あれからなにが変わったのか、神戸からの報告

97.3.2 95.2.28を境に、それまで毎日書き続けていた神戸からの報告が一旦途絶えている。3.1は長女の中学入試で、その時一緒に入学した生徒たちは、中学3年になろうとしている。私には書く資格があるのかどうか、そんなことを考えながら中断していたのだが、あちこちから再開を求めるメールをいただき、そして3.8に復活することにし、それからあとはとびとびではあるが、とにかく書き続けるという目的を遂行するためにのみ、書き続けていると言い切ってもよいだろう。

96.3.2は、送別会が須磨であったらしく、長田近辺を歩いている。それからさらに一年を経た今、歩いても、あれからなんの進展もない空白の場所がたくさんある。昨年歩いたときにも、復興には10年かかるかなと思ったが、その十年の間に住む人の顔ぶれはずいぶんと入れ替わってしまうのだろう。ポートアイランドの二期工事は進み、地下鉄の湾岸線の工事も再開され(耐震構造にするために、当初予想をはるかに越える費用が必要であるらしい)、神戸沖に飛行場まで作ろうとしている。80年頃にも、ポートアイランドを見て、未来の巨大な廃虚を思ったが、その印象は一向に変わらない。

大丸神戸店がようやくオープンした。

明日は雛祭り。まだお雛様を出していない。なんだかめんどくさいなというと、子供が一年に一度しか出てこないのに、かわいそうという。今日ださなければ、また一年、床下やな、と言えば、わたしやったら耐えられへん、という子供のひとことで、お雛様を取り出した。

子供のとのやりとりでふと震災のことを思った。家と一緒に失われたお雛様もたくさんあるだろう。イランでの地震で、寒さのために凍死者が出ているという。あのときもやはり寒かった。生きていた私は電気もガスもない時間、どうやって寒さをしのごうかと考えていた。でも、寒いと感じられたのは生きていたからにほかならない。

97.3.6 石の鳥居が壊れたままの五毛天神のところで、ふたりの老人が、「今度揺れたらもうしまいや」という話をしていた。前の地震でかなりゆがみが生じているので、あまり大きくない揺れでも家が壊れるという意味であろう。話の前後がわからないが、伊豆で頻発している地震についてのことを話しているのかと想像して通り過ぎた。

 震度5弱というのは、最近できた「表現」だが、最初の揺れの直後、当時は震度4と発表された震度は、その後の4との比較から考えると、間違いなく5であったように思っている。家の中の狭い廊下で、両方の壁に手をはわせてかろうじて立っていたような状態だった。

 テレビをつけていると始終流れてくる伊豆の地震速報を見るたびに、神戸の震災は局地的なできごとであったとつい考えてしまう。伊豆を遠く感じる分だけ、神戸も日本全体からすれば、遠いできごとのはずであった。

 いつもここへ戻ってくるのだが、震災について今、私は書き続けているが、後世に残すべき物があるとすればどんなことになるのか。

1.被害の実体
2.被害が大きくなった人為的な問題点
3.被害を大きくしないために--事前に--事後に--なにをすべきか
4.生き残るためになにをすべきか
5.パニックをおこさないためにどうするべきか
6.行政なるものは結局、信用するに値しないこと
7.災害からの教訓を得るかどうかは、災害の大きさに依存するのではなく、
個人の感受性や日頃の問題意識によること
8.すべての人が、同じ災害にあっても、同じ分量の学習をするとは限らな
いこと

 上記の順番に意味があるわけではない。ただ思いつくままの羅列だ。資料的なものだけではなく、もちろんひとりひとりの心の動きにだって興味がある。

 あの関東大震災について、私たちは何を知りたいと思うだろうか。どんな情報を得ようとおもうだろうか。歴史で習うのは、死者の数、それから混乱に乗じての朝鮮人虐殺など。今度の震災の時に感じたのは、学校(組織)が日常性を取り戻すのに至る過程を知ることができれば、ということだった。それは私個人が大きな被害に遭わず、緊急時に際して、ショックのあまり茫然自失、硬直した勤務先をどうやって立ちあげるかについて、一番、深くかかわったからにほかならない。

 みんなは関東大震災、伊勢湾台風、そのほかの過去の自然災害から、今、資料的に知り得ないことで、なにがあればよいと思うのだろうか。高校一年生では、平和教育の一環として広島に行くのだが、その後始末にホームルームで学校で平和教育は必要かという話し合いがもたれ、そのなかでの意見を聞く内に、漠然と後世に伝えるべきものがるとすれば、それはなにかということを考えなければならないと感じた。

97.3.24 双子の次女、三女の小学校卒業式。春休みに入っていたので、出席した。入学式というのは、たいていどこでも同じような時期であるため、学校勤務の私はこれまで出席したことがなかった。長女の卒業式は、ちょうど震災の年で、授業ができなかったので、勤務先でも終業式の時期を遅らせ、まだ授業をしていたように思う。卒業式の式次第にの裏に、六年間の行事のあれこれが書いてあり、震災のところを見ると、1月17日阪神大震災のため臨時休校とあり、学校再開が2月21日となっていた。

このような行事に参加すると、必ず、来賓や学校長の挨拶の中で、震災について触れられる。その都度、年齢に応じた震災体験というものがあったのだということを改めて思う。たとえば今日の場合は、四年生だった娘達にとってはどうであったのだろうと考えるわけである。

式に入場してきた児童のひとりが遺影を胸に抱いていたが、それは震災の年に白血病で亡くなった級友のもので、震災による犠牲者の遺影は、83名の卒業生の中にひとつもなかった。地域によっては、多くの遺影とともに巣立っていく子供達がいるのだということを思いつつ、証書の授与を眺めていた。

校長の言葉や、卒業する児童の言葉に、死んだ級友への思いが幾度も語られたが、白血病で夭折した少女には、もちろん証書が授与されるようなことはなかった。私の勤務先では、死者の等級をつけるのか、死んだ本人がそんなものを望むだろうか、残された者の勝手な思いに過ぎないのではないかなどとという、深い問いを投げかけつつ、自分たちの中でも答えを出せないまま、震災死した高校三年生のために、通し番号のないは「なむけのための卒業証書」というようなものが贈られた。

97.3.27 春休みでふだんいかない場所に行ってみると、あちこちでさらに景色が変わっているところと出会う。長い間、撤去されずにいたものがなくなって、まったく別な空間ができあがっているのだ。
 
 三宮の交通センタービルは、二階部分から上が取り除かれ、残った一階部分の上に、新しい階を積み重ねるという、めずらしい工事をしている。箱の上に箱をのせていくようにしか見えず、なんだか気色の悪い建て方だ。

97.3.29 村上春樹の「アンダーグラウンド」という地下鉄サリン(震災から二ヶ月後、95年3月20日)についてのノンフィクションに、聖路加病院の精神科医が語っているところがある。

「私は震災が起こったあとで、たぶん被災者が全国に避難されるだろうから、震災のPTSDに関する受け皿を作ってほしいということで、厚生省に頼みに行ったことがあるんです。でもうまくいきませんでした。厚生省はPTSDの方のケアの態勢づくりにまだ取り組んでいません。

「サリンの被害者を見ている精神科の医者は私以外あまりいないようです。(略)聖路加病院では、病院内部でほかの部署から患者が精神科にまわってくるルートみたいなものがあったんです。でもほかの総合病院ではそういったルートができていないのかもしれません。(略)

「聖路加病院の場合は阪神大震災以来、我々精神科医、ナース、臨床心理士がPTSDについてのひとつのグループを持っていて、それまでかなり動いていたんです。ですから、今回の事件(地下鉄サリン事件)をアクティブに受けとめようという姿勢が最初からありました。
 
 PTSDは心的外傷後ストレス障害のこと。

 いろいろな部署がいかに有機的に連携して緊急事態にあたるべきかということについて、(当たり前のことだが、当たり前のことができていない現実を目にすることが多すぎる)考えさせられる文章だった。
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