総選挙が終わって、神戸からの報告

96.10.5 かつては登校拒否、今は不登校と名を変えた、要するに学校に来ることができない生徒というのは、各学年にまんべんなく数人はいる。

 私が最初に今で言う不登校の生徒に出会ったのは、教員になって二年目、その当時は「なまけ」と「登校拒否」の区別をほとんどだれも知らなかった。それから数年のちに、今、30歳くらいになっている生徒が「登校拒否」になり、学校の中で「登校拒否」を認知してもらうために、職員会議でみんながうんざりするほど何度もくり返し、症状を説明する演説をぶったことがある。そのうち中学生に関して、制度として特別な取り扱いを検討されるようになった。

 登校拒否が「不登校」と呼び名を変えた現在では、たやすくその症状をお互いに理解し合うようになった。しかし、そのたやすく、理解、あるいは了解しあうことがかえっていけないのではないかと思うこともときどきある。病名をつけることで、安心を得ようとすることそのものが、病気で、今どきのガッコーの職員室はビョーキで蔓延している。

 不登校に震災の被害が重なった、相当つらい事例を聞いた。震災より以前に、両親が離婚して、すでに学校に行かなくなっていたのだが、母子二人で住む家が、今度の震災で全壊。母親は保険の外交員をしていて、震災以前から、子どもを引き取っておきながら、家を開けることが多い。別れた父親は、転勤で山陰の町にいる。震災で全壊した家は、今もまだ全壊(役所の認定がそうなっている)のままであり、子どもは壁が崩れ、窓が破れ、扉もしまらぬ家にひとりでいる。

 肉親はほかに祖母と伯母がいて、祖母もまた被災し、仮設住宅に暮らしている。学校に出てこず、家に閉じこもった子どもの食事は伯母が世話をしてやっているらしく、くわしいことはよくわからぬまま。

 子どもの心はすでに震災の前からずたずたであったと想像がつくが、こういう状況の子どもについて、学校はどうにも手を下すことはできない。ケースワーカーに託すべき問題かも知れないが、そうしたとて、なんの光も見えてこない。

 震度7のすさまじい揺れを体験し、震災で破壊された町を見たとき、私自身、体に悪性腫瘍の再発の可能性という爆弾を抱えていたのだが、震災による危機がかえって、免疫力を高めてくれたような気がしたと、かつてこの報告に書いた。

 戦争の場合にも、ある種の危機感が、戦地にいる、あるいは空襲の被害にさらされた人々をかえって高揚させたこともあろう。太宰治は「右大臣実朝」の中に、「明るさは滅びの色」と書いていて、戦争とか、災害とか、どん底の状態の中に、ほのかな光を見るようなことが確かにあるに違いない。

 私が、震災当日、「神戸からの報告」を書き始めようとしたのも、テレビで伝えるような悲惨ばかりじゃないぞ、それなりの生活があるんだぞ、悲惨の中にも喜怒哀楽の「喜」と「楽」がやっぱりあるんだということを記録しておきたかったのだ。悲惨ばかりを描いた戦争文学も、滅私奉公を伝える戦記物も、どちらもインチキだという思いがあったのだ。その意図は様々な現実を見るにつけ、しだいに隅に追いやられてしまった。

 色川武大や野坂昭如の描く戦後の風景には、貧しさや悲壮の中にも妙な活気があり、そこら中、「不登校」だらけ、そんなものを気にやむことなどまるでなかったように見える。戦争で傷ついたとして、傷の癒える速度と、戦災からの町の回復の速度が、そんなに遊離していなかったのではないか。あるいは戦争は日本全体だったが、震災は局部的で、まわりとの落差が被災した人をつらくしているのかもしれない。

 今度の震災について言えば、その復旧のあまりの早さが、その明るさをあっというまに奪い去っていったような気がする。そのことで、立ち上がり損ねたものの心をいっそうむしばむ結果になっているのだ。

96.10.7 前回、町の回復する速度と、人の傷の癒える速度のずれについて書いた。救援物資よりも先に空を埋め尽くした、95/1/17の報道のヘリというのは、腹部をまたたくまに撮し取るCTのようなものであったろうか。つい先日まで、テレビで他人の不幸を見てばか笑いしていた私たちが、ある朝、突然、ばか笑いされる番になってしまったのだが、ヘリから写される映像というのは、問診を忘れた「情報中毒」の医者に体温から血圧、心拍数、もしかしたら毛穴の数まで調べあげられ、肝心の患者の悩みは置き去りにされているようなものかもしれない。

 三年前、腹部の手術を受けた後、CTによる検査を定期的に受けるように医者に言われた。その後、MRIというのがあって、CTよりもすごいらしいという噂を聞くと、CTで大丈夫なのかと不安になった。主治医に相談しにくい(お役人の顔を見る業者とは違うが、気を悪くされると困るという意識が患者にはある)ので、知り合いの医者に尋ねた。すると(三年前の時点)画像は鮮明でデータ量も多いかも知れないが、MRIの画像を読みとる技術が、CTほど確立されていないので、必ずしもMRIが優れているとはいいがたい(おぼろげな記憶での再現だから、言葉は違っているかもしれない)と言われ、転院して検査漬けにされるのもかなわぬので、CTで納得しておくかと思った。

 顔色が悪いと思う医者の気持ちと、おなかがしくしく痛むという患者の訴えが出会ったところで、癒しというのがはじまるのだろうが、まずは、検査がはじまり、その結果も知らされぬまま、次の検査が、さらに次の検査と続いていく。情報の垂れ流しという言葉を近頃よく聞くが、情報はどこかにあり、私たちの知らないそのどこかで集約されているのかもしれないが、膨大にあるらしい情報が私たちの手元にもたらされたことなど、考えてみると一度だってないのだ。病気の話のついでに言えば、二ヶ月入院していたとしても、医者と話した時間のすべてを合わせても、東京大阪間を新幹線で走るほどの時間にもならないはずだ。情報は間違いなくあるのだが、どこかに隠匿されている。

 恐ろしいことに腹を開いて、これこれのものを切り取りましたと言葉で聞いても、肝心の「これこれ」を目にすることはない。もっとも見せてやろうと言われても、手術の直後にそんな精神状態にならなかったが。あるいはさらに極端な話をすれば、全身麻酔をされたあと、腹部に「縫い目」だけをつけられ、なにもしなかった可能性だってあるわけだ。事実悪性腫瘍の手術をして、開腹して手の施しようがない患者というのは、本人にはうまくいきましたと伝えておきながら、なにもせずに閉じられている。

 たくさんの映像によって、真実が語られると言う錯覚があるだけで、それを突きつけられた者たちは、実は何も見ていない。あらゆる事実を集めることができるとしても、その集積は、ぼんやり歩いているときの町の風景となんら変わらなくなってしまう。俳人が町を歩いて花を見て、エコロジストが荒ゴミ置き場で再生可能な廃材を見るように、だれがその情報を取り出して、誰に伝えようとするのかで、随分、違った物になるはずだ。それがいわば編集という行為なのだろう。

 膨大であり、かつ垂れ流しにされていると称される情報は、ほとんどすべて編集の手が入り、均質化した物を見せられているだけだ。どの時間でも、どのチャンネルでも同じ物を何度も見せられると言う意味では、情報は垂れ流しになっているのだが、開店寿司の不人気メニューよろしく、同じ物がぐるぐる回っているだけで、実は垂れ流しとは全く違っているのだ。

 インターネットのネガティブな面を指摘するのに、やはりこの情報の垂れ流しと、情報の質(正しいかデマか不明であるなど)を問う声を聞く。記者クラブの発表しか報道しないマスコミに、情報の質をとやかく言う資格があるのかどうか、そもそも疑問であるが、「正しい」と確認された情報などというものは、時によっては「デマ」と同じくらいいかがわしく悪質だ。清く正しく調理された情報によって、いかにマインドコントロールされているのか、もっと神経質になってもいいはずだ。

 「神戸からの報告」もまた、事実誤認や思いこみ、意図的すりかえなどが蔓延した、まことにいかがわしい「情報」のひとつであるかもしれないが、今度の震災をきっかけに私たちが体験しているインターネットの情報洪水というのは、むしろ喜ぶべきことではないのか。誹謗中傷のたぐいまで野放しにせよとは思わぬが、情報なるものを、一度あふれるだけあふれさせてみたらよい。編集というフィルターにかかった正しい情報という物が、膨大なゴミの山から、なにを見つけて、見栄えのよい細工物に加工したのかを見るのもいいことだ。

 未曾有の災害の現場に居合わせたということは、編集前の情報と編集後の「正しい情報」の落差を見る、またとない機会であったと心から思う。垂れ流しなどという非難に腰を引くことはない。まだまだ隠匿物資があるはずだ。もっともっと情報を垂れ流しにせよ。

96.10.8 子どもの幼稚園の友達から電話がかかってきた。幼稚園の先生を訪ねていこうという相談である。かつてポートアイランドという人工島に住んでいて、小学校入学の時に今の場所に引っ越してきた。その子がわが家の電話番号を聞いた相手は、子どもの小学校の同級生である。彼女と三女は大の仲良しであったが、震災で家が全壊し、近所の公立中学の体育館で半年暮らし、現在はポートアイランドの仮設にいる。幾度か連絡を取ったが、その都度、どこそこへ引っ越すというような話を聞いていた。しかし、今もなお、仮設にいるということは、新しい生活をはじめる目処がなかなか立たないと言うことになるのだろう。話を聞くたびに、引っ越し先の住所も変わるのが、なんだか切ない。

96.10.10 犬の散歩中、選挙ポスターを見る。被災地の消費税廃止。どうやってするのか。被災地で買い物をすれば消費税はいらないのか、それとも被災者と認定された人が買い物をすれば、消費税がいらないのか。

被災地の中のとくにひどい地域無課税となれば、よそからの買い物が増えてよいかもしれない。しかし、どこがひどい地域かということで、論争必至。食料品を非課税にというときも、まったけは日常の品物かとばかな論争があった。まったけであろうが、キャビアであろうが、私には非日常だが、日常の人がいてもかまわない。ある女優が、神戸で被害のひどい地域の商店に希望者をつのり、通販のパンフレットを作り、神戸でお金を落としてもらう計画を実行に移そうとしているそうであるが、これはなかなかのアイディアだ。

阪神高速が開通したと思ったら、今度は二号線をはじめ、下の道のあちことが掘り返されている。少し大きな道で、すんなり走れる場所がほとんど全くないと言ってもよいくらいだ。

震災時ヘリの発着場になっていた王子競技場のタータントラックは、そのタータンが浮いたような状態になっている部分がある。震災当日、人がいなくなり、しばらくして取り壊され、公園用地になった更地、子どもの背丈ほどに雑草がしげっていたのを夏場刈り取った。そろそろ工事がはじまるのかと思ったら、見通しがよくなったそのままの状態である。震災の復旧工事というものも、平時の「公共投資」、国家財政圧迫の元凶と、発想が変わることなく、同じような優先順位で行われるのかも知れない。

96.10.11 新しく建った家にブロック塀が作られている。震災で簡単に倒壊したブロックには懲りたはずだが、安全を買うほどの余裕はないということなのか、喉元過ぎたのか。耐震にすぐれていると軽量鉄鋼やパネル構造を選び、外溝に金をかけられないというのはだれしも同じなのだろう。わが家だって、たまたま倒れなかったが、ブロックの上に化粧をしているだけだ。でも一応は鉄骨が入っていると負け惜しみ。

96.10.12 ハーバーランドにある、神戸市の施設であった研修会で、インターネットの説明に参加してきた同僚の話。公立学校がみなネットワークでつながれている(つながれようとしている?)のだが、立ち上げの画面は、災害に関するものになっていて、それをコマンドではずして、他のソフトの利用に至るようにできているとのこと。この目で確かめたわけではないから、災害に関する画面がなにを意味するかわからない。

96.10.27 ホームページにこの報告を載せていると、いろいろな人からメールをいただく。カウンターというのを今年の6月につけてみたのだが、現在までに1560人の人が「通過」してくださったことがわかる。ホームページで商売を考えている人にとっては、ばかみたいな数字であるが、私のような個人にとっては大変な数字である。

 先日は某放送局の報道カメラマンの方からメッセージをいただいた。神戸には地震直後から、あの「悪名高い報道陣の一人」として、現地の取材にも関わってきましたとの言葉でメールがはじまっていて、阪神地区の出身であるため、神戸には「特別な愛着」があったということ。私が時折、マスコミを批判するような文章を書いているせいもあり、自省をこめた文章が続くのだが、おそらくカメラをかまえて現地に入った彼にしても、編集によって切り捨てられた膨大なテープの中に、様々な思いがあったことが推察できる。

 今週の木曜日、平和学習ということで生徒を連れ、広島に出かけ、被爆体験者のお話をうかがう機会を得た。長崎では幾度も、体験者の話をうかがったことがあるのだが、広島でははじめてだった。彼女が「語り部」になる決意をしたのは10数年前で、10フィート運動(アメリカが撮影した被爆地の膨大な記録を、ひとり10フィート分の募金を払って買い戻そうと言う運動、当時生徒会の担当をしていて、生徒とともに募金に参加し、完成したフィルムも購入した)の映画を見に行ったことがきっかけであったということである。

 被爆直後、記録写真を撮るのを求められた彼女は、8月の8、9日に婚約者が戻ってきて(実は戦死していた)結婚することになっていたそうだが、様々な偶然からやけどは負わなかったものの、片足を切断しなければならない傷を負っていたにもかかわらず、自分はなんでもなにのよ、というそぶりでカメラの前に立ち、その後も被爆体験を隠し続けてきたという。

 被爆から40年近く過ぎてから、10フィート運動の映画の中に自分の姿を発見し、なんでもないでもないふうを装って映っていた自分のひどい姿に一度は目をそむけ、逃げるように映画館から出てきたそうだ。そして、その後、見知らぬ人から声をかけられることがあり、自分を見て泣き出す人がいて、「あの子も生きていたら、あなたのように」と絶句し、どうやらその人は娘を原爆で失った母親であったらしい。そしてまた、彼女は教師をしていたのだが、かつての教え子から、被爆体験を黙っているのはずるい(ひどい、という表現であったか?)というような発言があり、衝撃を受け、語り部となることを決意し、毎日あちこちで語り続けているということだ。耳で聞いた記憶をたよりに書いているので、事実と違う描写があれば、お許しいただきたい。

 映像というものは、編集する側の意図でいろいろに変化をしていく。カメラをまわしたものにもいろいろな思いが込められている。カメラをまわしたものの思いと編集するものの思いがうまく重なるような、幸運な報道のされ方というのが、どのくらいあるのかわからないが、私たちは毎日、テレビで様々な事件の「現場」と言われる「動く絵」を、ぼんやりと無批判に見続けているのである。

96.11.3 震災で全壊した東灘区にあるコープリビングセンターが復活。パンジーひとつ65円のオープン記念特価につられて出かける。すごい人出。壊れたものが元に戻って活気を取り戻すのはよいことなのだろう。

あまりふだん通らないところを走ると、まわりの景色が変わっていて、道を間違えそうになる。あいかわらず、道は掘って、埋めて、また掘り返してが続いている。そして、ビルのなくなったところの空がやたらに広い。

96.11.4 地震の直後、屋根だけをなおし、そののち、すべてを建て替えることになった人がいた。工事もほぼ終わりかなと思っていたら、夜、部屋に明かりがともっていた。ようやく戻ってくることができたのだろう。そこの飼い犬はフリスビーを空中でキャッチするのがとても上手である。さらにまたサッカーのゴールキーパーも得意で、小さなゴムボールをけとばせば、そいつを見事にくわえる。震災前は一緒によく遊んだ丸山公園も、くずれた崖の補強工事がほぼ終わりつつある。

参議院補欠選挙のちらし。あいも変わらず、消費税反対、行革、そして災害復興。震災のあと、すぎにあった市会議員選挙から数えて幾度めの選挙であろうか。

長田の詩人から新しい詩集を送ってもらったので、電話をした。彼は私が学生時代からすでに(というより、彼自身が学生時代からと言うべきだろう)第一線の詩人であった。私が勤める学校の先輩で、定年まで5年残して退職し、自分の仕事に専念するようになった。私自身、いつかそういう決断を下せる日がくるのを心ひそかに(ここに書いてしまえば、ちっともひそかでないが)願いつづけている。

その詩集をながめながら電話をしていたのだが、私自身、その大阪の出版社からずいぶん前に本を出してもらったことがあり、いつも決まった人が装丁をしているのを知っていたので、なんとなくその人の作品かと思い、気にもとめなかったが、しゃべっているうちに、表紙の絵に見たことがあるサインのあるのに気がついた。

その人の百号の作品が子どもの頃に住んでいた家の居間に飾ってあり、それが私がはじめて見たいわゆる抽象画で、「キラ」という題名のついた作品だった。ブラジルで行われたビエンナーレに出した作品群のうちの一枚であるらしい。子どもの頃の私は、なにやらわからぬ形状に、新幹線ができるまえの「特急こだま」の姿と、魚釣りの餌の「J」の字に体をよじった巨大なミミズの姿を連想していた。

もう少し大きくなってから、毎年、彼の家の庭で行われていた個展に何度か父につれられて出かけたことがある。その白髪の老人が具体美術の有名な作家であるのを知ったのは、ずっとあとになってから、県立美術館で彼の作品のコレクションの展示を見てからだった。

長田の詩人と画家の関わりは、画家自身も詩を書いていて、長田の詩人の関わる雑誌のカットや表紙を書いていたことによるのではないか。そして長田の詩人の関わる雑誌というのは、私が大学を出る年に仲間に加えてもらった文芸誌のかつての同人たちが、私のいた雑誌から出ていって新たに作った雑誌を前身としている。もちろん私がまだ子どもの頃の話で、その経緯はすでに歴史の中にある。

阪神大震災で亡くなった方の数というのは、五千人を越えているわけだが、その死者の中に幾人か私の知っている人がいた。ほとんどは人からあとになって電話で聞かされたり、噂で聞いたりしたものばかりであったが、その中で唯一、なにげなくながめていた新聞の死亡者の一覧の中で発見したのが、画家の名前であった。彼はすでに80を越えていたが、西宮の古い家の下敷きになって亡くなった。
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