97.2.5 車検のため、車をディーラーまで持っていった。JR灘駅下、2号線と43号線の合流地点にある。前回の車検の時は震災直後だった。43号線にも2号線にも車が入れず、別の場所に持っていった。

神戸は南北の交通機関がなく、しかたなく延々と家に向かって歩き続けた。位置的には、「経度」で言えばほぼ同一、「緯度」が違うだけである。

自動車屋のまわりは震災の被害のあとがかなり残っている。阪神高速、摩耶インターの近くなのだが、そこにあるパチンコ屋など、おそろしいくらいの客の不入りだった。ちょっとだけ遊んでいきたい時間帯であったが、さすがに私も入る気がしなかった。外からのぞいた範囲では、客はふたりしかいなかった。これだけはやっていない店というのははじめてみた。

少し上に上がると、あちこち工事だらけで、児童公園には仮設がある。道路もそこら中、掘り返していて、まともな箇所がほとんどない。途中きれいな建造物があると思うと、阪神電鉄の駅で、震災後、新しく建ったものである。ラーメン屋などの飯屋のたぐいにも、仮設の店が多い。

歩けば坂を登り続けなければならず、息が切れるが、信号をないものとして、直線距離を車で移動すれば、5分もかからないかもしれない。そのわずかな距離の範囲に、恐ろしいほどの被害の差が存在しており、見た目にもいまだに顕著な違いが残っている。

区役所下、川沿いの公園は罹災届の受け付け場所になっていて、テントの中では大勢が被害の認定の申請を行い、区役所の中では義捐金や、解体その他の相談窓口に数え切れないほどの人がならんでいた。

道を渡ると灘警察、どこが家やら道やらわからないほどであった、そのあたりの直後の惨状が、臭いになってよみがえってくる。ヘルメットをかぶった自衛隊員と警官、消防士がそこら中にいた。

毎日水を汲みに来た篠原公園を過ぎても、足で歩けばなかなか家までたどりつけない。私はいけないと思いながらも、車で水を運んだが、この距離を手と足で運び続けた人だって数え切れないほどいるのだ。手鍋を目の高さにかかげて、そろそろと歩いていた老人の姿を思い出す。

感傷にひたったところで、なにも生み出さない。信じられない速度で復旧した阪神高速のようなものもあれば、遅々として作業の進まぬ場所もあるという現実を、しっかりと見ておくだけのことだ。今日はひたすら歩いたのだが、車で走っていても、路面がきれいになった箇所とまだ手つかずのところがあって、だれかが決めた順位に従って作業が進み、だれかの決めた順位のせいで、ずっと当時を残したままのところがあるということだ。

97.2.11 ホームページに掲載している「神戸からの報告」を見た人からときどきメールをもらう。いろいろな感想を書いてくださった最後に「神戸の方々が、1日もはやく元気になられるよう、お祈りしたいと思いました」というようなメッセージがくっついているのを見て、ものすごく気恥ずかしくなることがある。神戸の中にいて、すでに震災と無関係になりはじめている自分の心のありようを見すかされてしまった気がしてしまうのだ。

震災の時のテレビの映像と、ビデオゲームにたとえられた湾岸戦争の映像と比較して、私自身も、ほかの多くの人も、なんらかの共通点を見いだしたと思う。芥川賞作家の藤原智美が、殺人の実感値は距離に比例する、というようなことを指摘していた。刃物で人を刺し殺すこつは、体ごと相手にぶつかっていくことで、相手の体臭も口臭も嗅ぎ、血しぶきだってあびるわけだから、実感値は高い。それに対してエノラゲイから見た光景というのは、戦争を語るにはふさわしくない形容詞を使って描写できてしまう、「雄大」なきのこ雲と「美しい」閃光に過ぎなかったあったわけだから、実感値としては最低のレベルであろう。

95/1/17に神戸にいた私は、東京にいた人に比べて、相当高い実感値を得たのは間違いがない。しかし、建物が揺れ、体がころがったという程度の値でしかなく、自らの体が直接の被害を受けた人に比べると実感値は、比較にならぬ程低い。

週刊20世紀というグラフ雑誌が創刊され、今日、その第二号の広告が新聞に掲載されていた。そこに「新潟にマグニチュード7.5の大規模地震/昭和大橋崩落/都市機能は完全麻痺」と、普通の週刊誌の広告と並んで、同じような体裁で出ている。そして同じ新聞の別のページにある囲み記事に「この一月、西宮市在住の作家小田実氏らが、東京で開いた集会には、(阪神大震災についての)そうした意識の落差への憤りがこもっていたように思う」とある。文字により記述された事実というものの奇妙さについて、考えずにはいられない。

事実はひとつであるが、人、場所、時間によって様々に変化する。ついこのあいだのできごとでさえ、なにをもって真実とし、事実とするのかを記録するのは、はなはだ困難になりつつある。もともとそれぞれの実感値に違いがあるところから考えると、それぞれの実感値に応じた事実しか存在し得ないのかと、あまりにも実感値からかけはなれた言葉の横行する時代の水につかって暮らしていると、どんどん悲観的にならずにはいらなくなってくる。この報告も、たとえ客観的事実に反しようとも、実感に即したことだけを書き綴ろうとしてはじめたのだが、どんどんと「実感」なるものが希薄になり、無理して掻き立てた「実感」によってしか、支えられなくなりつつある。 へおすすみください。
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