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さらにまた神戸からの報告(95/3/1〜3/15)


   三月になって、季節が変わったのをきっかけに、「神戸からの通信」を中断していた。すると一週間ほどして、最初からずっと読んでいて下さった方から、インフルエンザにかかったのではないかとか、娘の試験はどうであったのだろうかなどと、私たち一家の安否を気遣いつつ、再開をうながすメッセージが何通も届いた。それではあと少しだけのつもりで再開すると、とたんに再開を喜ぶというメッセージが次々によせられ、大変驚いてしまった。
註;ここから先、文頭にある日付はネットに書き込みをした日付で、書かれている内容のあった日時と必ずしも、一致しない。

95/3/8
 実はこの通信を四十三信(95/2/28)で終わらせるつもりでいました。激震被災地域に住んでいるのは確かですが、被害状況の全貌があきらかになるにつれて、私などに報告の資格はないのではないかと思いはじめたのがその理由です。しかし、すべてを読んでいただき、神戸を知る情報源にしてくださっている方がおられるとのこと、うれしいことこの上ありません。毎日ではないかもしれませんが、再開させていただきます。
 三月三日 長女、合格、ばんざい。素直に喜んでやろう。三宮のアップルセンターに行ってみる。あちこちで故障したコンピュータが運び込まれ、不眠不休の復旧作業。いつも冗談ばかり言っているS氏がうつろ、何日も家に戻っていない。倒壊したビルの隙間を縫って銀行へ。途中、日替わり弁当を売る車多数。店がだめになって車を屋台代わりに使って商売をしているのか、店がつぶれて営業できないのを見すかして、どこからか現れたすきまねらいの営業なのか。
 今日、ガスが出た。風呂に点火。ガスが燃える音を聞くのがうれしい。風呂に入る。実に久しぶり。ああっと思わず、声が出る。パイプヒーターでは追い焚きできないため、ただつかるだけだった。シャワーからも湯が出る。あたりまえのことがあたりまえでなくなって、一ヶ月半ぶりのこと。荒ごみも地震以来はじめて正規の回収があった。町が元に戻るのははるか先だが、家の中は一応通常に戻った。今朝早くにも震度一の揺れがあったから、完全に解放されたわけではないが、あの日の朝、脱ぎ捨ててからはじめてパジャマに着替えることにする。家具に囲まれた寝室に戻るのはまだ先。
 三月七日は震災で犠牲になった二人の生徒の追悼式。倒壊した家屋の中で、母親にかばわれるかっこうで息絶えていた。式の半ば、故人が好きだったチャゲ・アスのセイ・イエスをクラスメートがピアノで連弾し、別の生徒が追悼文を読み上げる。ひとり残された父親が、将来苦しみに直面したとき、娘のことを思いだし、娘の分まで生きてもらいたいとの旨、あいさつをしたとき、自分の娘の姿と重なり、涙をこらえることができなかった。
 震災で遅れていた高校の卒業式を十日に控え、注意事項のプリントを生徒に配布。女子校の常として、毎年、在校生、保護者から卒業生への花束が手渡され、年々華美になっていく傾向にあり、それをいましめる内容。地震発生からしばらくして、市場に出かけた時、花屋が壊れた店の前にワゴンを出して商売していた。こんな状況で花を買う余裕のある人などいるものかと斜にかまえて眺めていたが、よく考えてみると、ワゴンに積み上げられていたのはみんな仏花。追悼式の献花の白い菊、死んだ生徒のひとりは中学三年で、もう一人は高校三年。彼女たちも生きていれば、花束はひとり千円以内で華美にならないようにする、という規則を無視した盛大で華麗な花束を友人や保護者から受け取り、私達教員と腕を組んでカメラに収まったかもしれない。
 書斎の蛍光灯が切れた。これまでならすぐ近所で買えたが、最近はたとえば二階が修理中で一階のみ使用というふうに、売場面積が縮小されている店が多く、簡単には手に入らない。電気がついて、水が出て、ガスが来て、家の中の日常はほぼ戻りつつあるが、町はまだこれからだ。
 風邪薬をもらいに近所の内科に行けば、保険会社の社員が勧誘に来ていて、中から医者が地震でみんなが困ってるときに出ないような保険には入るつもりはない、帰ってくださいとどなられ、聞いているみんなが苦笑し、その中をありがとうございましたと帰っていく若い社員の姿がなんとなく気の毒だった。その社員も運動靴にセーターという、被災地ルックと平常のサラリーマンルックの中間の服装をしていた。
 子供が学校から、ノートや下敷き、消しゴムなど、支援物資のあまりをもらってくる。小学校には文房具のほかに、賞味期限の切れたお菓子の箱がつみあがっているらしい。子供がもらってくるものの中に、決して豊かと言えない国の製品がまじっていると、おそらく自国の子供にも行き渡らせることのできない国から、どのような経路で被災地に届いたのかと考えると、ちょっと胸につまるものがある。もらってきた中に、二、三センチの長さにちびたクレヨンもあって、純粋な善意をふみにじるのを覚悟で敢えて言わせてもらえば、よほど大切に使う人でない限り、ごみ箱行きの対象としか思えない。裏には平かなでもとの所有者であり、かつ緊急物資として差し出した人(子供)の名前が書いてあって、これにも別の意味で考えさせられた。
 町は今、倒壊した建物の撤去作業が進みつつあり、かさぶたがはがされるように地面が露出しているが、傷は必ずしも乾ききっていない。

95/3/10
 年寄りが季節の変わり目に神経痛がうずくという話を聞いて、子供の頃不思議に思っていたが、私の傷も春の訪れを聞いて、うずきはじめている。震災時、無数の負傷者が運び込まれ、遺体が運び出されたかかりつけの病院に電話をし、検査を予約する。どうやらCTなどの精密医療機器は無事だったようだ。ポートアイランドの市民病院では多数の機械が壊れ、地下室にあったらしいMRIやガン治療用の、高額の機械が多数やられたと聞く。それらの復旧がどうなっていくのか。
 わが家のすぐ近くにあった古い社員寮の取り壊しが終わり、屋根のやられた家の前に新しい瓦が積み上げられ、建てかけの木造建築には、こないだまでなかった筋交いと呼ばれる、柱と柱の間を斜めに横切る補強材が入れられるようになった。
 敗戦の年、三月の神戸大空襲で、母の一家は焼け出されたが、しばらく疎開して戻ってくると、かつて店を出していた土地に、見知らぬものがバラックを建てて住んでおり、結局土地を奪われると言うことになってしまった。今で言う元町商店街を出たところ、神戸大丸の一筋ほど山側に当たるらしい。震災が起こった直後、その話を思い出し、似たようなことが起こるだろうなと思っていたら、やっぱり暴力団が勝手に建造物を作って居座っている場所が出現したと聞く。もとより彼らの土地であったのか、他人の土地なのか知らぬが、パンをもらって施しを受けた人たちは、しっかりと目を見開いて見ておく義務がある。
 交通機関の混雑ぶりは相当なもので、大阪方面から三宮に向かうのに、JR住吉で下車、徒歩で阪神御影、または阪急御影に向かい、王子公園で下車、そこからJR灘駅まで徒歩、そして三宮に向かうというのが、現在もっとも安定したコース。地震前なら新快速で二十分だったコースを、二、三時間かけなければならない。従って、ウイークデイは会社近くに泊まり、土日に自宅へ戻り、月曜日に出勤というケースが多いらしく、今週の月曜日は王子公園駅に到着した電車から降りられないと言う事態があった。つまりJR灘駅に向かう人が信号でたまり、改札でたまり、階段にたまり、ホームにたまり、電車からも降りられないと言うわけだ。
 生徒には大勢被災者がいるが、のんきでたくましいものもいる。自宅が全壊し、親戚の家に疎開しながら、震災後、一週間目に外タレのロックコンサートに行き、その生写真を撮ってきて、それを見てくれと私のところへやってきたのだ。父親が会社を経営していて、いずれなんとかなるという余裕がそうさせるのかもしれぬが、父親の仕事が震災にもかかわらず、順調にいくとはとても思えない。一緒に生写真を見せに来たもう一人は、父親がストレスで倒れて、入院中。たくましさをほめてやるべきか、鈍感さをたしなめてやるべきか。
 震災直後、制服を失い、あるいは通学路が危険で、制服を着ない生徒が少なからずいた。授業が平常に戻って来るにつれ、風紀違反だと咎める空気も復活し、そこで編み出されたのが「異装願い」などという奇妙な存在。本当に被害にあったものと、被害に便乗していい加減なことをするものがいるのは、子供の世界も大人の世界も同じだが、それにしても、ちょっとね。
 地震のあと、一時的にあった解放区的な気分は確実になくなり、根こそぎにされたと思っていたエゴがしっかりと息を吹き返しつつある。まだ家にガスが来ておらず、入浴できない生徒のために、合宿所の風呂を開放することになった。

95/3/11
 さて、卒業式。交通事情もあり、例年よりおよそ一時間遅れ。どこの局だか、本校の放送部のカメラの横に、本物のテレビ局のカメラが並んでいる。保護者に着物姿はなく、やや上等の外出着といったところ。死亡生徒を含む全員の名前が読み上げられ、証書授与。校長、来賓、送辞、答辞、みんな例年以上の思いがこめられていたせいか、過去に経験のないほどの長時間の式になった。
 過去において、死亡生徒の扱いがどうであったのか。私が知っている中で、卒業を目前にして骨肉腫で死んだ生徒がたしかひとりいた。死亡すなわち学籍を失うと言うこと、籍のない生徒には卒業資格がないというのが、ごくあたりまえの規則の解釈。そこで心情的に一緒に卒業させてやりたかったという思いも理解できないわけではないので、卒業番号を空欄にした「はなむけのための卒業証書」という概念を発明し、議論をしたと思う。その生徒の場合は最終学年の半分を越える長期の入院をしており、卒業の条件を満たす学業成績の資料がなく、たしか認められなかったのではなかったか。今回の場合は、本人が死亡して存在しない以外、出席日数も成績も卒業を認定するのに必要とする条件を満たしており、「はなむけの卒業証書」を出してもらえないかという提案が学年からなされ、さしたる反対意見もなく、職員会議で了承。その後、お役所から校長判断で正規の卒業をさせてやってもよいというお達しがあり、番号付きの正規の卒業証書が遺族に手渡されることになった。これが私の勤務先だけではなく、被災地神戸のほとんどの学校で行われたことの一部始終だと思う。
 しかし、である。校長が教育委員会からの通達を理由に、番号抜きの証書を正規の番号付きに変更するという報告をした会議の席上、「人間の死に等級をつけるのか」という勇気ある問題提起をしたものがいたが、そのきわめて重要な指摘は黙殺され、残念ながら論点とならずに終わった。
 緊急時にみんな大変なんだから、行政の批判はしないでおこう、彼らも同じ被災者だから、あの人は本当はいい人なんだから、一生懸命やっていたじゃないか、五千人以上の人が死んだのだからなどなど、そういう甘い言葉で総括してもいいものだろうかと、今の私は考えはじめている。
 大きな天災による被災地では食料品店が襲われるなど、どこの国でも起こりうることが神戸ではなかった、神戸市民は一等市民だ、などというきれいごとの背後に隠れたものをしっかり指摘しておかねば、あとあとおかしいことになる。だめなものはだめ、役に立たなかったものは役に立たなかった、批判すべきものはきちんと批判し、沈黙と忍耐が美徳だなんて偽善的な言葉に、絶対にごまかされてはならない。戦後五十周年、民主主義五十周年、多数決という論理を全面に押し出すあまり、数だけをよりどころに、理念を考えようとしてこなかった五十年を、今こそしっかりと見据えるべきと思うのだ。
 さて、死の等級について。そしてさらに、本人が死ぬ寸前まで卒業を楽しみにしてきたのは事実であるにしても、籍がなくなってしまった状態での特例の卒業を、ほかならぬ本人が望んだであろうかという、今となっては確認しようのない問題について。センチメンタルになって、人間の尊厳ある死について思考を停止してもいいものなのか。誰のために、人の死に等級をつけようとしたのか。冷たいという非難を覚悟して、敢えて言わせてもらえば、生きているものの満足のためにであって、少なくとも死んだ本人のためにではないはずだ。
 たとえば私は一年半前、ガンの告知を受けて、恥ずかしげもなくうろたえ、うろたえている自分をどう表現したらよいのかわからず、かなりの長い期間、ひたすら感情を殺した状態になってしまった。死の宣告を「誰にでもいつか訪れるものですから」とでも言って、淡々と受けとめ、目を逸らさずに死を受け入れることができればと、怯える心の中で何度も願った。自らの死を考えたことがないに違いない愛犬を見て、心底、動物はいいなあと、うらやましく思った。
 堂々と死を受け入れることができる、そういう人が一級の死者ということになり、人目をはばからず、泣き叫び、死を待つのが二級、死を待つことに耐えられず、自らの手で命を絶つ、これは三級の死ということになるのだろうか。
 もしも五千四百人の死ではなく、たとえば卒業式を目前に控えた(つまり、本人がいなくなったという以外の、すべての卒業のための条件を満たしているという事)、たった一人の病死、あるいは交通事故死であったらどうなったのかなど、様々なことが思い浮かび、自分でどういう結論を出すべきか、かわからなくなってしまっている。
 人間は受胎した瞬間から、すでに死にはじめている。死を病だと考えると、平均寿命七十年というのは、死という病の潜伏期間が七十年ということなのだ。卒業させてやりたかったというのは、あくまでも生きている側の気持ち、死者にとってはそれほど意味のあることだとは思われない。血も涙もない、冷酷だと思われるかも知れないが、病気で死に直面し、以来、死とは何かを考え続けている私にとっては、会議で出された「死に等級をつけるのか」という勇気ある問題提起を無視してやり過ごすわけには、どうしてもいかない。  儀式としての卒業式、形式としての卒業証書は、私達のとった処置でよかったのかもしれない。でも、その背後に含まれた重要な問題については、考え続けて行かなければならないし、考えることは、未練を残して突然命を奪われた震災の多くの犠牲者の心を踏みにじることにはならないだろう。逆の言い方をすれば、死というのは、卒業証書のごとき一枚の紙切れで癒されるほど、あるいはその重さを左右されるほど、軽いものではないのだ。

95/3/12
 風の強い朝だった。屋根にかけたブルーのシートが激しく風にあおられている。灰色の土嚢を重りにしておさえてあるが、住む人はさぞ不安だろう。歩いていると、瓦がいつ飛んでくるかわからず、なんとなく上を見上げながら歩いてしまう。
 JR住吉から阪急御影の道、最初に通ったときと二度目に通ったとき、三度目に通った時で、少しずつ道筋が変わっている(幸いなことに、私は毎日電車を利用せずにすむ距離に通勤している。従って一度目から三度目の間に、一ヶ月ほどの時間のへだたりがあるのだが)。普段なら必要のない乗り換えを強いられている通勤客の誰かが、少しでも近いところをと、瓦礫をもろともせず、もと誰かの家であった場所さえ通り、新しい道を開発していったに違いない。そしてついにその道は、公園を通り抜けることになった。しかも、歩く人たちの意識はひたすら最短距離をということだから、公園の真ん中を横切ることになる。これまた当然、公園は子供の遊び場で、最短距離を進む線上に子供がいるということになる。付き添いの母親が「子供たちにはここしか安全に遊ぶ場所がないのです」と必死に叫んでいる。心の中はどうだか、疲れ切った通勤客には表情というものがなく、ただ黙々と歩き続けていき、子を守ろうとする母親の声だけがむなしく繰り返されていくのである。
 これまた子を思う母親の話。中学の時の進路調査の将来の希望の欄に「旅人」と書いたすこぶる愉快な生徒のことだが(彼女の家は全壊、親戚に避難中)、今、高校二年になっている彼女の目下希望している将来の旅先はインドである。大学へ入れと命じる親に逆らい、あくまでもインドへ行き、ジャンキーになって、不思議なパワーを身につけてやるなどと、言葉の意味を知ってのことかどうか、おそろしいことを口にしている。彼女は震災後、家が全壊したという事実にも全くめげることなく、余震が続くにもかかわらず、あちこちうろうろするため、心配した母親から外出時に携帯電話を持たされていた。大阪の書店で「ヒンズー教とインド」という本を買おうとしていたところ、突然、電話のベルが鳴った。なにごとかと大勢の客の前で電話をとると「あなた、シャツを着ないで出かけたでしょ」という過保護な母親の叱責の声。瓦礫をもろともしない彼女であるが、インドへの旅立ちの日はまだまだ遠そうだ。
 自分が住んでいる場所の、被災状況のひどさの度合いに比例して、マイナスのエネルギーの照射を受け、じっとしているだけでも疲れてしまうと多くの人が訴えている。子供の元気の陰には、一家のおかれている状況を子供に知らせまいとする、親のがんばりがあるのかもしれない。

95/3/13
 灘のダイエーに買い物。車を止めようにも駐車場は満車、辺りは違法駐車だらけ、ぐるぐるまわったあげく、結局すきまを見つけて違法駐車の仲間に加わる。店に山積みにされているもの、荷物整理に使うコンテナボックス、ガスボンベ、マスク、トレッキングシューズ、ナップザックなどなど。震災直後、あちこち探し回って手に入らなかった水を使わないドライシャンプー、これもまた山積みの商品のひとつ。「今頃になってこんなものを並べたってしかたないよな」と、女房に話しかけようとしたら、女房と私の間から手が伸びてきて、くだんの商品をふたつつかんで持っていく人がいる。
 そうなのだ、自分の家の状況を基準にものを考えてしまうが、ガスの復旧状況は神戸市全体ではまだ二十パーセントに到達していない。水を使わないで使えるお米があるらしいわねと、話しながら買い物をしている二人連れもいる。私が違法駐車した辺りは、水道がまだの頃、毎朝水をくみに来た水道局の地下タンクのあるところで、少し先にはテント村がまだ存在しているのだ。
 学校に暮らしている退職した教師夫婦、同僚の車を借りて毎朝、倒壊した家に様々な思い出や実用の品々を掘り出しに行っている。新しい生活をはじめるまでに、まだまだしなければならないことがたくさんある。
 私の書斎から見おろせる、全壊家屋、とうとうあとかたもなく取り壊され、瓦礫はどこかに運び去られた。なくなったブロック塀のかわりに板をはりつけ、そこが境界線であることを主張している。平屋の家が三軒並んでいたのだから、建築された時期はかなり古かったに違いない。それほど天気がよいわけではないのに、大阪湾をはさんだ向こう岸の、建物のひとつひとつを目で確認できそうなほどの、見通しのよさ、阪神工業地帯は空気を汚す元気をまだ取り戻していないのだろう。
 近頃、生徒からとげとげしさが消えているような気がする。地震で何かを学んだのか、疲れているのか。できれば前者と解釈したいが、たとえば一週間ほど風呂に入っていないと教室でつぶやくと、これまでなら汚いだのきしょい(気色悪いの意味)だのと叫んでさわいでいた同じ生徒が、あとでこっそり近づいてきて、「先生、わたしの家、遠いけど来ませんか。ガス出るようになったから」などと言ってくれる。それがひとりやふたりではない。震災の傷は一日も早く癒えてほしいが、生徒の心はいつまでもこのままであってほしい。
 消防車のサイレン、家の前で止まる。まさかと思い外へ飛び出すが、火事ではない模様。ヘルメットをかぶった消防士が路地へ入り、どこかの家に入っていった。火事の恐怖が意識にしみついている。続いて救急車が行く。これは家の前を通り過ぎ、学校のところで止まった。救急車の後ろには大津市消防局と書いてあった。

95/3/14
 子供の小学校では卒業式の時、六年生は講堂の段上にあがらなくなった。新しい考え方が芽生えたわけではなく、危険でのぼれないのが実状。都会の、ただでさえ狭い運動場も、石垣が崩れて三分の一が使用不可。総合遊具は鉄くずと化している。避難所になっていたり、校舎が使えなかったりして、水族園のイルカショーを行うところで卒業式をした中学もある。女房の両親から子供に、卒業式に着ていく服でも買ってやってくださいと、祝いのお金を送ってもらったが、式に着ていけるような服を買う場所がない。
 今年、神戸の私立中学の多くは会場を何カ所かに分けて入試をした。たとえば私の学校の場合、西は明石のホテル、東は大阪の予備校を借りた。同様の処置をしたほかの学校の教師に聞くと、私の勤務先同様、やはり神戸会場での受験生徒の平均点が悪く、東西の試験場の平均点の方が高かったとか。合否判定の上で、なんらかの操作をしてやりたいものの、どうしようもないというのが共通の認識。二月はじめに予定されていた試験が一ヶ月延期を余儀なくされ、それがプラスに働いたのは被災の少なかった地域、神戸はまったくプラスに働かなかった。たまたまわが家にも受験生がいたために容易に予測できたが、採点にたずさわっていたものの中で、なんで神戸がこんなに悪いのかと嘆きながらしていた鈍感な教師がいたと、別の学校に勤める友人から聞いた。ときどき、震災のあとであるのを忘れて、不用意な感想を抱いている自分にぎょっとすることがある。人の無神経を笑ってはいられない。
 ライフライン、ライフラインと、ラインばかりが強調されるが、ラインのもろさにおろおろしたのが、今回の教訓でなかったのか。初動段階で一番役に立ったのは個人という「点」であり、アナログとしては口コミ、デジタルとしてはパソコン通信、点と点を結ぶネットワークであった。ラインを強調する既成の機関は身動きがとれず、あちこちでもつれ、からみ、ほつれて、切れて、本当にどうしようもなくなっていた。役所が手放そうとしない「規制」は、利権ももちろんあろうが、基本は愚民視。第二次大戦中、日本の占領下にあった国の指導者が、英国の愚民政策は愚民にならなければよいからかまわないが、日本政府の愚民視は許せないと発言していたのを、どこかで読んだ。
 占領国に対してだけではなく、自国の国民に対してさえ、役人の姿勢は今も昔も、ちっとも変わっていない。あちこちに残る避難所で、たとえば役所が給食の配布を中止すれば、弱者切り捨てと住民がさわぎ、ボランティアが炊き出しを打ち切るときは、必ず住民は「わたしたちも自立しなければならないのはわかっています」と、悲壮な面もちで答えている。同じ行為の中止に至る過程に、個人対個人の話し合いがあって、互いを認めあっているかどうか、大きな違いがあるに違いない。
 十年前の卒業生から、結婚式の出席を求める電話。彼女の家は水道筋商店街の布団屋。一家無事の張り紙があったと、この報告のどこかで書いたことがある。結婚相手は関東の人、今度の震災で一度は式をキャンセルしたが、五月に新神戸オリエンタルで会場を取れたから、ぜひ出席してもらいたいとのこと。彼女の家、建物は建っていて、とりあえずは生活できているが、全壊の扱い。商店街のほとんどは建て直しを余儀なくされており、一年前に父親が心臓を悪くして倒れ、結婚して実家を離れなければならない彼女の胸中はいかなるものであろうか。「大変だったね」というと、「もっと大変なところがありますから」との返事。
 地震前は上ばかりを見て暮らしてきたが、震災後は下を見て、まだ自分たちは恵まれた方だと考えることで毎日を過ごしている。そういえば年賀状で別の卒業生から結婚式に出席してもらいたい、ついては後日依頼の挨拶にうかがう旨書いてあったが、なんの連絡もない。無事にいるのだろうか。連絡をするのが恐い。

95/3/15
 鉄道の一部が再開する度に、人の流れる経路が変わり、本来ならそれほど乗降客のない駅だから、その混乱ぶりたるやただごとではない。まるでえべっさんのような状態になったのが、十三日の阪急御影。不通だった王子公園と三宮間が通じたので、大阪からとりあえずは一度の乗り換えで行けるようになったわけである。住吉駅から蟻のようにぞろぞろ歩いてきた人たちが、切符を買おうにも買えないまま改札を通り過ぎ、駅員に降りるときにはらって下さいと言われる。どのみち運行している距離は短く、全線乗っても料金はしれているのだ。
 今週の終わり、学校では義援金集めのためのバザーの予定。親友のアーティスト氏とカレー屋をする。店を出すためには保健所の命令で検便が必要なのだが、あちこちで炊き出しをしている人たちは検便をしているのか。係の教師に質問すると、炊き出しは無料だが、バザーは金を取るから必要とのこと。無料は病気をばらまいてよいというのは、どうも納得できない。要するに、これもお役所仕事の規制の一種だ。保健所の指導によれば、ついた餅をその場で食べるのはよくて、お持ち帰りは禁止になっている。正月の餅なんて、青黴をけずって食っているじゃないか。
 とにかく検便にまつわる某女史の話。自宅での排便に失敗し、学校の便所の配水管にしがみついて、まさに背水の陣、再度、採便に挑戦。うまくいった喜びのあまり、Vサインを出し、にこにこ笑いながら保健室に「出ました、やっと出ましたよ」と容器を持って入っていくと、養護教諭に「ガスが出ましたか。よかったですね」と言われたとか。被災地に住む人の頭の中はライフラインのことばかり。養護教諭の家のガスは、まだなのかもしれない。
 生徒の被災状況把握のための巨大地図のボード、図書館の書架作りを一緒にしたのが、にわかカレーショップの共同経営者であるアーティスト氏。広島から原爆をテーマにした作品を求められて、真剣に悩んでいる。戦中派世代が神戸大空襲と重ね合わせて震災をとらえているが、我々の世代までが安易に原爆と今度の震災を重ねあわせてしまわぬように、慎重に考えをめぐらせているのだ。
 様々なメディアを通じ、擬似的にしか知らなかった戦争と、目の前にあるすさまじい光景(まぎれもなく私は、五千人以上もの人の命が奪われる現場にいたのだ)と、どう比較したらよいのかわからないのは確かだが、天災と人災はあきらかに違う。震度七に耐えうる町づくりをというのをキャッチフレーズに、これ幸いにというか、こりずに開発を押し進めようとする神戸市を揶揄して、六甲山の地下に最新の耐震構造の原子力発電所でも作れと過激に言うアーティスト氏、今度の震災を経験した彼の感性が原爆をどんなふうにとらえなおしていくのか、友人としてひそかに注目している。
 実は私は、一緒にコンピュータをはじめたアーティスト氏、震災後、無理がたたって気胸で入院していた若い同僚らとともに、昨年秋から、生協が主催する「男の料理教室」に通っていた。ネットワークの考え方を発展させ、組織の外へ出て、おもしろいうことをするために、異業種の人と出会う場所を求めての参加だった。教師にとって、ものを習う体験は新鮮で、月に一度の教室を楽しみにしていた。地震発生の週の土曜日、鯛をさばきかたを習うはずだった。
 今日、その教室から、六月から再開する旨の手書きの通知が送られて来た。生協の本部は全壊し、コンピュータ施設が破壊され、地震の翌日から可能な限りの営業をはじめたものの、手作業の発注を強いられるなど、大変な困難を味わっていたらしい。会場は東灘区住吉川ぞいの西岡本、この町内で教え子の一人が死亡している。とにかく、東灘区は、灘区、長田区などとともに被災のひどかった地域。そこに参加していた人たちのうちの何人が無事に集まってこれるのか。それを確認するためにだけでも行かねばならない。


さらにもっと神戸からの報告をお読みください。