神戸からの報告 第209信

97/5/30 妹尾河童の「少年H」に戦災者住宅に入居するところが出てくる。
薄壁一枚隔てたところに、父親を亡くした母子が住んでいて、その子供たちが、
食べ物をうらやましがったりして、壁から始終のぞき見をする。二つの目玉に
のぞかれていることで、少年Hが次第に精神的に追い詰められてくるのだが、
仮設での生活というのは、それと似たようなものなのだろう。避難所の生活か
らはじまり、やがて二年半が過ぎようとしている。

恐ろしい病気の告知を受けたとき、自分だけが置き去りにされた感覚があった。
しかし、震災の時は自分だけではなく、自分もどこかへ連れて行ってくれると
思った。しかし、時間が経つにつれ、淀川を渡り、大阪に行くと、震災は神戸
だけのできごとになっているのがわかり、驚いた。そしてあれから二年半、神
戸の中でもさらに震災はごく一部の地域の、ごく一部の人のものとなりかけて
いる。いや、すでになってしまっている。

白血病になった義父の病状は刻一刻変化する。極めて危険な状態であったもの
が、ホスピスに転院したとたん(最初の制ガン剤による治療効果が出てきたと
か、いろいろな要因が重なっている)に好転して、再び治療可能な状態に持ち
直した。次の治療をするかどうかを話し合うために、担当医は4、50分の時
間をさいて、患者をまじえ、家族と話し合いの時間をとってくれた。その間、
担当の看護婦もずっと同席して話を聞いていた。インフォームド・コンセント
というのは、本来、こうあるべきなのだろう。なんの可能性があるかという問
いに対し、十中八九、肝臓ガンだと、私自身が告知されたときの短時間の主治
医とのやりとりをつい思い出した。同じ病院の緩和ケア病棟と外科(緩和ケア
病棟ができたのは私が退院し、一年以上経過してからのことで、もしかしたら、
現在は多少事情が変わっているかもしれない。医者の意識に変化をもたらして
いることを期待する)でこれだけの違いがあるのだ。

人間の「死」には、こうやって手順を踏んで、場面場面で、本人がさまざまな
決断を強いられるものと、突然訪れるものがある。この世に生を受けたものす
べてが避けることができない死であるが、死そのものは平等であっても、死の
迎え方は決して平等ではない。

私は告知されたとき、恐怖にさいなまれ、秒読みのような状態にさらされるの
が苦痛で、突然でしかも一瞬のうちに、命を奪っていってもらいたいと切実に
思った。震災の死の多くは、まさに一瞬の死であったはずだ。一瞬の死には、
無念がつきまとう。だれのための無念であるのか。多くは残されたものが類推
する死者の無念であって、本当のところはどうなのだろうか。死は、ほかなら
ぬその人自身のものだと言い切りたいところだが、事実はそう簡単ではない。 へおすすみください。
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