たんすのへそくりです、神戸からの報告

97.8.30 以前、顧問をしていたクラブのOG会があって、看護婦をしている卒業生と話をした。子連れで来ていて、途中、彼女の母親が「孫」を迎えに来たのだが、母親とも面識があったので、しばらく話をした。
 彼女は中学に入ってすぐに、父親が知人の借金の保証人になり、そのトラブルで経営していた会社をたたまなければならないことになった。その後、しばらく行方をくらますようなことがあり、大変つらい思春期を過ごしたわけであるが、明るく気丈な母親に支えられて苦しい時期をやり過ごした。
 震災の前の年の正月、近所の神社の屋台を見物して歩いていると、彼女が父親も含めた家族で散歩しているのに出会い、結婚が決まったことも知らされ、いろいろとあったできごとのけりがついたようで、心から、よかったね、と言ったものだ。その年にあった結婚式には、もちろん出席させてもらった。
 それからおよそ一年後、震災のあった年の年賀状におめでたが近いと書いてあった。そして、1月17日のあの震災である。彼女の実家(嫁ぎ先は大阪)が正確にどのあたりか知らなかったが、いつだかの正月に会った神社は被害のひどい地域にあり、その神社そのものも一部が火災に遭っていた。震災後しばらくたって、彼女の実家が全壊し、父親が亡くなったことを、彼女の友人を通じて聞いていた。それからはじめて今日、直接(手紙のやりとりはあった)会ったわけである。
 大変でしたね、と母親に言うと、ほんとにねえ、この子の結婚式だけでも終わってからでよかったと思って、とのこと。父親と音信が途絶えていたときではなく、父親が家に戻り、彼女と再会を果たしてからで、本当によかったですね、というようなことを私が言うと、震災の時は、死んだ人はこれ以上死なへんから、言うて、わたしらだけ避難所に逃げたんですよ、というような言い方。
 それからしばらくしてからの母親と彼女の電話でのやりとり。以下はその内容。おとうさんのへそくりが、たしかタンスにあったはずや、あれだけはなんとしても堀り出さんと。百万くらいあるん知ってるねん。おとうさんがお葬式代残してくれたんや、きっと。なんでおかあさん、そんなん知ってるの。生きてるとき、ときどき、内緒でそっから借りてたんよ。おとうさんは生きてるときも、あんまりもの言わん人やったけど、死ぬときも、もの言わんと、自分で自分のお葬式の用意して、いってしもたなあ。
 数えきれないほどの苦しいことを乗り越えてきた彼女は、いつも学校に来るときに食べていたパン屋のパンとジュースを買って手に下げていた。そしてこれ、おとうさんの仏壇にと母親にことずけていた。彼女の父親は、彼女の中学高校時代を全く知らないか、あるいは知らないことになっていたのだ。
 そのように陽気で気丈な母親であったが、通りをへだてて無事な家を目にしたりすると、なんでうちだけがと、しばらくは見るものすべて腹が立つ日々もあったという。
 地震があったとき、どこが震源地かわからなかったが、姑さんのところじゃなくて、家の方に先に電話したとか。でも、これは内緒なんですよと彼女は笑った。電話は通じたみたいだが、電話にだれも出なかったのは言うまでもない。
97.9.2 防災の日の訓練は、国土庁長官の東海地方に大地震の恐れあり、緊急事態にそなえよというような設定ではじまった。地震の予知が可能だという幻想を、つぎ込んだ予算分に見合うだけ与えなければならないという意味があったのかもしれないが、地震は台風ではなく、あくまでも突然なのだということを、神戸で学ばなかったのだろうか。東海地方だけに地震があるのではなく、地震がない安全な地域という幻想の上に暮らしていた神戸という町を、震度7などというこれまでに想定したことさえない大きな揺れが襲ったのだ。

東京都の防災会議では、東京での通勤ラッシュ時、直下型の地震が起こった場合の被害の予測を建てていて、焼失家屋が、阪神の50倍以上の38万(被災家庭のための仮設住宅をどこに作るのか、仮設が必要なのは、当然のことながら、火災による被害だけではない)もあるのに、死者が7100人ということになっているが、なんとのんきなことをというのかというのが、正直な感想だ。

かの関東大震災では、昼の震災発生で、死者10万、行方不明4万3千、家屋全壊12万8千、半壊12万6千、消失44万。阪神大震災が、関東大震災と同じ時間帯に起こっていれば、それに近い数字が大げさというなら、その半数くらいの被害は十分にありえたのではないか。

それに比べ、東京都の防災会議の楽天的な見積もりの根拠はなんであろうか。家屋の強度、防災意識の相違、消防力の差、あるいはもっとほかの要因であろうか。東京の人口密集、家屋の密度など、当時のほうがはるかに少なかったはずだが。

数字の記憶が少しあやしいが、どさくさにまぎれて虐殺した朝鮮人の数が、今回の東京直下型地震の死者の数と同じ、七千人ではなかったか。理性を失った人間の野蛮さというものは、震災以上のものなのだろう。阪神大震災において、関東大震災の朝鮮人大虐殺のことを、在日の人はひとり残らず頭をかすめたに違いない。

早朝、人々が活動をはじめる前であったことが、いくつかの幸運をもたらしたが、中でも「家族の安否」が一瞬のうちに確認できたというのは、なによりも大きいのではなかったか。もし通勤途上、あるいは出勤後に起こっていたら、家族の安否確認のための人の動き、車の動きは想像を絶するものになったはずで、緊急自動車の通行など、とてもじゃないが不可能であろう。たとえ現場にかけつけられたとして、水を確保できなかった長田での悲惨を、よもや忘れたわけではあるまい。

あのときも、村山内閣の機能停止が問題になったが、今度は揶揄してではなく、文字通りの機能停止が考えられる。訓練では、橋本龍太郎がかっこよくヘリで駆け付けたが、官邸にヘリポートがあり、自衛隊が出動可能だったとしても、「どこへ」駆け付けるつもりなのだろう。はからずも壊滅状態の東京から、自分だけがヘリで逃げたことになってしまうとか、公邸から県庁まで駆け付けるのに、車を待って何時間もかかった貝原知事のようにならぬことを祈るだけだ。

遠隔地からの生徒を抱え、六学年、千八百人の生徒がいるわけだが、もし昼間、震災が発生し、交通網も通信手段も遮断されたとして、これだけの人数の飲料水と食料を、どうやって確保できるのだろうか。生活用水は、プールが無事であれば、一日くらいはなんとかなるかもしれない。防災白書などによれば、二日分であったかの食料、水は自分で確保しておくことになっているが、千八百となるととてもじゃないが、不可能だろう。そして生徒のために、どうやって家族との連絡をとればよいのか。阪神大震災のときには、愛護のひとりの安否を確認するのに、一週間近くかかっているのだ。

しかし、である。神戸に住む私は震災に対する備えを、なにかしているかと問われたら、風呂の水のためおきくらいのもの。今なお、仮設にいる人を除けば、もはや他人事、自治体にとっても、阪神間以外の地域では似たようなことになっていないことを、心より祈るだけだ。

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