まもなく二度目の防災の日です、神戸からの報告


96.8.3 8時45分頃、揺れた。一瞬、忘れていた記憶がよみがえる。東京で学生時代の友人と会った。ずっと東京にいるものと、大学の時上京し、それ以来東京に住み着いているものがいる。私自身、大学に入り、下宿をしたとき、地震の頻度に驚いた覚えがあり、住んでいるところが人が歩いても流しの食器がかたかた鳴るほど揺れるぼろアパートであり、また小さないかにも燃えやすい建物が密集している地域であったので、大きな地震がくれば終わりだと思いつつ、飲料水を確保するには、バールのようなもので、自動販売機でもこじあけなければならないかななどと、眠れぬ夜には想像したりしながら暮らしていた。

 阪神大震災の朝、最初の揺れがおさまった直後、風呂の蛇口をひねったのは、学生時代の地震に対する恐怖感みたいなものがあったせいかもしれない。すぐに断水になったが、管にたまっていた水だけで、とりあえず、浴槽を満たすことができ、当座の生活用水の足しになって、おおいに助かった。

 震災に対する備えをしているかという話になり、もとから東京にいる連中はなにもしておらず、地方から出てきて、東京に住みついた連中は、家具の補強だけではなく、懐中電灯や水など、非常用の備えを用意していると言っていた。神戸の状況を見て、マンションを買うのもやめにしたとも言っていた。

 その下宿にも行ってみたが、すでに取り壊され、立体駐車場になっていた。貸本屋さんのおばさんが大家さん(といっても建物の所有者ではなく、血のつながりはないが、遠い親戚で、おばさんが借りている部屋を、又借りしていたのだ)であったのだが、10年近く前に、すでに亡くなっているはずなのに、いずみ文庫という彼女の店だけは残っていた。しかも、営業時間が当時と同じ時間帯で書いてあり、本当にだれかが引き継いで営業しているのか、死んだときのまま残してあるのか、とても不思議な気がした。ときどき店番を手伝い、商売ものの漫画を山ほど借りて、翌日の開店時間まで読みふけったものだ。

 ラーメン・ライス(麺類をご飯のおかずにするというのは、実に奇怪な発想である、が、しかし、残りの汁に飯をぶち込んで食うと、ミジメに塩味をきかせたようで、実にうまいのだ)なるものをはじめて食い、ギョーザ・ライスというのもあるのを知って、天才バカボンのパパが好きである(と少年マガジンに書いたあった)、どこかユーモラスな響きの「レバニラ炒め」の本物をはじめて食った、元ボクサーが店主の中華料理屋はそのまま(商品見本も当時のままで、すっかり色が落ちていた)あったが、日活ロマンポルノを20本近く見た映画館はなくなっていた。

 今思えば、当時のロマンポルノというのは元気がよくて、そこらの文芸映画よりも、よほど文芸的であった(とはいうものの、当時はやっぱり、「発散」するために見ていたのだろう)。下宿の前に小さな公園があり、子供が遊んでいたが、あの当時はそんなものに関心がなかったのか、完全に記憶から欠落している。

 貸本屋の隣の散髪屋はそのままだが、さらにその隣のスナックは、おそらく主を変えている。当時は確か紫色で白抜きの文字の入った、あやしげな看板がかかっていた。女の人の名前が店の名前で、もちろん店によることなど考えもつかず、妄想だけをふくらませて、毎日前を通っていたが、あれから20年、ママさんが30なら今は50、40なら60、50なら70だ。

 オイルショックで朝風呂のなくなった銭湯や、仕送りその他「もろもろ」、様々な思いで通った郵便局は、当時のままだった。家に全く手紙を書かず、電話もかけない私を、母が心配しているから、もっとまめに手紙を書けと、まわりくどいやりかたで、幾度も父から葉書が届き、その都度、ますます反発をつのらせていたが、その父も今は脳梗塞の後遺症のため、左半身不随でふせって、8年になる。

96.8.9 長田の詩人と会って話をした。震災の直後に町が「壊滅」したと感じたのと、町の**パーセントがやられているというジャーナリズムの言葉と、文学の言葉は違うというような主旨の話をした。

 詩人は、震災のことを語り続けなければならないと言った。私的な体験としてではなく、いろいろな人の目を通した言葉で語り続けるのが、彼の仕事だと言った。詩としての方法論をずっと考えてきて、詩を書き続けてきたが、その方法論とは別のところで震災を書いている。震災から言葉を紡いでいる。

 そのこと自体が彼の方法であるわけだが、書いてることがよくわかると最近、いろいろな人に言われる。かつてならそれはほめ言葉ではなかったが、今はそう言われることがむしろうれしいと語る。あんなことがあった、こんな感じがした、わたしもそうだった、と共感される言葉で、震災を語り、書き続けていくと、詩人はつぶやいた。

 窓の外には阪急三宮駅が見える。駅前の喫茶店にいる。黒沢明の姿三四郎を、父親につれていってもらったのが、阪急会館だったという。私が見た姿三四郎は、加山雄三が演じていたが、詩人が見たのはその前のものである。国際会館も新聞会館もなく、交通センタービルもなく、さらに向こうまで見通せる。

 菅江真澄を追いかけてきた旅の詩人に、最初の詩集を書いた頃、どんな詩人を読んでいたのかを聞いてみたくなった。あの頃は本がなかったという。昭和24、5年のころだ。本と言えばすべて古本で、大学の帰り、三宮で降りて、古本屋を見ながら神戸駅あたりまで歩くのが日課だったと、歩きながら詩集を買いあさっていったとのこと。

 彼は私が生まれたときにはすでに最初の詩集を出していて、私が大学の頃に買った思潮社から出ている彼の詩集には、旅館の丹前を着て、腕組みをして写っていて、ということはすでにあの頃から旅をはじめていたのだろう。

 震災のあと、段ボールに40箱分の詩集や句集、歌集を処分したということだ。

96.8.16 淡路島に行く。往路、震災以来、はじめてハーバーランド方面へ抜けるバイパスを使う。震災でつぶれていたのが、見事に復活。ついこのあいだまで、下の道も阪神高速の橋脚が鉄板におおわれ、1車線しか使えなかったのに、4車線すべてが通行可能で、しかも路面の舗装も新しくなっている。神戸製鋼の関連施設も一部撤去され、景色がずいぶんかわってしまった。震災後の渋滞一番ひどかった時期に比べると、5分の1以下の時間で行けた。ここを走った人は、神戸もすっかりもとに戻ったじゃないかと思うのだろうと考えつつ、道路から先に復旧しようとする行政のもうひとつの意図を想像した。

 淡路からのフェリーで、井伏鱒二と安岡章太郎の対談を読んでいて、「関東大震災で、あそこらあたりは、随分、変わったからね」という言葉に行き当たり、来るときに感じた近代都市における復元力を思うと、震災でなにが変わったと言えるのかと、つい考えてしまった。復興だとか、復旧だとか、いろんなことを言いながらも、大部分は、ひっくりかえったヨットが元に戻るみたいに、元の状態を取り戻しつつあるだけで、古かった家が新しく建てかわることがあったとしても、なにかが生まれ変わったと言うようなところが、あるだろうかとつい考えてしまった。

 神戸に到着してから、復路、混雑をさけて、長田を通る。新しくなったバイパスを通って感じたこととは全く違い、ほとんどなにも元に戻っていないではないかというのが、実感だった。着々と復旧しているのは、車が走る道だけで(とはいっても、長田近辺は、三宮などとは違い、路面はひび割れ、ゆがんだままである)、震災後、最初にこの道を通ったのはいつであったか忘れたが、その時の印象と景色がほとんどかわっていなかった。

96.8.17 これまた震災後、ずっと使用不可になっていた丸山公園に行く。崩れ落ちた崖の部分を深くえぐり取り、中間部に見晴らし台を作ってある。上から町を見おろすと、あちこちに工事中の家が目立つ。とにかく久しぶりに足を踏み入れたところは、どこにでも工事中の箇所があり、以前の姿を思い出せなくなっている。

 今日の夕刊に震災前の写真を探すボランティアの記事があった。家をなくし、かつての家のあたりの記憶を呼び戻す手がかりをもとめている。

96.8.25 ハーバーランドに子どもの誕生日祝いを買いに行く。西武百貨店が退去したあとにできたハーバーサーカス。上の階にあるパソコンショップには幾度か来たことがあるが、店内を歩くのははじめて。キャラクターグッズを売る店があったり、お香とか赤い光が内側で点滅し、アルファ波を出やすくするというサングラスのような、いわゆるヒーリンググッズを売る店などが、脈絡もなく並んでいて、奇妙な具合だなと思った。

 あとで、もしかしたら、あれがいわゆる一坪ショップというものではなかったのかと、気がついた。一坪ショップのことは新聞で読んで知っていて、記事になっていたのがそうであったので、飲食店だとばかり思いこんでいたのだ。パソナという人材派遣会社が、西武が経営に失敗したあと、新しい雇用を創出すると称して作った一種の百貨店で、一坪ショップは、震災で店を失った地元の人たちに、文字どおり、一坪の空間を提供しているのだ。

 全国のみなさん、神戸にお越しの際は、どうか、こういう場所でお金を落としていってください。

96.8.27 卒業生が遊びに来た。彼女たち自身の身の上やら、同級生たちのうわさ話。

A子、長田で被災。すでに結婚相手がいて、布引にマンションを借りていたので、すぐに転居。母親もまた一緒に、近所に移ったという。

B子、芦屋で被災。商店街に住んでいて、倒壊した家具にふさがれ、扉も開かない。亭主がその扉に幾度も体当たりし、ぶちやぶってようやくパジャマのまま脱出。亭主の奮闘ぶりを見てつくずく結婚していてよかったと思ったとのこと。

C子、独身。芦屋で半壊。会社勤務。携帯電話を使い、同僚の安否をすべて確認、会社に連絡を取ると、自分の被害が一番ひどかったことが、あとになってわかる。芦屋から西宮まで歩き、それから電車で大阪に出勤して、大阪が別世界であるのに驚く。入ろうと思えば風呂にも入れるし、親には悪いが、家に帰りたくないと、一瞬思ったという。家が住めない状態なので、アパートを探す。住宅手当の交渉を会社とすると、総合職でないものには出せないとの返事に、がっくり。総合職ではなく、一般職として就職したのがたたった。勤続年数も増え、全国を飛び回り、総合職なみの仕事をしていると自負していただけにショックだったそうだ。こんな会社にいてもしかたがないと辞職。震災直後だけは、結婚していればよかったと思ったとのこと。

 バルコニーに亀裂を発見。

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