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またまた神戸からの報告(95/2/15〜2/28)

95/2/15
 仕事の打ち合わせの必要があって、Kさんに電話。伊丹だから大丈夫だと思い、被災地の枕詞として「どうでしたか」で切り出すと、家が全壊したとのこと。向かいにマンションが見つかり、電話が昨日から通じるようになったばかり。
 彼女、9年前に火事で家を焼いている。アルバムをすべて失い、子供の生まれた直後の写真も、誕生の記念に人に送ったものを返してもらってかき集め、何とか作りなおした。それがなくなったらどうしようかと思いつつ、瓦礫の中を探し、そのアルバムが見つかった。「先生、火事じゃないから、今度は立ち直れそう」と涙声で言われ、言葉を失ったまま、黙ってうんうんうなづいていた。
 宮大工だった父親が、仕事の合間に建てた家は無事残っていて、借家にして人に貸している。立ち退いてもらい、そこに住みたい気もあるが、十数人が避難してきて一緒に暮らしているのを見ると、そんなことは言えない。火事の後はとにかく、どこでもいいから空いている家をと探して入った、だから今度こそ、気に入った家を建てようとみんなで話していたのよと言われる。
 私の家がまだガスが来ていないのを知ると、電気で使える鍋があるから貸してあげようかと言われる始末。子供の写真を大切に思う気持ち、取り戻しようのない思い出、母親の気持ち、素直に感動して、涙が出てしまった。「学校へ来たら、唖然とするくらい、どうもないですよ。どうもないのを見て、かえって愕然とするかもしれませんよ」と、被害の少なかったのが、なんだか申し訳なく、そんな言葉を何度も繰り返して電話を切った。
 私自身を含め、マスコミもみんな、悲惨さ比べをやっている。自分の悲惨さが相手より劣っていると、即座に見聞きしてきた悲惨さを、これが切り札とばかりに出して、相手に見せる。こんなばかばかしいことは即座にやめなけらばならない。この文章にも、ちょっと油断すれば、悲惨さ自慢が顔を出そうとする。
 まず最初は、なんで自分だけがという怒り、絶望、無気力、そのはてに、ようやく自分の置かれた現実を受け入れ、残り少ない時間を真剣に生きようとする、確かこれが死を宣告されたものがたどる道であったはずで、私自身ガンを宣告されてから今日に至る過程で、似たような精神の旅路を体験した。被災状況のひどかった人は、おそらくキューブラ・ロスが「死ぬ瞬間」で指摘したのと似たような道筋をたどって、生きる気力を取り戻していくのだろう。
最大余震について、満月の今夜があぶない、いや週末だと不吉な噂が飛び交っている。

95/2/16
 甲子園の選抜大会がどうなるのか、まだ決まっていないらしいが、学校でもクラブ活動をどうするべきか議論があった。現在、遅出、早帰りの三時間、来週から四時間授業というふうに、授業が完全な状態に戻るのにほど遠いのに、クラブ活動なんてとんでもないという意見と、細々とでよいから、クラブ活動をさせてやりたいという意見が、ぶつかりあっている。
 どちらも学校を思い、生徒のことを考えての意見だ。神戸市の学校のほとんどは運動場が使えない状態で、体育館も避難所になったまま。遠距離通学の生徒が多く、交通網が寸断された中で、安全に登下校させるためには、クラブ活動をする時間がまだとれないというのが正論。校舎が幸いにも被害を受けず、避難所にもならなかったわけだが、施設が使用可能だからといって、抜け駆けみたいに練習をはじめてもよいのだろうかという、センチメンタルな気分に今の私は支配されている。教室での授業も、全員がそろっているわけではなく、あちこちの席が空いている中で、どこまで教科書を進めてよいのかわからない。しかし、何時間もかけ、無理して登校してきた生徒のためには、きちんと授業をしてやらねば思うのだが、とにかく気分がすっきりしない。
 明日、子供の小学校は地震以来最初の登校日。ほとんど一ヶ月ぶり。授業がどうなっていくのかわからないが、家庭訪問をしたり、児童の家を借りて、集まれるものが集まり、分散型の教室をしてみたり、大変苦労をしながら、手探りで再開を目指している。私も教員、小学校の職員室の中で行われたに違いない議論のあれこれを想像できるだけ、児童を一日も早く集めようとする先生方に共感をする。三女の担任は、足を骨折しているために遠距離通勤ができず、避難所に使っていない特別教室に寝泊まりしているらしい。石油ストーブあるが、余震の恐怖症でなにかあってはと、暖房なしに寝ているらしい。子供たちは久しぶりの学校に心のどこかにとまどいと不安はあるかもしれぬが、素直に喜んでいる。ただ、とりあえず、学校に集合してみるだけで、その後の予定は立っていない。
 信号無視はもちろん、一歩通行を逆行する車がやたらに多い。町には警官だらけなのだが、ヘルメットに警視庁のマークが入っていたりして、これも役所の縄張りがあるのか、違反を摘発するのを見たことがない。幹線道路が混雑しているために、抜け道を探して細い道に迷い込んで来るのだが、そんなところには必ず崩れかけた家が道をふさいでいて、取り壊し作業の車が居座っていたりする。こんなとこに車を止めるなよな、と窓から捨てぜりふを吐いて、猛スピードで逆走していくのだが、おまえこそこんなところに車で来るなよ。
 そうだ、そういえば芦屋市役所に避難して、ダンボール箱を机に受験勉強しているところが新聞の写真に写っていた生徒、無事大学に合格した。合格の報告に久しぶりに学校へ来て、王子公園からの登校途中、陸上競技部員だった彼女、思い出の王子競技場が自衛隊の基地になっているのに驚き、これからどうなるのかと心配していた。家がだめになった彼女、金銭的にそのままうまく大学へ通えるのかと問うと、市職員の父親が過労死しないか、今はそれが一番心配と言っていた。明日で地震発生以来、ちょうど一ヶ月。ガスはまだ出ない。家族そろって同じ部屋に寝ている。パジャマに着替える日はまだ。でも、枕元に靴を置くことはなくなった。

95/2/17
 ちょうどあの日から数えて一ヶ月目。噂になっていた二月十五日、満月の夜には何も起きなかった。疲れてきたせいか、私のいびきがひどかったらしい。朝、犬の散歩に出ると、カラスが生ゴミを漁っている。久しぶりに見る光景だ。いわゆる余震の危険がおさまりつつあるというところか。しかし、街から消えたカラスは、その間、どこに行っていたのか。地上から姿を消していたわけではなく、どこかにたまり場があったはず。
 生理がショックでとんだ思った愛犬の生理がはじまった。家の中では、女の子になっている期間だけ、小さくなった子供のパンツに穴をあけ、しっぽを出してはかせている。いつも決まってうんちをする駐車場に止まっているコンテナトラックは、まだ住居の役割を果たしたままだ。外に出ている下駄箱には、大きな靴と並んで小さな運動靴が二足見える。子供がいるのなら、学校はどうしているのだろう。それにしても、なんどもしゃがんできばっているふうなのに、なかなかうんちをせんなあと思いながら歩いていて、犬の後ろ姿がちょっとおかしいのに気がついた。パンツを脱がすのを忘れていたのだ。あわてて脱がし、こっそりと、当分収集はありません、捨てないで下さいという禁止の札を無視して、無断で出している荒ごみの山の隙間に、汚れたパンツを忍ばせてしまった。とてもいけないことをしてしまいました、町内のみなさん、お許し下さい。
 いつを境に平常と考えればよいかわからぬが、非常時の緊急態勢を敷いていたはずなのに、少し落ちついてくると、官僚体制が顔を出してくる。懲りない人たちのことを考えると、いっそもっと徹底的に破壊されていればなどと乱暴なことも思う。官僚は復旧を考える。復旧と復興は違うだろう。自分が仕事をしていることを誇示したいがための縄張り争い。面子の張り合い。政府のことを言っているわけでも、自治体のことを批判しているわけでもない。もっと小さなレベルのひとりごと。
 まわりがどうであれ、復旧ではなく、復興を考えねばならなぬ。壊れたのをこれ幸いと、今まで頭に浮かんでもできなかったことを思い切ってやる。かくして図書館は、単なる自習室から、心に傷を負った生徒のリラックス空間へと姿を変えようとしている。地震からの一ヶ月で、新しい本箱を作り、書架の前にベンチを据え、古い机の脚を切って、こたつのような高さにして隅に置き、すべてのレイアウトを変えてしまった。
 災害から立ち直るというのは、壊れたものを取り除き、元に戻すのではない。地震で壊れた街をフォーマットしなおしたハードディスクと考え、かろうじて壊れなかった古いソフトをインストールしなおすのではなく、新たなソフトを手に入れ、そいつをインストールするのでなければ意味はなく、また楽しみもない。蔵書の点検をして、早く開館に持ち込み、利用する生徒の顔を見てみたい。
 地震まで皆勤を続けていた生徒。地震で片道6時間かかるところに避難している。さて、その欠席をどう扱うべきか。欠席は欠席だからしかたがないと言う意見と、なんとかしてやりたいという意見の対立。非常時だからこそ、甘い親の気分で手をさしのべたくなる気持ちもわかるが、本人のためになるのかどうか。
 私の意見は決まっているが、全員の一致はとうてい無理。当事者と話したわけではないが、うろたえている大人よりも、生徒自身の方が多くを学び、成長しているのではないかという気がする。成長の止まった大人は、今の自分以上のものにはなかなかなれない。当たり前なことを、当たり前だと言い切って、平然としていられる時が来るのは、まだまだ遠い。でも、その日は必ず来るだろう。

95/2/18
 朝の散歩。コンテナトラックの家にワゴン車で水を運び込んでいる。考えてみれば、いくら時間が経過しても、トラックの家に電気が来て、水が来て、ガスが来ることはないのだ。すぐ近所の、前に道を歩いていて、蒲鉾をくれた人、ガラスコップ一個が割れただけだったとか。食器棚の向きと家の揺れとがうまくかみあい、振動を緩和しあったのか、この差はなんだ。その人のお姉さんの住む、大阪に近い場所で、狭いアパートに避難して大勢が暮らしているためにストレスがたまり、窓から灯油の入ったポリタンクが落ちてきて、次に丸めた新聞紙に火をつけ、たいまつのように振りかざした男がベランダから顔を出し、「こんな家、燃やしたる」と叫んでいたが、中にいた家族に取り押さえられたとか。
 授業はまだ完全にはできず、三時間のまま。同じ区内ですでに六時間授業をはじめた私立学校の話も聞いて、少しあせりはある。自宅の解体などで出勤できない教師もいるが、生徒たちは徐々に日常を取り戻しつつある。登校の困難は相変わらずで、顔色の悪い生徒もたくさんいる。避難所にいる生徒だけが苦しいわけではなく、通学に時間がかかることだけがつらいわけでもなく、しんどさ苦しさの中身は実に様々。
 昨日、震災発生から一ヶ月目、正午、授業中に校内放送があって、校長の合図で一斉に黙祷をした。だけど、午前五時四十六分、県庁に集まっての黙祷、しかもテレビカメラの前で、これはやめてほしかった。地震の直後、神戸市は震災博をやるんじゃないかと、ブラックジョークのつもりで、陰口をたたいていた。液状化現象のポートアイランド、ポートピア博覧会で売り出した。私はそこに七年住んで、病気の父のそばで暮らすために引っ越してきた。
 震災の後、生き残ってすいません、建物がどうもなくてすいません、通勤の苦労が人より少なくてすいません、などどいうような、実にいろいろなうしろめたさに悩まされてきた。そして、悩まされてきたことをこうして告白すること自体、ひどく偽善的なのはわかっているが、ひとつひとつの儀式めいたことをしながら、うしろめたさを解消していくしかない。
 地震で家が壊れ、大阪に避難し、そこで子供が病気で倒れてしまった司書、迷惑をかけて申し訳ないと頭を下げるが、誰がその人の欠勤を、仕事のしわよせと非難できよう。冬休み、気胸の手術を受けた男、再発して入院。二三日うちに再手術と聞く。クラスの生徒が家の下敷きになり、母親と折り重なった状態で死んだ。葬儀に出かけるのに、坂だらけの町を自転車で出かけた無理がたたったのだ。そのクラスの前を通るとき、いつも机に花が置いてあるのが見える。花は、彼の配慮。これから花をどうするかの心配はあっても、彼の抜けたあとの授業の穴埋め、誰も不平を言うはずがない。いや、こんなことを書くのは、やはり偽善的。知事を非難するなら、誰にも知られぬよう、お前(私)が花を買って、そっとそなえてやればよいのだ。

95/2/19
 昨夜、地震後はじめて、子供達は自分の部屋で寝た。なにかあったらすぐに子供部屋に行けるよう、隣の部屋に寝た。一階のタンスに囲まれた寝室に戻るのは、まだ先の話だ。パジャマに着替えるのもガスが来て、風呂に入れるようになってからだ。子供たちは、避難用品をナップザックに詰めているが、中身は三人三様、長女がやたらに下着ばかり詰め込んでいたのは、洗濯できなかったのがよほど応えたのか。救急箱と懐中電灯、遠足みたいにおかしもちょっぴりだが、ちゃんと入っていた。逃げるときには、ほらこうやってと少しはしゃいで布団をかぶってみせる。窓から見える月が異様に明るく、星がはっきり見える、自然現象のすべてが不吉の前兆に感じられ、恐がっていたが、とにかく無事に一夜は明けた。
 春の高校野球、センバツの開催が正式に決まった。もともとなぜ野球だけに大騒ぎをするのかという気がして、あまり関心がないが、先日のテレビで兵庫県の、出場が有望視される学校の野球部員がボランティアに参加しているのを見た時には、ある種の感慨を持った。その一方で、音がしないように金属バットにガムテープを巻いて練習をはじめたとあったが、なぜなのだろうか。やはり地震が起こって以来、私が口癖のように言ううしろめたさということなのか。でも、どうして甲子園でなけらばならないのか。俺たちの時は、甲子園が震災で藤井寺になって、まぼろしの甲子園になってしもたんやというのも誇り、思い出になっていいのではないかと考えるのは、スポーツをやった経験がないからか。やめろというのも教育的、開催しろと言うのも教育的、どこかの政党がぜひ高校球児の夢をかなえてやってもらいたいと申し入れたのは政治的。みんながいろんな立場で自己を主張し合う。それにしても、野球大会の開催を決めておきながら、鐘や太鼓の応援は自粛というのは、なんかしらん、やらしい感じやな。
 十七日は、どこのテレビ局も一ヶ月記念番組。これもまたうしろめたさを払い除けるための儀式。震災直後、長田の焼け跡で、「まるで温泉街のようです」とやったキャスターも、政府や役人の対応のまずさを指摘しつつ、あれこれ番組を仕切っていた。肝心の時になにもできなかった人たちほど、なんだかんだと大きな声でものを言いはじめたのは、いなくなってきたカラスが戻ってきたのと同じで、平時が近づいているということになるのか。
 学校に来ると車が止まっていて、茶色の犬が二匹、それぞれ、運転席と助手席に座っている。いつも目にしていながら、だれの車かわからなかった。後ろからおはようございますと言われて振り返ると、学校の寮に避難中の生徒の両親。三人の娘はみんな私の学校の生徒だが、一番上と一番下は母親に似て立派な体格、まんなかは父親に似て、少し小さめ。小さなお父さんが私に挨拶した後、「さびしかったか」と犬に声をかけて乗り込んでいく。  学校との話しあいでは、春休みに生徒が使う可能性のある三月二十五日までに出ることになっている。今日も朝早くから家探しのために、あるいは経営していた旅館を再開する方法を探りに出かけていくのだろう。
 学校の復興を示すために、生徒に明るさを取り戻してもらうために、例年通り、バザーをやろうということになった。収益金を被災生徒のために使おうという主張と、こういう時だからこそ、自分たちで使うのではなく、被災した他の人たちのために使おうという主張と、いつもボランティアに出かけている老人ホームに寄付をしようと言う主張と、どれが偽善的で、どれが偽善的でないのか、どれが教育的で、どれが教育的でないのか、なにをしようにもなかなか話がまとまらない。
 バザーをなんとかやってみようという話は、まだ十人ほどしか出勤できなかった時に、細々とはじめた話なのだ。そんな堂々めぐりをおよそ二時間。これもまた復興に向けての活発な論議と言うべきなのか。ここでもやっぱり、カラスがカーカー。
 夕方、テレビ朝日「ザ・スクープ」という番組を見ていると、冒頭に長田に住む詩人Y氏の、先の戦争と今度の震災を重ね合わせた、五十年目の戦争という詩が朗読された。詩人の名前を一字間違えて放送したのが気になって、つい最後まで見てしまい、地震直後、連絡を取ろうとして通じなかったことを思い出し、電話をしてみた。通り二つ隔てた辺りまで火が来たこと、移動式書架がレールからはずれ、書籍、レコード、CDが散乱していること、自転車で町を走り回った時のこと、また疎開させた八十五才の母親を訪ねて姫路に行き、電車の中で四人がけの椅子に座った彼をのぞく三人の女性が、貰い物をしたが、その貰い物がつまらないものであったことなど、被災地の日常とかけ離れた話題に気分がおかしくなったことなど、しゃべった。遠くの人がなにか不便をしているものはないかと言ってくると、いつもお風呂と答えることにしていると笑い、また酒でも飲みたいけど、三宮で待ち合わすにも場所がなくなったねと、電話を切った。
 車で十分ほど走った辺りにガスが出始めたと聞くが、私の家はまだ。ガス会社の作業車を見かけるようになって、数日ほどしてから、家にいてくださいと連絡があったという。水道局の車は見るが、ガスは東灘区岡本辺りで一度見たきり。今日は借りてきたパイプヒーターで湧かして風呂に入るつもり。二時に水を張った風呂にパイプをつけ、入れるのは夜の九時頃になるのか。少なくとも週に一度は、なにかの形で入浴できるようになってきた。風呂に入れる日は、とても気持ちが豊かになる。
 夜、湯上がりに気分良く布団に入ろうとしたら、震度三の余震。ゴーときて、ガツン、あの時を思い出して、ちらばっていた家族が一カ所に集まってきた。神戸で震度三、洲本で震度四、マグニチュード四・九、現在までの最大余震と同じ規模。

95/2/20
 気分転換と入浴を兼ねて、兄一家を訪ねる予定にしていたが、長女がとうとうダウンして中止。体が凝っているからもんでほしいと、子供らしからぬ事を言うので触ってみると、どこもかしこも固くなっている。中学入試まであと十日、塾もない。学校も二時間ほどの授業がようやくはじまったばかりと、とにかく異常な状態が一ヶ月以上も続いているのだ。授業と言っても最初の日は、使える教室に机と椅子を移す作業で、次の日には、講堂の床に直に座って特別教室替わりに使用しなければいけないので、ごみ袋に新聞紙を詰めて、簡易座布団を作らされ、その後は防災訓練。本来なら避難場所に指定されている丸山公園自体が崩れていて、大体この辺りですよと、ごまかさざるをえなかったらしい。沈んだ気分を発散しようにも、運動場の三分の一は石垣が落ちて使用不可、残りの部分には修復に使うための土砂が積み上げられている。仲良しの多くはまだ疎開先から戻っていない。朝食をすませてすぐ、ベッドに潜り込んだ。
 震度七の揺れには、耐震レベルの倍以上の加速度があったと新聞に書いてある。耐震レベルだの耐震構造だの、お役所の決めた基準を中心にものを考えているが、それがそもそもの間違いだ。これを満たせばよい、これを満たさねばだめと、お上が決めるのではなく、自分でなんとかする工夫をしなければ。
 科学的な根拠と言っても、ほとんどは起こってしまったことの後追いに過ぎず、その時にはなんの影響力も発揮できなかったしたり顔の学者が続々登場し、やっぱりこうだったじゃないかと、自慢たらたら言うだけなのだ。それに政治家にしろお役所にしろ、なんの役にも立たないのを、いやというほど思い知らされている最中ではないか。
 子供だけではなく、妻も疲れている。寝たきりの父を一日に一度、リハビリのために歩かせてやるなど、介護の仕事がある。病気になる前は私がしていて、手術の後、妻がなんとなく替わってしてくれるようになっている。昼間、仕事に出かけられる私と違って、ずっと家にいなければならない。幼児教室の保母をパートでしていたが、オーナーが避難所生活をしており再開はもう少し先、再開されても交通網の寸断で当分は無理。次女三女は、今年から塾に行きたいと望み、行くことになっていて、高い金を払い込んだが、これもまた通うのに必要な阪急電車の再開が七月になるという。勉強は家ですればいいことだから、別にかまわないのだが、あらゆることが妻のストレスになっている。
 被災地であるとはいえ、建物があって、仕事があって、給料も今のところ途絶えることがなく、さしあたって速くガスが出てもらいたく、毎日入浴できる日が来るのを心待ちにしている程度の家庭で、こんな有り様なのだ。
 被災レベルの違いでどういう状態になっているのか、想像力をはたらかせることすら憂鬱だ。妻は家の中で閉塞感に窒息しそうになっているのと同じように、神戸市民は破壊された町に閉じこめられ、逼塞状況に次第に気分が滅入りはじめているのだ。震災直後に感じた、所有欲のむなしさみたいなものを忘れはじめ、やっぱり失ったものはなんとか取り戻したいという人間らしい気分が戻ってきて、満たされぬつらさに呻き、救いをもとめて、もがき苦しみはじめている。
 そろそろ私の体も検査の必要な時期を迎えているが、無数の罹災者が運び込まれる場面と、今回の震災ではじめて知った言葉で言うところのマンパワーの不足で、疲労困憊した医者と看護婦の姿をテレビで何度も見せられていると、検査予約の電話をすることさえ、ためらわれてしまう。第一、CTなどの精密機械は無事だったのか、それすらわからない。漢方薬を出してもらっている病院の方も元町に近く、車では行けず、アスベストのもうもうと立ちこめる作業現場を通らねばならない。気休めかも知れないが、野菜スープとビタミン剤でも飲んでいるよりしかたがない。自分のしたいことだけをする、楽しいと感じることだけをする、本当はこいつが一番の免疫強化剤なのだろう。

95/2/21
 仕事の帰り、水道筋商店街に出かけてみる。俳人のT氏の家、モルタルの壁をすべて落とし、改築の準備中。半壊で見積もりが九百万円と前に書いたのは、この家のこと。震災と火災に消えた長田の悲惨と、戦後五十年を重ねて書いた、長田在住の詩人Y氏の作品には感銘を受けたが、写生を旨とする俳人は、この風景のなにを十七文字に詠もうとしているのか、あるいはまだその気になれていないのか。
 途中、阪急の踏切、御影、王子公園を走る電車が通過。乗客はほとんどいない。電車そのものを見るのが久しぶりだ。結婚した直後に住んだアパートの隣人、この近所に住居を移し、摩耶小学校に避難しているが、彼らの住んでいた三軒長屋、立ち入ろうにも倒壊家屋に道をふさがれている。ポートアイランドへ引っ越す日の昼、荷物がトラックで出発した後、お好み焼きをごちそうになった。
 開いている店舗は二、三割というところか。教え子の親子がやっている布団屋さん、そこで子供用のかけ布団をあつらえたことがある。店にはシャッターが半分降り、明かりはないが、一家無事です、営業しています、ご用の方はおはいり下さいの張り紙に安心する。しかし、別の教え子の家、市場の肉屋と花屋はどうなっているのか、営業している気配がない。
 くずれた店の前で焼き鳥をやいていたり、ワゴンだけを出してセールをしていたり。パチンコ屋が営業していて、中は満員、立って順番待ちをしている人もいる。外ではパチンコ屋の店員がカップラーメンを無量で配布し、そこで食べる人のために熱湯を注いでいる。  脇道にそれた小さな市場に入ると、ほとんどが暗いまま。開いている花屋に来る客は、仏花らしき白や黄色の菊を求めていく。魚屋ではわたり蟹が箱から飛びださんばかりに動いている。小ぶりのあわびがあって、食いたいと思ったが、贅沢を戒める気分がどこかにある。店の主人がすしを握ってパックに盛っている。「ほんまやったら、千円、そやけど半額五百円、学校に避難してはる人に食べてもらわなあかんからな」と客を呼び込む声に活力なく、顔に表情がない。五人前購入。家族へのみやげに和菓子を買って帰ろうと思い、確かこの辺りと立ち寄ったところ、一軒は人の気配がなく、もう一軒は瓦礫の山。
 夕食の材料、タマネギ、大根を買って、坂道を上るのは重たいので、バス停近くのコープで買うことにする。コープには七十くらいの、補聴器をつけた父親と、五十前くらいの、無精ひげの息子が買い物をしている。父親が篭にいれようとする品物のひとつひとつに、「これはカレー用や、焼き肉やったらこれや」と息子が指南している。いつも買い物に来ていた老妻は、地震でどうかなってしまったらしく、「これからは一人でこなあかんねんで」の声はつらい。息子の嫁は老妻につき添っているのだ。
 夜、ぼんやりと、東京山の手のお屋敷を訪ねる番組を見ていて、これはこわれそうだな、これはまだ大丈夫そうだと、夫婦で震度七に耐えうるか否か、診断しあっているのが、ちょっと恐い。サザエさんの漫画を見ていてさえ、カツオ君が入っているお風呂、タイルが落ちるよねと子供たちまでが言う。
 ところで神戸には、KISS FMというラジオ局があって、普段でも典型的なDJしゃべりの中にやたらに英語がまじっているのだが、地震以来、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語、朝鮮語のほかに、ポルトガル語、タガログ語が聞こえてきて、感心してしまった。国際都市と言われていながら、国際都市の実感がなかったが、それだけの種類の言葉による情報を必要としている人たちが住んでいるのに、改めて驚いた。

95/2/22
 被災の特にひどい地区に住む卒業生に聞いた話だが、町が焼けて、明かりがなくなり、夜になるとかなり物騒な事件が相次いでいるらしい。集団による強盗、女性の辱め、火事場泥棒、単純なこそ泥からバールで金庫をこじあけるような荒っぽい仕事も含まれ、義援金を集めていますと偽り、家に上がり込み、緊急時でひとまとめにしている貴重品を強奪していくようなことが起こっているという。新聞やテレビで報道がないのは、ただの風聞、あるいは尾鰭のついたデマに過ぎないのか、住民を恐怖に陥れないようにするための配慮なのか、話をしてくれた彼女も直接それらの被害にあったわけではなく、よくわからない。
 助け合う第一級市民の姿ばかりが協調されるのは、神戸市民にとってはありがたいことかもしれないが、都市の暗部もきちんとみすえていかねば、行政の不手際と一緒に善意の陰に塗り込められてしまって、天災、人災、様々な被害にあったものはうかばれない。それにしても同じ場所から同じような内容を流す、横並びの報道で何を伝えようと言うのか。新聞報道のすべてが取材に基づく事実であっても、事実全体のごく一面に過ぎないことを意識しておかなければならない。大体、文字に書かれたもので、客観的事実と称するものなど、この世に存在しているのか。善意の取捨選択もある意味で、自己規制(自己規制すべきものもあるだろうが)、報道管制だ。
 授業の合間に、出入りの業者が来て、話をしていく。肺にガンがあり、一月十八日が手術日だったが、十七日の震災で電気メスなどに必要な手術用の高圧電流が使えず、主治医も救急隊にかり出され、病院を追い出されたとか。ガンの告知の医師とのやりとり、現実感のなかったこと、涙が出たのは一時間くらい過ぎてからなど、ことこまかに説明していく。話相手は前に頭部の手術を受けた人で、やさしく悩みを聞いてあげている。私もようやく、職員室で背中合わせに座っている彼女とは、病気の話を平気でできるようになっていたが、今日はだめだった。
 先日、長田在住の詩人と電話で話したとき、病気の時はまわりのエネルギーに圧倒され、自分ひとりが踏みつけられ、置き去りにされそうな恐怖感があったが、今度の震災では、一緒に自分もどこかに連れて行ってくれそうな気がすると、そういう話をしたら、共通の体験をしたものがたくさんいるから、話をできるんやろねと言われ、そういうものかもしれないと納得した気分でいた。本来なら、その出入りの業者と私は、部位こそ違うが、同じ病気で、共通の体験であるはず。しかも、私は手術がうまくいき、一年半を何事もなく経過している。彼は手術がこれからで、結果はまだわからない。少なくとも、今の私の方が優位な立場にあって、余裕を持って話をしてもよさそうなものなのに、うろたえ、顔も見ることができず、聞き耳を立てたまま、仕事をしているふりをして、早く帰ってくれないものかと、彼が去るのをひたすら待っていた。
 一緒に連れていってくれそうな気持ちがすると言うのも、単に私の被災の程度が軽かっただけではないかと、改めて自分の勝手な思い上がりがいやになり、忘れかけていた、いや忘れよう忘れようとしていた病気のことが、再び重苦しく私にのしかかり、宣告を受けたときの恐怖が呼び覚まされてしまった。本震よりも大きな余震はこないというのが普通であるが、病気の場合は再び震度七かそれ以上の事態、すなわち死ぬと言うことが起こり得る、恐ろしさの種類が全く違っているのだ。

95/2/23
 登校する生徒の数は増えてきた。始業時間を通常よりも一時間と少し遅らせているとはいえ、出席率は九十パーセントをかなり越えているから、風邪が流行っているときのいつもの冬くらいの感じになっている。怪我をして入院している生徒や、震災で精神的に強いダメージを受け、外に出られない生徒、避難所生活で体調をくずしている生徒もいる。来ている生徒も、どこか覇気がない。震災に関係なくそうであったのかどうか、見分けがつかない。これまでに味わったことのないほど強く厳しい体験をした心がどう変わったのか、つかみようがないのだ。子供は学校に行きたくても、親が恐がって外に出したくない、離れたくない場合もあるだろう。夫は会社へ行き、子供が学校へ行くと、妻はいやな記憶の残る家にひとりでいなければならないのだ。家内のパート先の幼児教室の子供、震災後全くしゃべらず、一週間目に「ぼく、跳び上がった」とようやく口を開いたらしい。メンタル・ケアと口にするのは簡単だが、子供の心を開くのは難しい。
 図書館の壊れた書架の作り替えが終わり、ついでに古くなった机や棚にペンキを塗っていると、わたしもやらせてほしいと、制服が汚れるのも気にせず、毎日昼休みに来る生徒もいる。ものを作ることで汚れることは、だれにでも気持ちの良いことなのだ。
 子供の学校の避難訓練のこと。火災訓練なら非常ベルを鳴らすのが合図だが、地震の訓練では、ガタガタガタという音を放送で流すのを合図にしたらしい。直接耳にしていないから、どんなふうにして作った音かわからぬが、悪いけど、笑ってしまった。昭和三十年代、新潟で大きな地震があった後、防空頭巾の代用になる安全座布団を全員が用意して、いざという時には頭にかぶるよう指示されていたと、当時新潟にいた従妹に聞いた。  それにしても鉄筋コンクリートの建物が次々と倒れ、震災前に危険だと言われていた壁面総ガラス張りのビル、一枚もガラスが割れていないのは不思議。多くの学者が建物は耐震構造に優れていて大丈夫だが、降り注ぐガラス片に大勢の人が傷をおうと言っていたのではなかったのか。パニック小説、映画のたぐいでも、そんな場面を幾度も見せられてきた気がする。四十三号線にそって走る高速道路、横倒しになった東灘あたりだけではなく、どこもかしこも本当はだめになっている。道路をジャッキで持ち上げ、ゆがみをなおし、橋桁を鉄板で巻いて、コンクリートを流し、補強している。新聞によると建築学者たち、ここでも口をそろえて、理にかなった補強だと言っているが、地震の前に危険を指摘した奴がどれだけいたのか。
 最初、震度六と発表し、あとで震度七と訂正したのは、耐震構造に対する認識の甘さをごまかすためではないのかと、かんぐりたくなる。気象庁は早急に阪神大震災を記念して、震度八を新たに制定すべきではないのか。今起こっていることが最大で、これ以上はないなどと気楽に信じる気にはならない。
 一体、神戸に全国各地からどのくらいの数の警官が来ているのか、警官のいなくなった自治体があるのではないかと思うほどの警官の数だが、ガードマンだか、工事現場の作業員だかわからないかっこうで、蛍光塗料を塗った棒切れを使い、交通整理をするだけではなく、東灘、長田の治安もきちんと守ってもらいたい。自警団を組織して、暗い町を見回りに歩いている友人も何人かいるのだ。震災直後、緊急物資を配っていた任侠道の方々、今はどうしているのだろう。

95/2/24
 次女が昨夜からインフルエンザで発熱。医者に行こうにも、かかりつけの医者はすでになく、バスに流されているテープで聞いたN医院前という広告を思い出し、薬をもらいに行った。そういえば、三女がかかっていた眼科も倒壊し、医院再開のめどが立たないそうだ。医師との相性がすなわち医療への信頼ということだから、こちらの方の修復も、町の復興同様、見通しは甘くない。
 そういえば、被災生徒支援のバザー準備で、模擬店用品を確保するため、レンタルショップに電話をした時も、電話帳の住所であぶなそうだと思った住所の店は、呼び出し音が鳴るだけで、誰も出なかった。
 長女の入試も間近にせまってきた。風邪をひかせないようにしなければならないが、私も少し頭痛がする。疲れがたまっているのだろう。今日から弁当を作ってもらい登校。添加物を避けるために、手術の後食べようとしなかったカップラーメンを、毎日食べ続けていることに、妻が心配しているのだ。朝は熱源が限られているので、家族五人の朝食作りに弁当を割り込ませるのは、結構大変なのだが、しかたがない。ガスは二キロほど先まで来はじめていると聞く。あと少し。
 震災地ルックというのがある。帽子をかぶり、運動靴を履き、マスクをして、スキーウエアのような防寒着にナップザックというのが,、現在の神戸における正統なファッションで、カメラが加わると、たいていはよそ者、見学者である。私自身、この典型的被災地ルックで長く過ごしてきて、むしろ平時よりも服装に関してのみ、汚れも人の視線も関係なく、気楽で気に入っている。風呂にはまだ入れないので、寝るときもセーターとズボンを脱いだだけで、ポロシャツにスキー用のタイツのまま、布団にもぐっているが、帽子はかぶらない日が増えてきた。
 さて、大勢の人がかぶり続けている帽子のことだが、女性が白くなった髪をかくす役割を兼ねて愛用しているのに、つい最近になって気がついた。職員室の中でもかぶっていて、えっ、この人が、という人の帽子からはみ出た毛先の色に、失礼ながらぎょっとなることがある。震災の苦労で急激に白くなったのではなく、美容院にも行けず、風呂にも入れないから、髪を染められず、染められないから白さが目立つようになってきたというわけである。
 崩壊した見かけの立派な建物と同じで、あらゆるものから虚飾がはぎとられていく様を思い浮かべる人もあれば、人間が人間であることを取り戻しつつある状態だと考える人もあるだろう。ちょっとあざとい言い方をすれば、相応の年齢になり、相応の人生を考えることを、くずれた街がそこに住んでいる人々に迫っている気もしないではない。都市も人間同様に相応の成熟を求められているはずなのに、行政はいまだに震災前の開発路線を変えようとはしていない。国際都市という美名が震災ではげ落ちて、熟年という虚名の下から老いがはみ出してきているにもかかわらず、だ。
 少年が青年時代の準備期であるなら、中年も老年への準備期として、しっかり機能して行くべきと言うのは、中年たる私の思い込みだが、要するにこれからの都市に期待するものが、少なくとも私にとって、行政の打ち出す復興の青写真と大きなずれがある。  震災後の神戸に、戦争直後の廃虚の明るさがないと言った、いわゆる焼け跡闇市の世代に属する人がいるとか。日本中が廃墟と化したと錯覚した震災のあとしばらくの間は、よその人にはわからない明るさが確かにあった。しかし、被災地域が、実は日本の中の、兵庫県の、阪神地区の、そのまた一部だと言うことがわかってくるにつれて、元の生活を取り戻すためには加速度的な復興をしなければと、言いようのないあせりが出てきているのだ。
 祭は次第に終わりかけている。
 祭りの後を楽しみにしているものなど、世界中のどこにもいないのだ。

95/2/25
 ボランティアの活躍についてあちこちで報じられているが、自らも被災者である行政そのものも、彼らの善意にすがっているところがあって、ボランティアに来ているそれぞれの個人がそろそろ仕事に戻らなければならない状況の中で、いろいろな問題が起こっていることを、活動に参加している新聞部の生徒から聞いた。
 震災の三日後、ボランティアとして市役所に登録に行き、自宅に待機してくださいと言われるだけで、なんの指示もなかったので、しかたなく、自分たちで考え、命令されることではなく、できることを探して行動するようになったという。主な活動拠点を、新聞やテレビで報道されない小さな避難所にしようと動き出したため、もともと行政の手と目が行き届いておらず、コップ一杯の水を家族三人で分け合うという事もあり、自分たちが手を引くと、どうにもならなくなってしまうらしい。そういう彼女も、学校の授業が正常化されていくにつれて、手をひかざるをえないボランティアの一人になっていくことを、真剣に悩んでいるのだ。学校でバザーを計画したとき、安易に生徒を引き連れてのボランティアを提案する人がいたが、新聞部の生徒は一ヶ月以上も活動を続け、その上でこれだけの悩みを訴えているわけである。その日一日出かけて行って何をするつもりなのか。教師は私も含めて、いつも口先だけだ。
 勤務先の学校で、ガスが出はじめた。学校で風呂に入れそうだと喜ぶ同僚、しかし、すぐには使えそうにない。そこら中に亀裂があり、あちこちでガスがもれているが、不気味な臭いですら香ぐわしく、なつかしい。ここから距離にしてごくわずかなわが家にガスが到達するのはいつになるのか、復旧の進展具合を尋ねてみると、ヘルメットをかぶった作業員、京都から派遣されてきているのでわからないとの返事。そういえば今朝は岐阜県警のパトカーとすれ違った。
 小便をしただけでは水を流さないのがくせになった我が子たちの通う小学校でも、パンと牛乳、チーズだけの冷たい給食がはじまる。公立はすべて横並びだから、給食を必要としている学校がどこかにあって、給食を出すのが可能になっているということ。
 あっ、またヘリの爆音。自衛隊なのか報道なのか警察なのか。テレビで震災関連の話題が放送される時間が次第に短くなってきている。伝えられる話題のほとんどは、立ち上がる神戸といったテーマで、まだ立ち上がることができずにいる人は、ますます気が滅入るだけ。今日もある講師の先生が、家を失い、神戸での再起をあきらめ、妹さん夫婦を頼って鎌倉に引っ越していったのを聞いた。彼女のご主人は心臓を患っている。
 今日の晩飯はおでん。行きつけの店に品揃えがまだ十分でないため、好きな厚あげはなかった。保温調理鍋というのがあって、一種のポットのようなもの、一度沸騰させると、熱源からおろしても、かなりの時間保温状態が続いて、自然に煮込み料理ができるのだ。  そういえば、地震の前日、翌日がパートの幼児教室があって夕食を準備する時間がなく、前もってその鍋でシチューを作っておいた。そのシチューを何度もあたため直し、薄めて、実に大切に食べ続けていたのを思い出した。保温調理鍋というのも、熱源のない時には貴重な調理器具で、三月に結婚する卒業生に、その鍋と電磁調理器を祝いにするため、東京の親戚に頼んで、デパートから送ってもらった。神戸ではどこに行けばそんなものを買えるのか、見当もつかない。

95/2/26
 長女、インフルエンザ。三十七度七分の発熱。三月一日の入試を目前に困ったこと。三日の内になおってもらいたい。風呂にも入れず、体は埃にまみれ、小学校の授業も講堂の床に座って行われたり、衛生状態も悪いのだろう。部屋の空気も乾燥しきっている。そういえば私も目がかゆい。犬までが寝ている私の頭の臭いをかいで、くしゃみをしていた。朝のうちに家内が医者に連れていき、点滴をしてもらう。部屋をのぞくと布団にもぐり、こっそり漫画を読んでいた。
 早朝の学校、用事があって合宿所を兼ねた南館に行く。和室の扉にすきまがある。暖房が熱すぎるのか、再び事が起こり、閉じこめられるのを恐れているのか、布団をあげるときのただの空気抜きか。そのわずかなすきまから、「おもちが焼けたけど、食べる?」という女性の声。「うん」という、半分眠った状態の男性の生返事。そうだ、ここには震災を引きずった生活がある。息子に死なれた定年退職の元同僚、夫婦で避難生活を送っている。昼間姿をみかけないのは、気を使って息をひそめているのだろう。
 家の解体工事がそろそろ始まる同僚、その準備と業者との相談のために早々に退出。彼は、ほとんどの人が茫然自失、まだ出勤できなかった震災直後、西宮から瓦礫の中を自転車で通勤、学校再開のために大変な苦労をした。
 地震でいろいろなものが壊れ、いろいろなものが見えてきて、あげく、いろいろなものが変わったのか、何も変わらなかったのか。今まで見えなかった、たくさんのものが見えてきた気がするが、単に時間が止まっていただけの人もいて、いつのまにか一月十七日、午前五時四十五分へと頭の回路が都合よくつながってしまっているのだ。ノルマを総重量の前年比ではかっていたため、重さ一トンの事務机を作った工場長のいた、かつての栄華の面影もなき超大国の末路をだれが笑うことができるのか。
 壊れた家から無事だった家財を運び出し、それを知り合いの工場の倉庫のすみに置かせてもらっているらしいが、家を壊すにしても、この置き場にみんな困っているのだ。それにしても、長く住み慣れた家が消えるというのは、子供時代のアルバムを燃やされ、記憶をえぐられるようで、涙も出ぬほど悲しい。新しい夢をかなえるために望んだ取り壊しではなく、寝ているところを、見知らぬ大男に、この野郎といきなり首を絞められ、揺すぶられ、踏みつぶされたようなものなのだ。畜生と思い、跳び起きたときには、すでに相手の姿は見えない。どこに消えたかわからぬ相手に向かって、おととい来やがれと、むなしく叫ぶだけだ。
 私の家の、一軒おいて向かいも取り壊し作業がはじまった。埃がもうもうと立ちこめ、地震で工場の死んだ町の澄んでいた空気がかすんでいる。あちこちで壊れた屋根をおおっているのと同じブルーのビニールシートが、隣の建物との間を仕切っている。いつもやせた犬が放し飼いにされていて、散歩の度にシェリーにほえかかって困っていたが、きちんと連れて行ってくれただろうか。

95/2/27
 犬の散歩途中、荒ごみの回収を知らせる張り紙を見た。三月三日とのこと。ちょうど長女の合格発表の日。今年はお雛様も床下に入れたままで、床下が地震でどうなったか確かめもしていない。入試の結果はわからぬが、桃の節句の朝、少なくともあの日の忌まわしい記憶の集積である、おびただしいガラスの破片を捨てることができる。当分は食器を買い足す気分にならない。
 一昨日、子供の通う小学校の東の端のマンションにガスが出始めたとか。わが家のガスの復旧も間近。昨日、司書から借りた例のパイプヒーターで風呂を沸かし、入浴。普段の私はどちらかといえば風呂嫌いで、服を脱ぎはじめてから寝間着に着替えるまで、合計五分くらいのものだが、週に一度となると、とても貴重な時間に感じられ、湯上がりの気分はうまい酒を飲んだあとのよう。
 JR住吉駅近くのシーアへ買い物に行ってみる。そのまま下っていけば御影公会堂に行き当たる石屋川沿い、墓地が崩れたところ、川に落ちた墓石が川の反対側に引き上げられ、並べられている。墓地の主たちは今の状況を知っているのだろうか。右側の公園にはテント生活者、途中ガスの点検をしているところからは、もれたガスの臭い。通行規制の敷かれた二号線を避け、左折し、山手幹線を通る。アスファルトの亀裂と、ひどい波打ち方に車がよたよたする。JR住吉から阪急御影への乗り換えの人の群、延々と続く。住吉川にそって下がり、右折、シーアに行く。五階建ての店内、一、二階部分のみ営業。営業区域が限られているコープ神戸のような企業の打撃は計り知れない。
 地震当日、午前十時頃、誰かが職員室に持ち込んだ電池式の小型テレビで、シーアが倒壊していますという放送を聞いて、あんな鉄筋の建物までがだめになったのか、大変なことになったと、事態の深刻さをはじめて認識をしたのだ。停電で情報もなく、近所で木造家屋や屋根の重たい寺院の倒壊は目にしていたが、少なくとも自分の目に入る範囲は、まだそれほどだとは思わなかった。シーアについての報道は誤報であるのがあとになってわかり(その他にも、神戸からの報告には、訂正されていない間違った情報がいくつか含まれているはず)、実際には道を隔ててある生協本部のビル、一階部分がつぶれ、全体に傾いており、ビルは使いものにならず、全壊の評価。えらいことだ、この調子だと何百人も死ぬだろうなと、おびただしい数の行方不明者が発表されるまでは、そんなやりとりをしていた。
 夕方、犬の散歩。地震以来、久しぶりで同じシェルティーを飼う近所の人と出合う。前に見たのは、壊れた屋根にブルーのシートをかけているとき。彼は三宮で串かつ屋をやっている。店はどうかと尋ねると、自分のところはかろうじて助かったとか。現在、営業を再開しているのは、わずか数軒のみ。こわれたところが多くて、おおっぴらにはできないとのこと。工事に来ている作業員を相手に、昼間、ごく短い時間だけの営業とか。収入は半分以下に減っているが、それでもやっぱりよかったですね、なのだろう。
 屋根の上で赤いランプを回転させた緊急自動車が静かに道を上っていく。避難所になっている学校へ物資を運んでいるのか、それとも崖崩れをおこしかけている公園や山肌の具合を調べに行くのか。最初のうちはけたたましくサイレンを鳴らし、道をふさぐ違法駐車の車を移動させるようにマイクで声を張り上げながら、通り過ぎていった。もしや火事かもしれぬと、その都度、三階屋根裏部屋の窓から様子をうかがったものだ。

95/2/28
 神戸の夜景、かつての百万ドル、今はいかほどまで値を下げているのか。これからの一年で、どれほどまで値を戻すことができるのか。町の美しさや繁栄を、金銭の価値ではなく、別の尺度でたとえることができるような、新しい町作りは可能なのか。  山田風太郎の戦中派不戦日記、昭和二十年一月一日、最初の記述、「運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ。」とあり、十二月三十一日、最後の記述、「日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂をいだきたるまま年を送らんとす。いまだにすべてを信ぜず。」とある。
 二月もいよいよ今日が最後である。春と呼ばれる三月がまもなく訪れようとしているわけだが、不戦日記のあとがきのさらに一番最後の一文は「人は変わらない。そして、おそらく人間の引き起こすことも」となっている。地震によって、何かが壊れ、何かが生み出されると信じ、いや信じようとして、私はお祭り気分ではしゃいできた。だが、毎年繰り返し来る台風のひとつが過ぎ去ったあとのように、「しかたがない」の言葉をつぶやくだけで、なにごともなかったふりをし、おびただしい死者も、一周忌、二周忌、七回忌、十三回忌と、時を経るうちに忘れ去られていくその第一歩として、みんな新しい季節を迎えようとしているのだ。


さらにまた神戸からの報告をお読みください。



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