。「震災直後から現在まで無傷だった自宅(○○コハウス)を避難所として開放(ご親戚の多くがご近所に住んでいて、そのお住まいの多くが被害に遭われ、その中のおひとりが、×さんのお宅がご無事だったおかげで私らも仮住まいできたんですよと語っていると説明文に出てくる。ということは、避難所に開放と言っても親戚を受け入れただけということではないのか)近所の方のお世話をしていらっしゃいます」と言うことだ。ほかにも、「写真左が×邸」、「写真上部が×邸」と、角度を変え、崩れた家に並んだ無事な姿が写してあり、「奥様と一緒に居間でくつろぐ」×さん夫妻のにこやかな写真まで並んでいる。
 形式的にはよくある比較広告というやつで、手法としてはめずらしくもなんともない。しかし、である。これは私がしばしば繰り返している「感傷的になるのはやめよう」ということに反することになるのかどうか。震災直後の数日をのぞいて、マスコミの論調が次第に「東京でなくってよかった」という正直な感想をちらつかせはじめた時から、なんとなくこういうものが出現するのは時間の問題と思っていたが、こんなに早いのは全くの予想外だった。企業がモラルに反していないと自信を持って主張できるのなら、同じポスターを白昼堂々神戸に貼りに来ればよい。×氏も瓦礫の間に建つ自宅の前にポスターを貼ってみればよい。なお、「阪神大震災において被災された皆様に心よりお見舞い申しあげます。どうかお心を強くお持ちいただき、一日も早く復興の日を迎えられることをお祈り申し上げます。」のメッセージも入っていたことをつけ加えておく。
 みなさん、ほかに似たような例があれば、教えて下さい。各メーカーの地震後に発信されたメッセージを収集してみたい気分です。M新聞には希望新聞という欄があって、ずっと震災に関する地域の情報を載せていたのが、サリンの事件の日から急に「希望」新聞の欄が小さくなってしまいました。地元でのリアリティとマスコミが伝える(いや作るというべきか)リアリティの差異を、この際しっかりと見据えておきたいと思っています。地元には感傷に満ちあふれた同情を垂れ流しておいて、離れた場所で何がなされているのか、薄っぺらな感傷の正体をあからさまにすることも必要なことではないでしょうか。気まぐれな世間の興味がほかに移っても、生活は続いているのですと、これまた感傷的な言葉で第58信をしめくくってしまいました。

95/3/24
 家が全壊で避難中の人から、寝具や家具を買う店はないかと相談を受けた。震災前に知っていた店はすべてだめになり、どこに行ってよいかわからないというのだ。そして、経済的なこともあり、安い値段で手に入る店でなくては困るわけである。今、たしかにあちこちで営業を再開したと伝えられる店は増えたが、倒壊した店舗の前での屋台も含めての営業再開で、必要なものを手に入れるということからはほど遠い。水道筋商店街に全壊だが営業している卒業生の布団屋があり、その隣はたしか家具屋だったはずだと紹介しても、「高いことないやろか」と、なお不安そうにしているので、「この辺りでえげつない商売をしているところなんかありませんよ」と言うと、しばらく考え込んで「そうかもしれへんな」とつぶやいた。
 彼は家も一人息子も失い、この数カ月で、すっかりやつれてしまったように見える。顔つきばかりではなく、歩く姿までが文字通りの老人なのだ。彼の住んでいた辺りにも商店街があって、これまた被災地なりの営業だが細々と店をはじめているところがある。しかし、近所の住人を対象に商売をしているのが市場で、肝心の住人がほとんどいなくなっているのが現状。知人の中にも、震災以来住所不定の人がいる。家は住めない状態ではなく、家族はみんな戻っているのだが、震災の恐怖で自分の家に入れなくなって、あっちを訪ねたりこっちを訪ねたり、知り合いや親戚を転々とし、時には車で夜を過ごすこともあるらしい。戦争と震災の比較がよくなされるが、「終わったあと」だけで考えると、一番の違いは、戦争の被害は日本中で、地震は局地的、自分だけが取り残されていくのではないかと、被災者はあせりはじめているのだ。

95/3/25
 ファミコンの話。アーティスト氏の息子がウイニング・ポスト2というソフトを買った。ある金額を最初に与えられ、馬主になって持ち馬を育て、競馬に出場してお金を増やしていくという、シミュレーションゲームだ。牧場によって馬の値段が違い、どれを選ぶかがゲームの展開とかかわってくるらしいが、その中に日高などの北海道ならともかく、神戸牧場というのがあって、こいつは臭いと思い、みると、馬の名前がなんと「マグニチュード」。ソフトを作るプログラマーのセンスなのか、あるいはゲームのシナリオを書く作家のセンスなのか、阪神大震災というのも、湾岸戦争の時にそうであったように、もしかしたら現地にいる私自身を含め(実際に日常生活上の不便を感じているにもかかわらず)、日本中がリアリティを感じる感受性そのものを喪失しているのかもしれない。
 まだガスが復旧していない同僚もいるし、家に入れず、ガレージに生活している生徒もいる。だからといって、神経を逆撫でするようなことはやめろと言うつもりはない。どんなことでも金儲けのねたにする人たちがいて、当事者以外の世間は経済原則で行動をし、良心に従って生きているつもりでも、形を巧みに変えたおこぼれにすがって生活しているだけで、たまたま今回は神戸が食い物にされる順番であったというわけ。被災者以外は平成不況脱出の起爆剤としてこの災害を歓迎しているに違いなく、生半可な公共事業などおよびもつかぬ膨大な需要を生じさせたと、多くの人が震災直後に思ったはずだ。小は焼き芋を一本三千円、ポリタンクを六千円で売りに来たこそ泥まがいの奴等、中はぼったくりの屋根なおし、大は大手ゼネコンまで、事実あちこちから群がってきたではないか。
 明日から春休み。避難家族の合宿所使用期限も明日までのはず。毎朝、私が車を止める隣で見かける二匹の犬を乗せた乗用車が、再出発できる場所を見つけて移動していくことを祈る。勤務先の生徒である避難家族の三姉妹の長女は十日に高校を卒業、次女は今日、中学を卒業する。私の長女もまた昨日が小学校の卒業式。娘のように私学へ進学する者以外に、校区の違う公立中学に進む同級生も、いつもより多い。父親が転勤する子供と、単身赴任の父親のもとへ行く者、そして・・・。

95/3/26
 最近は人と会っても、どうでしたかと聞くことは少なくなってきた。あからさまだった被災の傷口が、服の下に隠れつつある。ところで私の厄除けをしてくれた神主、実は勤務先の先輩教師。定年後講師として教壇に立っていたが、今年講師も辞することになった。地震当日、山の上にある神社にいつものように登ろうとしていた。登り口に記帳所があり、自分も記帳して歩き始めたところ、地震発生。後ろで記帳していた数人が倒壊した記帳所の下敷きになり、犠牲になった。そのショックもあって、仕事を辞することになったと、別の人から聞いた。心の傷の受け方は実に人さまざま。
 学校新聞に生徒が書いた記事から。「私は(高校二年生)地震後3日目から数人の友達と活動をはじめた。とりあえず神戸と明石の両市役所にボランティアの登録に行ったが、自宅で待機しておいて下さいと言われるだけで、ほとんど相手にされず悔しい思いをした。そこで私たちは直接、避難所を訪ねて活動をはじめた」らしく、彼女は公的な避難所に指定されていない、小さな避難所を回り、仕事をしたということである。大は国、中は自治体、小は組織と名の付くものすべて、融通のつかぬことはなはだしい。
 ついでにもうひとつボランティアの話。どちらかといえば遅刻ばかりをしていて、学校をおもしろくないと考えていた生徒、ボランティアに熱中するあまり、まったく学校に来なくなってしまった(逆に登校拒否気味だった生徒が、地震後、登校を再開したという報告はあちこちで聞いた)。居場所のない学校とは違い、自分を認めてくれる人が大勢いるということなのだろう。

95/3/27
 検査の結果、画像的に異常なく、とりあえずは無事。今度の精密検査は発病後二年目に当たる七月。余震の恐怖も病気と同じように遠ざかっていく。ただ、病気の種類によって、程度によって、精神的な後遺症の残り方は違う。私は最近になってようやく気持ちが解放されつつある状態だ。
 あちこちで倒壊家屋の撤去作業が進み、次の段階の整地がはじまっているところも目につくようになってきた。自力で建て直すもの、自力ではどうにもならないもの、もしかしたらすでに人出にわたってしまっているかもしれないもの、あるいはお役所の規制で、別の目的で整地されているものなど、中身は様々、新しい家が建ちかけているからといって、簡単には喜べないのなのだろう。
 JR東海道線は当初の予想をはるかに上回り、今月中に全線開通、来月早々から営業運転を再開。さすがに分割民営化されたとはいえ、もとは巨大な組織、崩れ落ちた高架をジャッキアップし、仮設駅舎を作りあげてしまった。あちこちに分散した力を結集すればこうなるのかと感心。一方、七月まで開通できない阪急だが、春闘の時に私鉄総連で徒党を組むのであれば、西武鉄道やら東急やら、あちこちの鉄道会社が協力すれば、JRと近い時期に復旧できたのではないかと、あるところで話をしていると「現場はみんな必死でやっとるんです」と、話に割って入るものがあった。「どう、必死にやってるんですか」と問うと、「会社によって業者が決まっていて、そこに入っている業者はみんな必死なんです」とのこと、話に割って入った人はいわゆる委託業者の関係者。
 要するにゼネコンと同じ談合組織があって、仕事の割り振りをするやつらがいるから、こっちの手が空いたからそっちを助けるというふうに、人の力の自由な行き来ができないだけなのだ。阪神、阪急はJRに比べて営業区域が狭いから非力だということを弁解に使わないでもらいたい。非力ならばいっそう工夫して、一日も早い再開を目指すべきではないか。仕事を苦労の度合いや時間ではかるのではなく、きちんと結果で評価する時代がそろそろきてもいいのではないか。

95/3/28
 夜、車で阪急御影とJR住吉の乗り換え通路にあたる山手幹線を通る。平常時ならだれも歩いていないような時間帯に、黒い人のかたまりが見えるのが異様。信号が変わると、これまた数珠繋ぎの車のすきまを縫って、黒い行列がものも言わず、表情も変えず、ひたすら前の人の背中を見つめながら通り過ぎていく。来週には東海道線が開通して、この行列の流れも変わるのだろうが、地震以来の通勤の不便にみんなうんざりしている。
 JRの開通で、おそらく阪急、阪神を利用する人の数は激減するのだろう。この近辺にある大学の卒業式なのか、着物にはかま姿、花束を持った女子大生の姿が目につく。卒業式がこの時間帯までということはないから、お祝いの宴席かなにかがあって、ということは宴席を開いて集まれる店があるということだ。少しずつ、店舗の再開を知らせるダイレクトメールが届きはじめた。開かれている店の実態はわからぬが、それでも経済は動き続けている。
 書店で阪神大震災を記録した写真集がたくさん並んでいる。こないだまでは手に取る気はなかったが、今はページをぱらぱらくる余裕ができている。「ここにな、うっとこの家がうつっとんねん」「どこどこ、あっ、ほんまや」「わし、この辺に寝とってんで」、そんなやりとりに思わず顔をあげ、気づかれないように男の開いたページをのぞき込もうとしたが、男と目が合ってしまい、しかたなく「ちょっとすいません」と、手に持っていた本を男の体で陰になっていた書架に戻し、男が見ていたのとは別の、地元の新聞社が発行している写真集を買ってしまった。

95/3/30
 朝から雨と風。大雨暴風注意報。午後、久しぶりに家が揺れる。震度二。ニュース速報で伝えられる震源地は神戸市灘区とやけに細かい。震度計があちこちに設置されたのだ。交通網の途絶した塾の迎えにすいている道を探してうろうろするうちに、かつて脳梗塞の父をリハビリに連れていっていた病院の近くに出る。このあたり、四軒に一軒が倒壊したところ。父が世話になった病院の院長自身、脳梗塞で倒れ、整形外科医であったのが発病後一念発起して、リハビリ病院を設立。父と違い、脳の右半分をやられ、言語が不明瞭であった院長も、今は亡き人。
 そこで父は、リハビリの日本一の権威と称する防衛医大の大先生に、「貴様、甘えるんじゃねえ」とか、「つべこべいうとぶっころすぞ」などと、治療と称し人格を傷つける罵倒を受けた。大先生によれば、現役の大学教授だった父のプライドが、リハビリを妨げている、そのプライドをまず破壊しなければ、リハビリはうまくいかないとの説明、今で言うところのマインドコントロールなのか、事実がそうであったとしても、どうも釈然としなかった。しかし、大先生のおかげをもって、父はまだ障害を残した状態なりに、元気に過ごしている。
 病院近くの小学校、まだ避難所になっている。春休みになっても夜になっても明かりの消えない体育館の窓から、毛布や布団、荷物でごちゃごちゃになっているところに遺影の飾られている場所が何カ所も見える。そこを通り過ぎ、またすいた道を探し求めて別の路地に入ると、崩れた家、道を半分ふさいだままで、その片方に頭のとれたお地蔵さんが何体か並んでいた。介護に疲れた母と、病気のあと介護の手伝いを妻にゆだねることが多くなった私と、介護を手伝うことに疲れた妻と三者三様の疲れ方をして、その上に地震にまつわるあれこれが重たくのしかかり、ごたごたの種をまき、子供を降ろしたあと、妻と二人きりのドライブなのに、いや妻と二人きりだからなのか、車の中はずっと無言。

95/3/31
 朝の散歩。やじろべえみたいに微妙な均衡を保ち、細い木のつっかえ棒に支えられ、かろうじて建っていた煉瓦の塀が、昨日の震度二のせいなのか、人為的な力によるのか、精根尽き果てたという感じで崩れ落ちていた。ふと気がつくと、駐車場にあったコンテナハウスが車ごと消えている。住む家が見つかったのだろうか。それとも駐車場の所有者に追い出されたのだろうか。あるいは水をくむのに便利な場所を探して移動したのか。まだ午前八時半を過ぎたばかりの頃から、向かいの倒壊した大企業の社宅あとの整地工事。資金力のあるところはどんどんと立ち直りかけている。あちこちでブルーのシートがはずされ、屋根の修理がはじまった。地震の被害と同じ等高線に従って、被害の程度とは逆に、被害の少なかった山から海に向かって少しずつ進んでいくようだ。
 昨夜、近所の中華料理屋で夕食を食べたが、テーブルに用意されている陶器の調味料入れのはしっこが、かけたままであるのが、いかにも現在の神戸らしかった。店内はなんとかかたづいても、すべての食器にまで手が及んでいないのだ。
 昼前、学校に避難していた退職した先輩教師のご夫婦が、転居先に荷物でも運んでいるのか、同僚の車を借りて(家だけではなく、一人息子も、車も失った)通りかかったのを見かけた。やつれ果ててはいるが、奥さんも少しにこやかな感じを取り戻し、夫婦の間に得も言われぬよい空気が漂いかけていると思うのは、これも私の単なる感傷なのかもしれない。
 明日からJR東海道線が開通。


まだまだ続く神戸からの報告へお進みください。
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