病気の話は老人の猥談です、神戸からの報告

98.12.21
 父が口をきけなくなって半年になる。脳梗塞発症した10年
前に左半身付随であったものが、今は右手右足も動かなくなっ
た。目と口以外、なにも動かない。手足に刺激を与えても、痛
覚もないのか、表情に表れることはない。医者が音は聞こえて
いるはずだと言うので、聞こえているつもりで私たちは父と接
している。事実、わかっているな、と思える瞬間もあるのだが、
それが長く持続することはない。

 この夏に肺炎を起こして、医者から危篤だと言われた。思え
ばそのころ、新たに脳梗塞を起こしたのかもしれない。もうだ
めだから家族を集めなさいと言われ、私たちもこれ以上、苦し
めたくないので治療をしないでもらいたいという意志を伝えた
が、父は自力で肺炎を克服した。そして12月に入ってら39
度の熱を出し、下痢が続いたがそれも克服した。

 今は労健施設にいるが、クリスマスイブの日に病院へ移るこ
とになっている。家庭での介護が苦しくなって、最初に施設に
入ったのが、去年の10月だった。その時点でロングステイの
申し込みをしたとき、二百四五十番だと言われた。一年経って
順番がどうなったか聞くと、十数番だけしか進んでいないとい
う。一年の間に十数人が亡くなったということを意味している。
一年前に、白血病にかかった家内の父親がホスピスの順番待ち
をしたときには、三十番という順番だったものが、わずか十日
ほどでまわってきた。老いという問題は、本当にやっかいなも
のである。

 十五年間、寝たきりの親を介護した人からこんな話を聞いた。
その人の子供(仮にA子ちゃんとしよう)は、生まれたときか
ら寝た状態の「おばあちゃん」しか知らない。本人とまわりの
苦しみをいやというほど味わってきたA子ちゃんが、担任の先
生のおかあさんが亡くなった話を聞いたときのことだ。A子ち
ゃんは、三日間、苦しんでこの世を去ったという話を耳にして、
「先生、よかったね」と言ったそうだ。もちろん担任は激怒し、
親を呼びだしてどなりちらしたそうだが、A子ちゃんがどうい
う意味でそんな「無礼」なことを口にしたのかなど理解できる
はずもない。私自身、最近、だれかが亡くなったという知らせ
を受けたとき、ある年齢以上の死に対しては、A子ちゃんと同
じように「うまく死ねましたね」とまず思うようになってしま
っている。

 老人保健で出る入院の費用が二ヶ月となっているために、病
院も二ヶ月か三ヶ月したらまた移らなければあんらないのだ。
昨年から一年間で、四ヶ所の施設と二ヶ所の病院を出たり入っ
たりした。その間には自宅にいた時期もある。最後まで自宅で
介護をやり通せるのなら、一番よいのだが、そう簡単ではない。
この十年の間、父に蓐瘡をつくらなかったのは、母の執念だと
言える。母には母にしかわからぬ目配りがあり、施設の職員と
ぶつかりあうことがしょっちゅうである。自宅の畳で死にたい
と誰もが思うことをかなえることの困難さに私の家族は直面し
ている。

 その施設に行くのに、健康のためもあり、この十日ほど歩い
ていくことにしていた。万歩計で往復を歩けば二万四千歩にも
なり、その夜はさすがに足がだるくて寝られなかったので、一
部はバスや電車を利用しているが、それでも一万五、六千歩に
はなる。歩くたびに道を変えると、いろいろおもしろいことが
ある。神戸に四十年以上住んでいて、はじめて見る景色もずい
ぶんある。大学を中退して店をやっている友人が、観光施設は
ほぼ震災前に戻ったが、観光客は七割程度だと言っていたが、
歩いてみると、まだまだあちこちに歯抜けになった場所が数多
くある。新しく家が建っていても、左右の家とのバランスが妙
にくずれているところは、たいてい震災の被害を受けた家だ。

 商店街の中にあって、いまだに復旧できず、仮設店舗のまま
暮らしている人も多くいる。震災以前は住居部分と店の部分が
一階と二階に別れていたものが、住む場所を確保するのがやっ
とで、工事現場の事務所で使うようなプレハブの家を敷地の奥
に建て、前に車を止めてあるところもあったりする。住宅地で
ならめずらしくもないが、それが商店街の真ん中なら話は別だ。

 今月から私は遠近両用の眼鏡をかけるようになった。ずいぶん
前に、老いの兆しをエッセイに書く人がいて、ハメマラか、メハ
ラメか、マラハメか、というようなやり取りが、そのエッセイに
まつわって行われたことがある。ハは歯で、メは目で、マラはつ
まり摩羅(梵語?)で、それぞれの衰えていく順番を語っている
のである。男性がどの順序で老いていくかについて語っているの
だ。そのとき、かつて「スカトロジア」で有名になった芥川賞候
補の作家でもある仏文学者が、「病気の話は老人の猥談だ」とう
まいことを言っていた。

 突然、なんの予告もなく生を中断せざるをえなくなった震災の
犠牲者にしても七十九にしていまだすべて自分の歯である父にし
ても、このような「死」あるいは「老い」について具体的に考え
たことはなかったに違いない。 へおすすみください。
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