日頃寒さがつのって、神戸からの報告

96.11.9 震災で生き埋めになって、九死に一生を得た卒業生が訪ねてきた。彼女は現在看護大学に通っている。卒業して後、一度、喉の手術を受けたが、それが最後今はすっかり元気になっている様子。一緒に遊びに来たもうひとりは、社会福祉の専門学校に通っており、来年から特別養護老人ホームで実習とのこと。在学中、部員二名しかいなかった新聞部員で、震災のあと、自宅は無事であったので、ボランティアをし、テント村にも泊まり込んでいた。

 近所に美容院と理容院ができて、家内がそこへ行って来た。理容院の方は、六甲駅近くで親子三代に渡り、50年以上営業していたらしいが、震災の時、火災にあってしまった。どこかにいい場所はないかと探していて、今度の開店になったのだが、新しい店のある場所は、2系統のバス道ぞいで、私の記憶に間違いがなければ、古い木造の店があった場所。看板だけが出ていて、営業している様子のなかった、おそらくはかなりのお年寄りがすんでいたのではないかと想像していたのだが、その店もやはり震災でだめになって、取り壊されてしまった。たしかその跡地にできたのが、その美容院兼理容院ではないのか。

 私はよくしゃべる散髪屋というのが好きではなく、始終店を変えているのだが、今度はその店に立ち寄って見ようかと思っている。

96.11.12 神戸沖に空港を作れと言う話が本格化しそうである。70年前後にも神戸沖空港の話があったはずだ。いろんな理由がつくのだろうが、整備新幹線と同じ公共投資なのである。もうかる人だけがもうかり、国民全体としては借金がかさむのである。

 西武をフリーエージェントになった清原選手を獲得するのに必要な値段は7億とも10億とも言われている。かつて自分をこけにした某巨人軍に本当に入るのだろうか。阪神大震災復興のシンボルとして、清原選手に投資してくれんかな。

 新進党を離党した友部議員関連の「オレンジ共済」についての使途不明金が10億円だそうである。

 先日、ファイルメーカーというソフトを欲しいと思い、買いに行ったのだが、小遣いが足らぬのであきらめて帰ろうとした。しかし、待てよ、せっかく町へ出たのだからと、千円だけパチンコをして、一回出れば買おうと思い、はじきはじめた。ちょうど千円分の玉がなくなりかけたところで、最初のフィーバー。いわゆる連チャン機というやつで、三回出ることになった。そして三回目にまたもや7がそろい、ということを繰り返して、フィーバー連発のループ状態に入ってしまった。

96.11.13 夙川で震災にあった人の話。両親は東京にいて祖父母と暮らしている。あたりに同じような時期に建った同じような家の並ぶ住宅地。震災の日のこと。がたがた揺れているので目をさまし、外が騒々しいので、おばあさんが「なんだ地震くらいで大騒ぎして」と言う。前に東京で暮らしていたので、地震などめずらしくなく、「関西の人は慣れてないからね」と答える。自分のいる部屋はベッドがあるだけでなにも荷物はおいていなかった。しばらくして様子を見に来た親戚の人が、なにごともなかったかのようにベッドにいるのに驚き、言われて外に出てみると、両隣の家はつぶれていたとか。その状況を見てなお、学校に行かなければならないが、どうすればよいかと電話をして、あきれられたとのこと。

 そういえば似たような話を聞いたことがある。彼女は今年卒業した教え子。明石で地震にあうが、彼女の場合はずっと眠っていて、地震があったことすら知らなかったとか。

 最近は、それほど深い睡眠とは無縁の私には信じられない話。そういえばひとりはイギリス、あとのひとりはアメリカからの帰国子女。関係ないのだろうが、なんだか茫洋として、いい感じだなあ。

96.11.16 卒業生が遊びに来る。二歳の子どもを連れて。芦屋で震災。家がやられ、小学校の体育館で一ヶ月。母乳が出ないので、水も燃料もなく、ミルクをやるのに困ったとか。おむつは芦屋川で洗濯をしたとのこと。震災後の一ヶ月ということは、一月半ばから二月いっぱいということ。かつて教室にいたときと同じ口調で、騒々しく、そのときの様子をおもしろおかしく語る。様々な経験をして、今は笑い話として語れるしあわせ。

 しばらくすると、パチンコ屋の店員が、「いっぺん玉を変えてくれるか」と促しに来る。ドル箱と呼ばれる箱を三つだか以上積み重ねると射幸心をあおるということで、とにかく玉を変えねばならないらしい。これがいわゆる業界の自主規制というやつである。政府提唱の行革とどちらが実効性がるのだろうか。パソコンショップで領収書にサインをするとき、長時間、パチンコをしたせいで、手が震えて字が書けなかった。かっこわるい。

 私、いっときますけど、パチンコ、めったにしません。麻雀もしません。お酒もやめました。嘘、ちょっと飲みます。パチンコもたまにします。ほんとにたまにです。一年に数えるほどです。タバコを吸わなくなって、パチンコ屋に行くと服ににおいがしみついて、家に帰るとばれるのです。だから、しません、信じてくださいm (_)m
なにを弁解してんだか(^_^;)

 とにもかくにも16連チャン、博打のあがりはデータベースソフト(これも学校で仕事に使うのだから、ちょっと悲しいものがある)の代金と、コーラス部がハンガリーの合唱団と競演するコンサートのチケット家族5人分の代金、そして黙っていればよいものを、女房にうれしそうにしゃべって、女房へのお小遣いにと消えて行った。コーラス部は全国大会で金賞を取ったのだが、部員の中には、震災でひどい目にあった生徒もいる。震災直後、通学時間が通常の二倍、三倍になって、やめていった部員も多くいたと聞く。そんな中でがんばり通した部員が、今回の見事な成果を収めたのである。震災のために経済的に苦しい家庭の生徒もいる。コンクールは入場者数に制限があって、子どもの晴れ姿を見ることができなかった親にとっては、うれしい機会だろう。

 教師をしていると、こういうのって、やっぱりうれしい。めったにないことだから、家族にも自慢したいと思う。12月8日、松蔭大学チャペルにて。期末考査の最中の長女も、塾のある次女三女も連れていくことにする。博打のあがりで清らかな声を聞くのは不謹慎かな。税金で土建屋にもうけさせるよりは、正しい金の使い道だろう。

96.11.22 ネットワークを利用した教育についての研修会に参加してきた。九州からきておられた発表者の方が壇上で最初に、
「震災で大勢の命が失われたことに対し、心からお悔やみ申
しあげます」
 というような挨拶から講演をはじめられたのだが、私には妙に新鮮に感じられたが、場内は「予想外」の言葉にむしろ戸惑いを覚えたようだ。その後、オリックスやヴィッセル神戸のJリーグ昇格にことに話が及び、会場の雰囲気は少しやわらいだ。震災後、しばらくは誰と会っても「どうでしたか」というのが枕詞になっていたが、いつのまにか、震災が日常ではなくなりかけている。

96.11.24 巨大地震でLAが無法地帯になった、という説明のはいる映画の宣伝をテレビでしているが、ガラス張りのビルからガラスの舞落ちるCG映像を見ると、なんだか嘘っぽく感じてしまう。マグニチュードの想定が(いつもまわりで子どもが騒がしく聞き取れないのだが)、私たちが実際に体験したものとはけた違いであるに違いない。マグニチュードの数値がひとつ違えば、どれほどのエネルギーの違いがあるかについては、頭で承知しているつもりでも、自分の体験からは、なかなか抜けられない。無法地帯になるかどうかは、町の孤立状態とか、地震だけでない要素がいくらもあるだろう。

 阪神大震災の時も、様々な噂が流れた。高級ブランド商品が、トラックで乗り付けた窃盗団に根こそぎやられたとか、明かりの消えた町で女性が襲われているとか、戸締まりのできない家で、緊急用にまとめた荷物が持ち去られたとか、いくつかの商店ではウインドウが破られ、日用品が持ち去られたとか、客同士商品を奪い合い、殴り合いになったとか、あちこちで連続した火災の中には、放火も少なくなかったとか、私が信じて、この報告の中にも当時書き込んだ噂というのがいくともあるが、事実はどうであったのだろうか。神戸市民は一等市民であるという美談の中にまぎれて、その種の事実は埋没し待っているのか、本当にただの噂にすぎなかったのか、そのあたりのことはどうなのだろうか。

 パニックを起こさなかったことだけは、まちがいのない事実なのだが。

96.12.2 雪がつもった。つい先日まで、冬とは思えぬ暖かさだったのに。日陰では昼近くまで残っていた。
「よかったですね、引っ越されたあとで」
「ほんとほんと、二年も過ぎると、すきまだらけだから」
「この寒さは答えるでしょうね」
「でも、自分だけ喜んでいてもあかんのよね。鹿子台の方は大変みたいや」
 夏までポートアイランド仮設にいた先輩教師とのやりとり。鹿子台は山の向こうにある仮設のことを指している。仮設住宅というのは、工事現場にあるプレハブみたいなものである。薄っぺらな板でできていて、中にある家具などの重量で、簡単にひずみができる。二年という時間の経過がいっそう、ひずみをひどくしているだろう。新聞部の生徒と仮設を訪ねたのは、昨年の冬のことだ。こたつひとつの暖房で寒かった。石油ストーブがあったが、なんとなく火事の不安があって使いにくいとのことだった。
 震災の直後は、屋根のある、プライバシーをある程度保てる場所に移ることができただけで、満足感はあったろうが、今はなかなか元の生活を取り戻せない苛立ちとあせりで、いっそう寒さが応えるに違いない。
 
96.12.3 突然探したいものがあって、中学生の頃によく行っていた本屋に行った。小さな本屋だ。月に一冊ずつくらいしか入荷しないのだが、雑誌でほしいのがあったりするのだ。立ち読みをしていると、上の方から声が聞こえてきた。昔は二階が参考書売場になっていて、そこでよく問題集を探したりしていたのだが、店長とどこかの女の人が話している。女の人が、タンスが倒れてくるのがこわいから、この部屋で寝るのがこわい(どうやらその女性の母親が、いまだに地震の恐怖を引きずって、家でそのようなことを口にするようなのだ)と言って困るのだと言うと、
「うちなんか、今度揺れたら、タンスどころか店のビルそのものがつぶれてしまう」 と店長が答えている。ビルと言っても狭い、鉛筆みたいなビルなのだが、ふと二階を見上げると、壁一面にある書棚には本が一冊もなく、斜めに板を打ちつけて、壁面の補強をしてあった。

 歩いて家に帰ったのだが、更地がさらに増えていた。前から更地になっている場所に、雑草が生い茂りはじめているところもある。

96.12.5 検査の結果を聞きに行った。画像場も腫瘍マーカーもすべて異常なしだった。次は半年先である。再発しても自覚症状が現れることが少ないから、検査を続けていくしかないですねと医者が言うが、医者が私に対する時間が確実に短くなってきている。短くそっけなくなってきたということは、病気の心配が減ってきたということだろう。

 民放の6時半からのニュースで非難所の状況を毎日伝えているが、現在、非難所の数19カ所、避難中の人は254名だそうだ。果たして、どのような環境のところに暮らしているのだろうか。検査じゃないが、ときどきはこういう数値を眺めて見る必要があるような気がする。
へおすすみください。

HOME PAGEへ戻る