一地方都市の問題となりまして、神戸からの報告

98.5.24 家の前に公園ができた。ある会社の社宅があったところで、震災の翌日にそこから人がいなくなって、そのまま社宅は取り壊されてしまった。公園の下には直径にすると10メートルくらいあるのか、防火水槽が埋まっている。この種の施設が震災後あちこちにできたはずだ。新しい公園だけではなく、既存の公園にも同様のタンクを埋める工事をしていたのをあちこちで見た。

さて、家の中。家の中には震災の備えはほとんどない。懐中電灯も震災直後には電池を入れ換えたが、それ以後点検しているわけではない。水の備蓄もない。せいぜい夜、風呂の水を朝まで残しておくことくらいだ。それとて、もしかしたら、子どもの入浴時間が遅いために、風呂を洗うことができず、結果的に朝まで残り湯がたまっているだけであるかもしれない。

震災は局地的なものであった。日本が壊滅したかに見えたが、東京ではふんどし姿の力士が相撲を取り続けていたし、淀川を越えたでは向こうがわでは、若者はナンパに精を出し、ノーパンなんとかは営業を続けていたのだ。

震災から三日、持ちこたえることができれば、水や食料などは、なんとかなるという思いが、どこかにある。建物や家具の倒壊で圧死することなく、火事にもあわなければ、生きていくことはどうにでもなるのだ、たぶん。震災でどうにもならないのは、もっとほかにある。

98.7.10 参議院選挙がもうすぐある。震災の復興について、候補者が演説をしているのは、兵庫県の、しかも限られた地域だけだ。先日、ある文芸評論家が震災ボランティアからはじまり、新空港反対の住民投票を実現しようとしている田中康夫を揶揄して、阪神大震災を日本の大問題のように言ったけれど、単なる一地方都市の問題に過ぎなかったではないかというような言い方をしていたが、「単なる一地方都市の問題」だと言い切るとすれば、95年1月17日でなければいけなかったのではないのか。神戸にいた私は、震災から数日後、たとえば大相撲初場所をテレビでやっているのを見て、ああ、日本の一地方都市の問題だと直感していた。すべての問題は、自分の身体に痛みが走らぬかぎり、一地方の問題で、神戸にいてさえ、一部地域の問題になってしまっているのだ。いまだに震災からの日数を数えている人など、どのくらいいるのか。 へおすすみください。

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