神戸からの報告 第222信


98.8.15 父が脳梗塞で倒れ、左半身不随になってから、この十一月で
十年になる。昨年の九月ごろに突如具合がわるくなり、十月から特別養
護老人ホームに入り、ミドルステイとショートステイを繰り返しながら
過ごしてきた。今年の四月からほとんど口を利かなくなった。それでも
手を握ってくれと言うと、握りかえすことでわずかながらコミュニケー
ションがとれていたが、六月以降はそれもなくなった。

七月に入り肺炎を起こして入院することになった。七月十七日、夏休み
前の最後の授業が終わった直後に病院から電話がかかり、いよいよ危な
いから家族を呼ぶようにと言われ、あわてて病院にかけつけた。しかし、
その後、医者との相談で抗生物質の投与などをやめたにもかかあらず、
点滴だけで父は持ちこたえている。父は植物人間というのとは違うのだ
ろうが、丸二ヶ月ほど、はっきりとお互いに理解しえたと確信のもてる
コミュニケーションはない。

医者から一度目の危篤を宣言されたとき、葬儀のことを考え、知りあい
の牧師に来てもらった。父が倒れている十年という時間の間に彼もまた
教会を定年になり、そして病に倒れ、体が不自由になっていた。しかし
牧師がまくら元で大きな声で来訪を告げ、聖書を読み、祈りをささげて
くれると、明らかに父が興奮しているというふうに見て取れる瞬間がある
が、もしかしたら、見ているものの願望に過ぎないのかもしれない。

人間の脳は、光が見えなくなっても、最後の最後まで音を感じることが
できると医者が言っているので、それを信じて語りかけることにはしてい
る。もうだめだと、幾度も覚悟をさせられてくると、回復することに望み
を抱いていない私たちは、次第次第に、その瞬間を待っているようになって
いるのに、ためらいを感じることがある。人に話せば、がんばってください
と必ず言うのだが、私はもうがんばらなくてもよいと思っている。十年と
いうのは、がんばるには十分過ぎる時間であったと思う。

目は開いていて、痰がからむたびにうめくだけの父の体を拭くとき、背中に
ほんのわずかな蓐瘡もないことに、母が介護にそそいできた膨大なエネルギ
ーがお分かりいただけると思う。母は父との結婚生活の五分の一を介護に費
やしていることになる。

公園内には仮設住宅があった。かなりの戸数の仮設の前に洗濯物が干してあ
るということは、まだ相当数の人がそこに暮らしているということにほかな
らない。公園を通り抜けたところに四階建ての県営住宅が、まだ残っていた。
戦後最初に建築されたアパート形式の公営住宅で、当時としては最新の設備
であったのだろう。

横から見ると建物をつぎ足し、増築した部分があるが、三分の二ほどはかつ
てのまま残っていた。この辺りに市場があったはず、銭湯はここらではなか
ったか、立派な彫り物をしたひとたちがいて、シャツを着て入っているのは
なぜかと父に聞き、あわてて口をおさえられたこともあったように思う。銭
湯からの帰り、月がどうしていつまでも着いてくるのか尋ねても、納得でき
る答えをしてもらえなかった。紙芝居屋が来たのはこの辺りか、駄菓子は不
潔と買うのを許してくれず、遠くからながめるしかなかった。

ソ連の人工衛星がはじめて地球の周回軌道に乗り、アパートの庭で近所のお
じさんにあれがそうだと指さし教えられ、さすが○○さんは電気技師だけの
ことはあると、数字音痴の父がいたく感心していたのが印象に残っているが、
今ほど町に明かりはなく、星がよく見えたのは確かにしても、肉眼で本当に
人工衛星が見えたのだろうか。

家に帰ると、神戸空港の建設の賛否を問う住民投票についての説明会が、朝日
ホールで今日あるというメールが入っていた。二十数年前にも同じ計画があり、
たしかあのときには父も住民運動の主催者のひとりとして、空港反対の運動に
関っていて、私もまたその影響から学校新聞で空港に反対するコラムを書いた
ことがあったのだ。一度は死んだと思って計画がいまだにくすぶり続けている
のを知って、はっきり言って驚いてしまった。

町にはいろいろな時間が、いろいろな場所でいろいろな時間のまま、停り続けて
いる。空港を造れば町が潤うと単純に信じている人たちの時間もまた、どこかで
とまったままであるち違いない。


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