とうとう、あれから二年、神戸からの報告

96.12.19 冬らしい寒さが戻った。町を歩いていると、いまだにブルーのシートをかぶった家がある。すでに人が住んでいない場合もあれば、中で耐えている場合もある。壁に張り付けたシートが風にあおられ、ちぎれて、ふき流しのようになっていたり、さらに細かくひきちぎれて、糸のようなものがひらひらしているだけのところもある。

 広島から新幹線で神戸の勤務先まで通学している生徒がいる。秋にあった「平和教育」についての彼女の作文。ただ単に広島に出かけただけでよしとするのか(これはひとえに私たち教員の取り組みの甘さ、その場しのぎ)、そして広島県側も、ヒロシマを語ったことだけで満足しているのではないかというような手厳しい批判。その通りと思った。

 教科書の「慰安婦問題」削除について、岡山県議会が政府への陳情を決議。削除を求める理由として「従軍慰安婦という存在はなかった」「強制連行の事実は判明していない」「日本人だけが愚劣な国民であったかのような印象を与える」とのこと。それについての「新しい歴史教科書をつくる会」の呼びかけ人のひとり、東大教授の某の談話、「採択は当然の行動だ。日本だけがやったわけではなく、戦争中はどこの国もやっていた。だが、教科書に載せる国は世界中で日本だけだ。日本人全体が常識を失っている」とのこと。従軍慰安婦という存在はなかったというのと、日本だけがやったわけではない、はどういう点で整合性があるのか。

 沖縄で起きた事件のことを思う。駐留米軍の少女暴行。占領軍ではなく、国家間の条約に基づく平和維持の名目の駐留軍のやったこと。明るみに出ていないものを含めると、数え切れないほどの数になるはず。あれもまた、どこでもやっていることなのか。訴えるのはおかしいと声を挙げるのか。駐留軍ではなく、訴える先のない占領軍であったとすればと考えるとそれ恐ろしい。

 東南アジアの少女売買春も経済的行為。しかも貧しい人に対する救済だとするのなら、かつて日本にいた女衒というのは、人道主義者、二宮金次郎ではないが、幼い娘の手を引いて村を出ていく女衒を日本中の小学校の校庭に建てるがいい。

 震災から延々と、こうして書き続けていることの中に、なにを書きすぎ、そしてなにが欠落しているのだろうか。時間の経過が人の傷を癒すこともあるかもしれないが、時間の経過で新たな傷を作ると言うこともある。

 「大震災発生後、ただちに出動し、市民の救済にあたる自衛隊」というキャプション入りの写真が入った教科書が検定に合格したり、「震災後二年もたって、なお避難所にいる市民がいるなどということは、大国日本においてあるはずのないことである。記載事項の削除を求める」などということになったりして。

96.12.28 震災発生一週間目の95/1/25、県警発表では、死者5055人、行方不明69人、負傷者24471人、倒壊73332棟。

 96/12/26、県発表では、震災死6394人、重軽傷40071人、全壊435578棟。

 96/12/28日付け、神戸新聞記事のよると、震災後、神戸市内の路上や公園での、病気や寒さによる志望者数は80人以上にのぼる。これを「行路死」と呼ぶらしい。

 学校というところで学んできた多くのことは、たいてい数値的に処理されたものばかりである。貿易高、生産量、国家財政の膨大な赤字、第二次世界大戦における死者の数、原爆の大きさ、それによる死者の数。

 95年1月末時点と96年12月末時点の統計上の数字は倒壊家屋数において、6倍にものぼっている。あの日を体験していてさえ、数値だけで、今日の時点で6倍の重みを持って当日を振り返ることは、すでに不可能になっている。

97.1.11 窓が割れたままの家がある。屋根にもブルーのシートがかぶっている。すでに人は住んでいないのかと思うとそうでもないらしく、正月の注連飾りが門扉についている。

97.1.13 震災の時に野犬になった犬を二匹引き取った家がある。そこの西壁にはずっとブルーのシートが板で打ちつけられたままになっていたが、足場が組まれ、グリーンの工事用の防塵シートがかぶせられていた。ようやく補修だか改築だかの工事がはじまるらしい。

97.1.14 石油流出事故を見て、その対応の遅れとボランティアがクローズアップされているのを見ると、あれだけの大きな災害の体験がちっとも生きていないことに、悲しみさえ感じてしまう。

97.1.15 あの日が近づいてくると、あちこちのテレビで特集をやるようになる。猿の惑星で自由の女神が砂地からにょっきりと出ている場面があったが、阪急三宮駅のビルは、神戸に生まれ育った私にとっては、やはりシンボル的存在であったらしく、同時に映画館があり、多くの待ち合わせをした場所でもあり、心がうずいてしまう。

 次々にテレビに映し出される火災や倒壊の場面、消防車や警察、救急車のサイレンが、ほこりの臭いとともによみがえってくる。私も家内も沈黙して画面を見つめているが、子どもたちは落ちつきがなくなり、大きな声を出して、こんなのやらなくていいじゃないかと叫んでいる。

97.1.16 96年1月16日の日記を見ると「曇り。体調悪い。吐き気。」とだけ書いてある。ファイルメーカーで作った10年連用日記をおもしろいと思って、95年の5月くらいからつけている。この日は相当に気分が悪かったのであろう。わずかこれだけの記述しかない。もっとも、気分がよかったとしても、その2、3倍の記述しかないから、いずれにしても大したことはない。96年1月16日は、気分は悪いが、普通の明日が来ると思っている。そして96年1月17日は、「晴れ。吐き気。下痢。欠勤。」ということで、もっと気分が悪くなってしまったのである。

 95年1月16日はなにをしていたのだろう。気分はどうだったのだろう。風邪は引いていなかったと思う。たしか15、16と連休で、明日は学校か、いややなあ、くらいのことを言っていたはずだ。それが毎週、おそらく小学校へ入学以来、この年になるまで続いている休み明けの心境だから、おそらく間違いない。憂鬱であろうが、吐き気がしようが、翌日があることを疑うことなどまるでなかった。

 しかし、あの1月17日が来たのである。普通でない日が来てしまったのである。私にとっての普通でない日は、すでに終わりを告げているが、いまだに普通でない日が続いている人もいる。普通でないことそのものが、「普通」になった人もいる。
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