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続 神戸からの報告 二月前半(95/2/1〜2/14)


95/2/1
 一昨年、死を考えずにはいられない大きな病気をした時、しばらくは町を歩くのが恐かった。まわりを歩く健康な人のエネルギーにおしつぶされ、おいてけぼりをくいそうな気がしたのだ。しかし、今は微妙に違う。まわりをとりまくエネルギーは、私も一緒にどこかへ連れて行ってくれそうな気配をただよわせているのだ。病気の時には私のものだけであった死が、町全体が絶望を体験したことで、ある種の共感を持って動いているようなのだ。これが永久に続くものだと思うほど楽観的ではないが、でもなんとか町が立ち直れそうな雰囲気になってきている。
 日本人は我慢強い。これ、本当だろうか。病気をしてしばらく、病気のことを口にすることができなかった。我慢強いわけではない。すくんで、おびえていた。きのうの夜中、ずっと長女が寝言で叫び続けていた。学校は避難所、友人の多くは疎開。そして気になる受験のこと。父親である私が、こんなさなかに勉強しろと言う。あいかわらず寝間着に着替えられず、服を着たまま布団に入る毎日。狭い部屋に親子五人がひしめき合う。余震の恐怖から解放されていない。水が出はじめたのに、トイレで水を流すのにためらいがある。風呂をわかせるわけではないが、風呂桶を空にするのが不安である。子供の気持ちをやわらげてやる方法はないものか。「けなげ」をほめて、それでよしとするわけにはいかない。
 学校で朝から復旧作業。生徒が登校できる状態を整えるため、変則的な時間割の工夫や、登校不能な生徒のための分校の算段。やるべきことは山ほど有り、すべてが未体験のこと  大学受験の報告に来る生徒、避難所からの受験、小学校の特別教室に寝泊まりしている。どうやって勉強をすればよいのか。長時間かけて通勤してくる教師も疲れ切っている。がんばれという言葉を口にするのも罪な気がして、ただ無言で話を聞いてやるほかない。世間は大震災に飽きつつあるのかもしれないが、次々に解決しなければならない問題が押し寄せてくる。
 損保勤務の兄は神戸支店で、顧客からの不満を聞く電話をとり続けている。保険会社は損をしないしくみになっているが、客は納得するわけはない。火災保険でなんとかならないかと思うのは当然のこと。サラリーマンもつらい。

95/2/2
 避難所ではチフスなどの病気が流行りはじめているだの、外国人が焼けた家の周りをたむろしているだの、よくない噂が流れている。ただの噂だから、デマだから、信じてはいけないと生徒を安心させ、関東大震災で起こった悲劇について話してやる。避難所生活をしている生徒は疲れ切っている。近所の駐車場にいるトラック、荷台のコンテナ部分に並み板の扉がついて、役所が作る仮設住宅的なものになってきた。
 二月六日に二度目の登校日を予定、地震の体験を作文にして話し合うことにしている。テレビで地震のショックをやわらげるのは、恐怖の体験を言葉にして表現するのが大切と言っているが、はたしてどうなのか。八日には二時間程度の授業らしきものをためし、十日からおよそ一週間三時間授業。それから四時間、五時間と少しずつ通常の姿に近づけていく。家から出る勇気をつけてやらねばならない。全員がそろわぬところで、疲れ切って学校にたどりつく生徒にどんな授業が可能なのか。交通網が完全な状態になるのは半年ほど先なのだから。
 昨日も今日も、数人の生徒がボランティアで図書館の復旧の作業を手伝ってくれている。私は昨日は岩波文庫の緑帯(日本文学)を、今日は赤帯(世界文学)を番号順に並べた。岩波文化の膨大さ。整ったものから書架に戻していく。作業は少しずつだが、確実に進行していく。 登校日までに開館できる状態にしておきたい。
 午後、学校を抜け出し、家族のストレス発散のため外出。異人館で有名な北野町に行く。倒壊している部分もあるが、すべてがやられているわけではない。テレビの報道には露骨な作為と誇張がある。時期が来れば観光名所は復活するだろうが、おそらく遠来の客の興味は災害のあとの瓦礫の山。妻の行きつけの美容院、プロパンを導入し、今日から営業。被災地の住民に無料サービス。家の風呂は当分、無理だが、私も洗髪とカットをしてもらい、生き返った気分。
 新神戸駅近くの新神戸オリエンタルホテル、ショッピングモールのオーパは営業中。いつもは神戸ブランドのみやげものを売る店に、ミネラルウオーターや下着、トイレットペーパーの生活物資が並ぶ。地下の高級総菜店も、生活物資と食料品の店に変えている。地下の食堂、カセットボンベを使って、営業。店内を犬を連れて歩いている客がいる。ランチ、通常よりも安い料金になっている。ホテルの日本料理店の中に、ごみ袋を持った人がうろうろしているが、不自然ではない。長女にスマップのCDを買ってやる。受験勉強で、それどころじゃないだろう、と心で思うものの、今日は口には出すまい。次女には漫画雑誌のりぼん、三女はなにもほしいものはないというので、釣り銭にまじっていた広島アジア大会記念の五百円硬貨をやる。
 家が銃砲店経営の卒業生と出合う。かつて私が監督をしていたソフトボール部の選手で、市の大会優勝、県大会三位の時のメンバー。彼女はショートで四番。サードで主将の相棒は長田で被災したが、結婚を控えていて、新居に花嫁道具を数日前にいれたために、とりあえずは助かったとか。実家の屋根は落ち、母親は妹の嫁ぎ先へ避難。二人からかつてのメンバーたちの情報を二三聞く。出産直前の看護婦をしている二年下の主将の父親、即死、母親は生き埋めから生還。父親との仲がうまくいっていなかったが、結婚前に和解していたのがせめてもの救いかもしれない。芦屋に住むレフトで一番バッター、市の大会のホームラン王、瞬間的に家が倒れ、パジャマで逃げ出し、三日間、行方がわからなかったとか。でも今は命は無事。
 銃砲店の娘の話の続き。父親が地震の直前に客を連れて猟に行き、普通は一頭か二頭しとめられたらよい方なのに、一度の猟で十頭もしとめ、しかもはじめて猟に出たものにまで獲物があったとか。こんなことは数十年来一度もなかったとのこと。動物もふつうではなかったのだろう。また今、猟のシーズンで実弾と銃を持ったまま避難所にいる客がいて、警察からあずかってくれと依頼された。体育館に銃を抱え、散弾を持った人のいる恐ろしさ。テレビで放映されない光景があちこちにある。
 帰り、信号待ちの車が揺れる。ラジオによれば震度3。タイヤのゴムが緩衝材になりきれず、家族五人が乗った鉄のかたまりが、はっきりと揺れた。余震がしばらくなかったので、この程度の余震はあった方がかえって安心かもしれないなと、妻としゃべる。むき出しの建物、危険の目印、しばしばすれ違う自衛隊の、本来なら戦闘のための車両、見慣れた景色になってしまった。

95/2/3
 病気以来やめている酒を体が求めているが、やはりまだ恐い。養命酒はどうかと勧めてくれる人がいる。そういえば、死んだ祖母は赤玉ポートワインを寝酒にしていた。始終ものを食っている。差し入れのおかしが目につくと、すぐに口に放り込む。この食欲はなになのか。食えるうちに食っておかねばならない冬眠前の動物のようだ。
 仕事はきついが、充実感がある。毎日、新しい学校を作りなおしているような気分。今日は図書館の本棚を作った。今年度、図書教育の係になり、最初は読書嫌いの生徒のために、少しでも興味を持たせようと、平積みの台を友人の美術教師と考案したもので、地震発生直前の日直の時、彼と二人で合板の裁断だけをしておいた。目的は違うが、スチール製の書架がだめになっているので、大変役に立つ。緊急時のつらさはあるが、平常時には味わえないこともたくさんある。今日も五人の生徒が何時間もかけて手伝いに来てくれた。仲間との絆は少しずつ強まっているのだろう、たぶん。絆という言葉を久しぶりに思い浮かべた。
 司書から、電気を使って風呂をわかす道具を借りた。電熱器のコイルをタテに伸ばしたような道具で、水の中につけて風呂をわかすのだが、入浴可能な状態にするのに六、七時間、あるいはそれ以上かかる。たしか、これをそのまま小型にした湯沸かし器を、ニューヨークの探偵がコーヒーを入れるのに使っている場面を、ハードボイルド小説で読んだ気がする。地震以来、一度も入浴していない父を、風呂に入れてやることができる。いろいろと思いやってくれるまわりの気持ちがありがたい。
 節分。厄払いというのは正式には今日やるらしい。知人の神主に電話をして、どうすればよいか尋ねる。とにかく拝んでおくから、年の数よりひとつ多い豆を、近所の天神さんにそなえ、食べておけとのこと。
 病気のことからなかなか開放されない私と同じで、ひどい被害を受けたものも、簡単にはやすらぐことはできないのだろう。子供たちと豆をまく。神戸の町で、今夜豆をまいている家がどのくらいあるのか。千八百名の生徒の内、死者二名、重傷一名、家屋の全壊四十五軒、全焼五軒、半壊四十七軒、小さな怪我は数知れず。子供たちの豆のまき方はトイレの網戸まではずし、あらゆる場所から、いつもにまして入念である。

95/2/4
 快晴と言うわけではないが、大阪湾を隔てて向こう岸の山の稜線がくっきりと見えるのは、阪神工業地帯の機能が麻痺しているせいだ。こんな景色は一年の内で正月休みくらいのもの。昨夜も長女の激しい寝言。避難所になり、百名が寝泊まりし、その上、石垣が崩れて、ただでさえ狭い運動場の半分が使用不能の小学校は、いつはじまるかわからぬ。卒業式まで授業のない事態も十分あり得る。そして、何よりの心の負担は中学受験。私の勤務先を受験する予定で、ましな成績をとってもらいたいという親の見栄が、きっと娘を強く圧迫しているのだ。わかっている。でも、わかっていても、親というのはバカな存在なのだ。私自身と、私の親とのこれまでの様々な軋轢を思い出す。ちょっと恥ずかしい言葉を使ってたとえれば、走馬燈のように。
 新聞の記事で被災者のメンタルヘルスケアについて、パンフレットが作られているのを知り、養護教諭が電話すると、先方が休みであるにも関わらず、最寄りの駅まで持ってきてくれた。震災以来、京都の姉妹校からはバイクで教師が三度も往復し、つい先日は生徒が集めたという救難物資も大量に運んでくれた。東京の姉妹校からは、いつでも生徒のボランティアの派遣の用意があるとの連絡。遠隔地からの通学で、登校が困難な生徒のための分校を考えたときにも、校舎を貸してくれる申し出をしてくれた学校が複数あった。震災で遺体安置所として新築したばかりの体育館を提供したが、これだけでよかったのか、もし逆の立場なら私たちはどれだけのことができたのか。
 ここでふと、戦争のことや全共闘のことなど、それを武器にして書いている大勢の人たちのことを思い浮かべると、そのひとつひとつの体験について、果たしてどの程度本物であったのかと考えてしまう。私と同じ偶然手にした、ただのカードに過ぎなかったのではないか。史上最悪の震災にしても、私のいるところは、被災地の中で、被災地とは言いかねるような場所であるし、テレビの報道を否定しながら、やはりテレビをながめている時間がかなり長くあったりする。しかし、とにかく、程度に差はあっても、まぎれもなく震度7で、そして神戸に住んでいるのだ。
 子供の学校から連絡。再開のめど立たず。百数十名が県外に疎開中。来週から週2回の家庭訪問学習とか。前途多難。私の学校も、ひたすら再開を目指して準備を進めているが、どのくらいの数の生徒が登校をはじめることができるのだろう。

95/2/5
  同じ被災現場でも感傷的になる場所と、ただ黙って通り過ぎるしかない場所とがある。たとえば三宮は感傷的になる場所で、長田や東灘は、無言でいるよりしかたがない。今日、若い人たちが、息子を失った先輩教師の家を発掘に向かったが、大した成果はなかった。隣の家が倒れかかっていて、素人ではとても手に負えない。二次災害の可能性があるのはわかっていても、少しでも思い出を、そして必需品を掘り出したいのだ。先輩は定年を過ぎて、年金生活に入っている。家を残してやるべき息子がいなくなったのだから、気にしなくてすむようになったとでも思わずにはやってられないと、淡々と語っている。
 避難所にいて、親戚の家に疎開し、再び避難所に戻った知人から電話があった。親戚の家で長く暮らすのは疲れる、避難所の体育館の方がまだ、少しは気分が楽だということだが、いつ普通の生活に戻れるのか。震災以来何度風呂に入ったかと問われ、ヒーターで湧かして入ったのが二度目だと言うと、そばに寄らないでよねと冗談を言われ、かえって同情され、今日は豚汁みたいよと、元気に電話を切ったが、本当のところ、豚汁の味はどうなのか。
 私は勤務先に近い場所にいて、比較的楽に学校へ行けるが、ライフラインというやつは寸断されたまま。「うちの亭主はお風呂好き」と言って、たっぷりとたまった水を流して、湯船を洗いはじめるコマーシャルを見て、長女がもったいないと怒る。遠いところに住む人は、勤務に膨大な時間を要するが、家に戻れば地震発生前となんら変わらぬ日常生活がある。
 生徒の登校の不便を指摘して、もっと安全に登校できるようになってから学校を開くべきだと言う意見もあるが、いつどの時点で安全だと宣言すればよいのか、危険を指摘する人は安全の基準を自ら示すべきだ。便利と不便、安全と危険が、相いれない状態で進行していく毎日。少なくとも私の子供は、一日も早く学校へ行きたがっている。月曜日の担任の家庭訪問を楽しみにしている。日本中がだめになっているわけではなく、この近辺をのぞくすべての場所が普通の生活を送っている。
 瀬戸内寂聴氏が総理府のコマーシャルで、もっとひどい戦災から立ち直ったのだからと言っているが、生徒たちをとりまく危険を、教師としてどう考えればよいのか。危険を危険と怯えるのは、教師としての覚悟が不十分だということになるのか。なにかあれば、安易に再開に踏み切ったと、学校を非難する論調がすぐにも聞こえてきそうだ。
 今夜も家族五人、オイルサーディンの缶詰のように、布団の端を重ね合わせ、狭い部屋にそろって寝る。一家団欒、これだってそうなのだろう。長女が生まれて、夜泣きがうるさくなって、私ひとり別室に寝るようになった。全員がそろって寝たのは、キャンプに出かけたテント、温泉旅館、そして今回の地震だけ。悪いことばかりではない。ちょっとだけ、よいこともまじっている。
 犬のシェリーは1月と7月頃に生理があるのだが、今回はなにもない。まだ三才だから老いたわけでもあるまい。犬の心も傷ついている。外では発情した猫の声。余震の危険、は少しは遠のいてきているのだろうか。

95/2/6
 あちこちの電柱に義援金の配分のお知らせだとか、建物の建て替えの規制区域や撤去に関する注意事項の張り紙が貼られている。日赤を通じて集められた義援金というのは、まちがいなく被災者に、被災の程度に応じて配分されているらしい。ちなみに死亡と全壊、全焼はそれぞれ同じ額で10万円となっている。町を歩くと募金を求める人をたくさん見かけるが、団体名のはっきりしたのと、団体名のない、ただの物乞いみたいなのとが入り交じっている。
 また、余震。震度1というところか。気象庁の発表とほぼ間違いなく震度を計れるようになった。消防と救急車のサイレンの音は、ここしばらく数が減っている。ヘリも減ったが、爆音は始終聞こえている。病院にはまだ大勢のけが人が溢れかえっていて、定期検診の予約がまだできない状態だ。震災後、興奮状態が続いていて、疲労しているにも関わらず、風邪もひかずに持ちこたえている。
 オーパで日常品の買い物をしたあと、前とは別の店で食事。悪い予感が的中し、冷凍食品を電子レンジで解凍しただけのものが、皿にもられて出てきた。私は昼間、勤務先に出かけるが、地震発生からほとんどずっと家にいる妻が、気分転換になにかできるものがほしいと言うので、プラモデルでもなんでもよいから、趣味の品物を探したが、そんな店が開いている訳はなかった。いつも買い物に出かけていた場所の様子を見ようと車を進めたが、大渋滞のため、たどりつけないまま引き返す。崖崩れのあと、倒壊家屋の残骸、倒れた墓地、瓦礫のひとつひとつに人々の生活、歴史、様々な思いが染み着いていると思うと耐え難い。プラモデルを買おうというのは、もっとひどい被災者の気分を逆撫でするようなものかもしれない。
 数珠つなぎの車の両側からバイク、ミニバイク、自転車が我がもの顔ですり抜けてくる。中には三人乗りのミニバイクまであり、一歩通行逆行、歩道の走行、信号を見ずにふらふらと飛び出してくる歩行者もあって、危険きわまりない。警視庁のヘルメットをかぶった警官も愛知県警も、管轄外だからなのか、誰も注意をしない。給水車があちこちにいるということは、水道がまだ復旧していない地域がかなりあるということだ。ガスは今月中、まず無理であるらしい。
 家の周囲を歩くと、門に黄色や緑の紙が貼ってある。緑は損壊箇所の少ない安全な建物で、これからも居住可能を意味し、黄色は立ち入りを控えるように忠告する紙きれだ。緑、黄色とくれば赤もあるのだろうが、そんなところへは近づけない。
 東京の叔母から、熱帯魚のヒーターが小包で届いた。母が風呂を沸かすのに使うつもりなのだ。あの世代で同じことを考える人はほかにもいるのか、昨夜の新聞に庶民の知恵と老人の工夫が紹介してあり、今朝の朝刊には感電の恐れがあるからやるなと忠告してある。  母にそのことを言っても、中につけたまま湯につかるわけではない。感電するなら熱帯魚はみんな死ぬではないかと、とりあわない。携帯用コンロのボンベを6本空にして、少しずつ湯を沸かし続けて、ようやく入浴した人の話も聞く。垂水に住む同僚は、ホットプレートをたらいに沈めて行水したらしいが、無茶をするものだ。熱帯魚のヒーターの方が数段まし。風呂に入れば、確かに疲れはとれる。しかし、・・・。

95/2/7
 今日で三週間が終わり、四週間目に突入する。昨日の二回目の登校日は、前回よりも登校してきた生徒の数が減った。交通事情の好転した地域もあるが、逆に町に出る人が増えて、移動が困難になった地域もある。西宮北口のバス停で3時間待ちと言われて、あきらめて帰った生徒も数多い。あちこちの学校が授業を再開しようとすると、どうしてもこうなるのだ。
 ストレスがたまっていて、しゃべりまくる生徒もいる。無表情に黙り込む生徒もいる。片道四時間かけて登校し、二時間だけ学校にいて、そして再び四時間かけて家に帰っていく。様々な、利用可能な交通機関を乗り継いでくるため、片道二千円もかかると不満を述べる生徒もいる。私たちはただ、黙って話を聞いてやるほかにないのか。  姫路のさらにもうひとつ向こうの町まで疎開して、学校のない間、そこから市内の避難所にボランティアに通っていく生徒もいる。じっと手をこまねいてはいられないのだ。ボランティア不在の国と思われた日本に、ボランティアが満ちあふれている。すごい。
 JR神戸駅から三宮まで歩く途中のセンター街は、まるで西部開拓時代のゴーストタウン。並んでいる閉店中の店の様子が、治療中の歯のよう。虫歯やら抜歯のあとやら、まともな場所はほとんどない。歩くのが許されている場所が少なく、歩道橋の上の人の群を見ると、よく底が抜けて落ちないものだと感心する。
 昼食はカップラーメン。震災以来、毎日、昼はラーメンを食い続けている。手術のあと、発ガン物質を避けて、無農薬添加物なしの自然食品を求めて暮らしてきたが、健康よりもまず空腹を満たすのが先決。悲しいことに、健康を考えるのは、かなり贅沢なこと。山の向こうから通ってくる同僚が品物を手に入れてきてくれる。あとは米を炊いて、缶詰。みんな親切。
 全員ではないが、多くの者が、ようやくマニュアルのないところで、どのように行動すべきか、少しずつ学びはじめている。知識の量よりも発想の質、そして行動力。職場には、これまでと種類の違う活気が戻ってきた。生徒が来る前と帰ってから、本箱作りの続きをして、図書館に運び込む。今日は三人の司書がすべて出勤している。そのうち一人は自宅が半壊、あとの一人はまわりが焼け野原。母親が関東大震災を体験し、今度三十八時間生き埋めになって救出されたと前に書いた人。壊れたものばかり見て暮らしてるから、新しくできたものを見ると、うれしくて涙がでそうになるとのこと。素直に感激してくれた。  昨夜犬を連れて散歩していると、倒れている年輩の人がいる。最初は無視して通り過ぎようとしたが、そういうわけにもいかず、戻ってきて声をかえると、うるさいと手で払いのけられる。男は額を地面につけて、何かを遥拝する姿勢。額には血糊のついた傷があり、ここにはまだ人が埋まっているとうめいていた。夜中、道路のまんなかにじっと立ってラジオを聞いている老人の姿がある。大勢が病んでいる。
 行動派を自認する小説家が、地震発生直後、被災地のトイレの不足を見て「私たち野外生活に慣れたものなら、穴を掘り、まわりを囲ってトイレにするが、都会生活に慣れきったものにはその知恵がない」というようなことを言っていたが、数千人の被災者が日に一度、糞をするとして、それをためておける穴を掘る場所がどこにあるというのか。嘘と思うなら、パンツを脱いで、けつまで届きそうなほど、てんこ盛りのうんこの山にまたがって見よ。
 ガスはもちろん、まだ水のない地域があり、一度も風呂に入っていないものが大勢いる。がまん以外のどんな知恵があるというのか。遊びのアウトドアと震災は違う。戻る場所のある冒険も、危険を高い金を出して買っているだけ、やっぱり遊びの一種に過ぎない。寒さはこたえるだろうが、寒さ故に食物も水もくさらず、厄介な疫病が流行らないのも事実。
 午前中、子供の学校の先生がプリントを持ってやってきた。危険カ所が多すぎるのと避難民がいるのと両方で、学校をはじめられない。卒業式はなんとかするとのことだが、小学校の教師も大変。校区が決まっているとは言え、一軒一軒歩いてまわるとなると、並大抵のことではない。長女の担任は家が壊れて板宿の実家に疎開中、次女の担任は西宮から通勤、三女の担任は姫路からの通勤、しかも震災前に骨折をして松葉杖。地域の違う甥の学校では、すでに半日の授業がはじまっているが、四月からも通常の授業ができないとのこと。公立は平等でなければいけないというのがその理由だが、悪しき平等主義はこの際やめにしたらよい。
 今夜もパジャマに着替えることなく、布団の端を重ね合わせ、家族五人そろって寝る。子供たちはパステルを持ち出し、それぞれの姿をデッサンするのを遊びにしている。狭い部屋の中での遊び。最初の二週間、毎晩していたトランプに飽きたのだ。

95/2/8  凍てつく寒さが続くが、天気は晴れ。雨が降らないだけまし。神戸は活断層だらけだと、今回はじめてわかったが、活断層の図に、水害の図を重ね合わせれば、白紙のところはどこにもなくなる。余震がこのままなくても、夏が恐い。雨はしばらくふらないでもらいたい。
 じっしーん、じっしーん、じしじしじしーん、こんな音だった、地震と言う言葉の由来がわかった、というのはある生徒が書いた、まじめだかふまじめだかわからぬ作文の書き出し。擬音だらけの稚拙な文章だが、同じ体験をした者にはよくわかる。どの作文にもとまどいと恐怖の様が、生々しく描き出されている。いつも寝ていた場所に落下物があり、たまたま別のところにいて助かったとか、紙一重の話がいっぱい。
 学校再開を目指す会議。学年からの報告。登校日、二時に下校して、家に帰りついたのは九時という生徒もあり、学校はわかっていてこんな無茶な登校をさせるのかと苦情の電話もあった。予想もつかぬことが次々に起こり、うまく対応できない。反発はあっても、学校ははじめなければならないのだろう、やっぱり。
 遠隔地生徒のための臨時教室も合わせて検討。避難所に行き、生徒の悲惨を訴える担任もいるが、悲惨を引き受けて、すべてのめんどうをみるわけにはいかない。できることをするということと、感傷とがいっしょくたになってはいけない。
 阪神、故障車両を運搬中に脱線、終日混乱。不謹慎だが、ここ数年の阪神タイガースのだらしなさをつい思い出してしまい、今年も最下位が決まりやな、とファン同志顔を見合わせる。それから、阪急電車のこと。損傷は確かにひどいが、JRに比べて復旧があまりにも遅い。JRの方が保線作業員が多いのだろう。当初、二年近く復旧にかかると発表した阪急電車は、地元の被災者に与えた精神的ショックを思えば、A級戦犯。公共機関というなら、JR、阪神、阪急、企業の壁を越えて全力を挙げて復旧すべきだ。復旧見込みは8月に修正されたが、それでもまだ遅い。阪急がストの場合、休校という規則がある地域の学校としては、どうにもならないじゃないか。
 全壊家屋から脱出してきた同僚、胃の痛みを訴えて、病院へ行く。気持ちが張りつめ、がんばってきたが、そろそろ限界が近づいている。垂水から来た女性教師がわたりカニを買ってくる。こんなときにこんなものをと思いながらも、いつものカップラーメンとともに、昼食時にゆでて食う。ボンベでの調理は時間がかかる。でも、美味。俳句をたしなむ彼女の、のんきを喜ぶ。彼女は数年前、脳に出血し、死の直前から生還した。緊急時ののんきは、極限を味わったものだけに許される。
 学校に避難中の家族、仮設住宅の抽選にはずれた様子。両親に3姉妹、そして祖父母。まもなく授業がはじまるというのに、住む家がない。出ていけとも言えない。また、ある家族、家が全壊、父親の店もやられ、生活のめどが立たない。ようやく明石にアパートは見つけたが、子供三人を私学に通わせられない。弟二人を公立に転校させ、長女一人が私の勤務先に登校を続ける。ぼく、がまんするからお姉ちゃんが続けてと言ったのか、男だからおまえががまんしろと諭されたのか。どういう相談がなされたのか、考えるのもつらい。
 大陸からの引き揚げ船が魚雷攻撃を受け、三人の子供の内ひとりしか救えない、そこで目をつむり、長男を抱いて飛び込んだが、結局は全員助かった。悲しい選択を迫られ、悲しい選択をした瞬間のことを、一生後悔を続けた人の話を、子供の頃行きつけだった歯医者さんに聞いたことを、ふと思い出した。
 今日は次女三女の担任が、家庭訪問に来た。次女の担任はその場で前日配布のプリントの答あわせをしていく。質問あれへんか、ここ覚えたか、妹も教えたろか。子供にはそのやりとりがなによりうれしい。ミニバイクで通勤していたが盗まれたために、西宮から自転車だとか。ここは坂の町、神戸、六甲山のふもと、国道二号線から延々と上り坂。子供たちは外へも遊びに行けず、家事を手伝ったり、課題のプリントをしたり、妻の姉の家族が私に刺激され、モデムを買って通信をはじめたので、朝からワープロに向かって、電子メールを書いていたりする。
 妻は、ちょうど回復期の病人が病院で退屈しはじめるような精神状態にあるのか、少し苛立ってきている。テーブルを縦にしたり横にしたり、隅に寄せたり、狭い部屋の模様替えを毎日繰り返すのが、数少ない気晴らし。
 山の向こうに住む友人に頼んでおいたコーキング材が届く。プラモデルの替わりにはならないが、明日から破損個所の修理をはじめる。子供たちは水道がではじめても、まだ小便を流すのをためらっている。長女はトイレのタンクに水をためる栓をしめてしまった。もったいないという気持ちも、ある意味で後遺症なのだ。

95/2/9
 大阪から登校してきた生徒と、神戸、芦屋、西宮から登校してきた生徒では、距離にしてわずかなのに、かなりのギャップがある。大阪からの生徒は、同じクラスに家をなくしたものがいたり、いまだに水が出ず、風呂に入れなかったりする状況があるのを、理解できない。想像力の欠如だと言ってしまえばそれでおしまいだが、マスメディアがいくらがんばってみたところで、リアリティにはそれだけの違いがある。
 もしかしたら湾岸戦争というのも、テレビ網のさほど発達していないイラクの人たちと、テレビ網の発達した日本の私たちと、腕をミサイルで吹き飛ばされるようなことがない限り、どちらに本当のリアリティがあったか、一概には言えないかも知れない。自衛隊のヘリが飛び交うのを窓から見ながら、火柱があがっているのを窓から見ながら、サイレンの音を窓の外に聞きながら、テレビのニュースを見て、ああ、やっぱりあそこだと確認していたのだから。
 これもまた先日の生徒の作文から。火事にあった生徒は、わけがわからず、美しいと思いながら見ていたとか、とっさに放火だと叫び、こんな時に放火をする人がいますかいなと母親にたしなめられたり。
 悲惨の中に様々な戸惑いが散在している。今度の震災で一番悲しいことは、おとうさんの仕事がなくなったことですと書いている生徒が何人もいる。家をなくすよりも、さらにつらいことだ。とりあえず生きていたことを喜ぼうと言ってみるが、単純に生きていたことを喜べるのか、生徒の前で言ってしまったあとで、後悔する気持ちが起こる。
 ホットプレートで風呂に入った人の話の続報。ホットプレートで湯を沸かすのではなく、ホットプレートをそのままたらいにつけたとか。そしてたらいでは不満になり、ごみ用の大型ポリぺールを買ってきて、同じ方法で湯をわかし、さて入ろうとすると、手足がじゃまになって入れなかったとか。足の部分をくり貫いてやるから、ロボットみたいに入れと提案するものもあった。緊急時には実にユニークな知恵が働くものだ。
 散歩に出かけると、倒れかけていたブロック塀が倒れ、落ちかけていた壁が落ちて、あちこちの家の中がむき出しになっている。小学校の石垣は崩れ、運動場が三分の一ほどえぐりとられたまま。

95/2/10
 今日はこれまでの登校日に登校できなかった生徒のための臨時教室を、尼崎市と神戸市西区、東西二カ所の学校を借りて実施。姉妹校関係にあるわけでもないのに、教室を提供してくれた学校には感謝。本校勤務の困難な、遠距離通勤の教師を中心に出張していった。  会議はできない。申し訳ないが学校を早々に退散し、妻子の手の届かぬ高さの家の補修をし、それから元町に出かける。家族は軟禁生活に家族が疲れ切っている。神戸の実状を子供に見せておくのも、親としての義務かもしれない。
 加納町三丁目でバスを降り、陸橋を渡り西へ向かう。ビル、家屋、店舗の倒壊はなはだしく、遊園地の不思議の館にいるようで、何が水平で何が垂直か、さっぱり見当がつかぬほど。帽子をかぶりマスクをつけているのは、インフルエンザのためではなく、ビルの撤去の際に生じる土埃、アスベストをふせぐためのもの。
 西村珈琲は閉店、ダニーボーイはあとかたもない。無事にあったと思った建物も、よく見れば途中の階が押しつぶされ、使いものにならず、いつになれば町は元に戻るのか。利用したわけではなく、模擬試験を受けに予備校へ行くとき、前を通り、あらぬ妄想を刺激されただけの、へしゃげたラブホテルにまで哀愁が立ちこめている。立ち入り禁止区域と迂回を指示する看板だらけで、どこを歩いてよいのかわからない。交通機関の渋滞もすさまじく、東京のラッシュ時の通勤電車、あれに乗り込むのに何時間も行列していると考えてもらえばさしつかえない。
 元町方面、南京町あたりの被害はまだ少なく、多数の屋台が出て、不謹慎だが、祭の出店のよう。被災地ルックと我々が呼ぶ服装で、中華ちまきをかじり、ラーメンをすすっている。子供と妻は豚マン、私は中華丼に空揚げを食う。
 一見、のんきに見える光景だが、被災して、わずかなたくわえが空になり、やがて悲鳴を上げる人の数、数え切れぬほどであるはず。神戸名物、瓦せんべい、われせんとして安く売っているが、日本式瓦屋根、ほとんど全滅状態の中で、悪い冗談にしか思えない。海文堂書店で大江健三郎の「あいまいな日本の私」と河合隼雄の「日本人とアイデンティティ」を買うが、読む気がするのはいつになるのか。あいかわらずフィクションに手を伸ばす気持ちにならない。こんな時に「日本」の表題のついた本をなぜ買ったのか。
 元町商店街を出たところで、反核グループが署名と募金をつのっていた。軍事費を削らねば、神戸再興の予算も組めないと言う論旨の演説をしているが、どこか虚しい響き。核の反対には同意するが、署名と募金を求めるのに、もっとふさわしい場所があるだろう。自衛隊を擁護する改憲論者ではもちろんないが、神戸の町中に自衛隊が災害出動をしているのは確かで、倒壊家屋の撤去の労働力として、大勢があてにしているのだ。街頭宣伝車で緊急物資を配る右翼もいて、被災地詣での国会議員も含め、右も左も、政治の臭いのするものは、みんなうさんくさい。
 そこら中にいるカメラをかまえた人の正体は、何であるのか。思い出の残滓をとらえているのか、単なる好奇心なのか、それとも職業カメラマンなのか、神戸に住む人が、消えかけている神戸を記憶に残そうとするのは、少しわかる。建物に向けても、人には向けるな。私は、おまえの思い出の、一点景なんかではないのだ。
 朝日会館の前を通り、ビルのすきまをすり抜け、阪神前バス停のそばで鯛焼きを買い、バス待ちの行列に加わり、長い待ち時間の後、やっと乗り込む。阪急三宮駅ビルは、取り壊しがさらに進み、JR三宮駅中央口の前の空中に、クレーンで吊り上げられた阪急電車が浮かんでいる。
 被災のひどい地域から出勤して、勤務先の周りがなんでもないのに愕然としたと、管理職員の人が言っていたが、タンクに水をくみ、あたりの家の連絡場所として働き詰めに働かねば、一軒だけ残った自分の家が放火されそうな恐怖があるというのが、バスに乗りながら景色が次第に普通に戻ってくるのを眺めていると、よくわかる。
 目的地に近づくが、後ろ乗り、前降りのワンマンカーの出口にたどりつけず、入り口から降り、外を通って、運転手に回数券を渡す。こないだは気がつかなかったが、危険を知らせる黄色い張り紙にまじって、立入禁止を知らせる赤い紙の貼られた家が増えている。  帰宅。お茶をわかし、鯛焼きを食ったが、しっぽにはあんこが詰まっているのいないのと妻と子の会話。自分たちの身の安全は、素直に喜んでもよいのだろう。今夜もまだパジャマには着替えられそうにない。

95/2/11
 福知山線経由で通勤している同僚の話。大きな荷物を抱えた若者達、次々に乗り込んできて、車内の一角を占拠。大声で騒ぎ立てる。彼らの持っている荷物はスキー板とキャスター付きのバッグ。スキー客相手に生活をしている人がいて、こんなさなかに平気で遊びに出かける学生が必要なのは確かだが、ボランティアでかけずりまわっている者たちと大違い。
 学校で避難生活をしている生徒、鞄をぶら下げてどこかへ行こうとしている。どこへ行くのかと問えば、避難所めぐり。緊急物資を調達してくるらしい。父親には、今仕事がなく、それもしかたがない。
 昨日、家が押しつぶされた同僚のところに、管理職員全員と若者数人で道具をそろえて発掘に出かけ、タンス貯金の空き缶入り現金百万円が出てきた。今度見つけたアパートの敷金、そして家具調達の資金。よかった。ほかに出てきた物、陳舜臣、中国の歴史の一部と、宮沢賢治全集の前半部分、それに電気釜と電話機、舞踊の舞台衣装。プッシュホンは何度かボタンを押すうちに、砂がかんでだめになった。
 震災以来、彼女はことさら陽気にふるまっているが、自らも生き埋めになり、危機一髪で脱出、まだ生き埋めの隣人の救出の手助け、みんな土気色の顔をしており、すでに死んでいる人も多数あって、死体になれちゃった、と最後にぽつんとつぶやき、差し入れのケーキをほおばる。そんな深刻な言葉さえ、笑顔で出てきてしまうのはどういうわけだ。  水道設備のある美術教官室で、カセットコンロを使い、湯を沸かし、毎日、ラーメンを食っているが、あの日から延々と「祭」を続けているような、ハイな状態を保っている。本当につらくなるのは「祭」が終わったあとだろう。
 震災後、登校できずにいる生徒の一人、新聞の写真で見る。芦屋市役所に避難して、ダンボール箱を机に勉強している。二月一日が最初の受験と記事にあったが、どうなったのか。町で見かける人に、くわえ煙草の人が増えた気がするが、気のせいか。ぼんやりと待つことが多く、苛立ちをまぎらわせているのか。まわりがほとんど燃えた宮前市場、笠置シズ子の歌を流す者がいて、敗戦直後と似た光景というしゃれのつもりなのか、妙に辺りの景色にはまっている。
 子供たちの担任、毎日来てくれている。小学校再開のめどは全くたたない。家庭訪問は、ある意味で自発的な善意なのだろう。義務の部分は一日おきであるらしい。行政は善意におんぶして、なにもできない。自衛隊にしても、昔で言う工兵隊みたいなのがあるんじゃないのか。今必要なのは大型工作機械を持った工兵隊で、水を運んで蛇口をひねる人たちではない。臨機応変にどんどんと必要な人材と機材を投入しろよ。今日もヘリコプターが飛んでいるが、何をしているのか。
 三月十九日に結婚式を挙げるんですけど、こんなときになにかと思ったんですが、きていただけますか、と卒業生からの遠慮がちな電話。震災は君のせいではあるまい、挨拶をしなくてよいのならと、電話を切る。そのころまでにガスは出るようになっているだろうか。風呂は入れるだろうか。

95/2/12
 見るとはなしに、温泉とグルメの旅の番組を見ている。見たいわけではなく、ニュースとニュースの合間にはさまってあるのだ。最初は腹が立ち、どなりつけたい気分だった。毎日の水くみに飽きた頃になると、温泉での上げ膳据え膳がうらやましく、行ってみたいと思ったが、今はどこに行っても、そこで地震に出合いそうな気がして、神戸にいるのが一番よいと考えてしまうのも、震災の後遺症だろう。
 まだ寝間着に着替えられないし、それぞれの部屋に別れて眠ることもでいない。中国人の家族が何世帯か入居していた、わが家の斜め前のアパートに、危険であるのを示す黄色い紙が貼られてから、どこかに移動して、だれもいなくなってしまった。
 今日は西区の兄のマンションに入浴のために出かける。家具が全部倒れ、壁にひび、畳に穴が開き、中は惨憺たる状況であるが、水が出て、ガスが出て、風呂をわかすことができるのだ。大阪まで出勤するのに少しだけ便利なために、隣の両親の家にいる兄と、一緒に出かけた。今度の震災で被害にあった家の修復の見積もりの話が、あちこちから聞こえてくる。半壊どころか、部分壊の認定のところでさえ、九百万円かかると言われたと嘆いている。兄のところはマンションで、管理組合で何度も話をするが、いっこうにまとまらないらしい。神戸に本社のある鉄鋼会社勤務の人、給料四割減。それでももらえるだけましで、仕事を失った人、奥さんは内職、ご主人は大型免許取得に出かけている。マンションを建てたのはH工務店、点検して安全だと宣言したが、H工務店に勤める人がそそくさと引っ越していったのが、ちょっと不気味なのよと義姉。昼食はチャーハン。奥にしまい込んでいた子供が小さい頃の食器だけが無事で、動物の模様が入っている。
 いつもながら、山ひとつ越えると同じ震災を受けたところとは思えない、ごく普通の日常生活がはじまっている。スキー用上着に毛糸の帽子、防塵マスクに運動靴という被災地ルックの人はいない。営業中のスーパーで、売場に電気製品が並んでいるのを見るのは震災以来はじめて。
 地震に襲われた神戸全体を病院にたとえれば、東灘、灘、長田の辺りは、ガンなどの深刻な患者の病棟、北区、西区は同じ「できもの」でも、いぼ痔かなにか。その心は、つらいのは「うんちん」。確かにサラリーマンは家は無事でも、いつもと違った通勤経路を強いられ、その費用はばかにならない。

95/2/13
 一昨日は建国記念日で、昨日は日曜日。被災地見物と被災民のためのバーゲン目当ての客で町がにぎわっていたとか。最近の食事。ほとんどが割れてしまったために食器の数が減り、熱源が少なく、水で洗うというのがひどく冷たい、ついたくさんの器を使うのが億劫になり、結果的に一汁一菜になっている。そして、しばしば汁は省かれる。外に仕事に出る私をのぞく家族は、子供は学校もはじまらないし、近所の友達はみんな疎開中で(家屋の損傷よりも、父親の出勤経路の確保のためが多い)、妻も家にいる。従って、腹が減らない。
 震災以来、神戸を覆っている妙なお祭り気分というのは、もしかしたら震災で様々なものが破壊され、所有のむなしさを一時的にも共有しているからではないのだろうか。祭の終わりはおそらく、所有欲の復活と共に訪れるのだ。阪神地区だけが、このまま所有欲空白地域になってしまうとは、とても考えられない。
 緊急時に強い者と、緊急時になにもできないものとの二種類の人がいる。組織の上層にいる人たちほど、臨機応変の対応ができず、この期に及んで、どの部署の管轄だからと停滞させ、配布する文章のモンゴンの確認と修正にこだわった。これは政府の話ではなく、もっと身近なレベルでのこと。
 被災地と被災地外の人とでは、災害の状況や備えの必要性を説いたところで、健康な者に煙草の害を訴えるくらいの力しかないこと、さらに被災地においても、病院に入院していながら、なおも隠れて煙草を吸い続ける人がいること、どうしようもない。腹を立てている訳ではない、昨日までの自分がそうだったのだ。
 壊れた家のすべてが当てはまるわけではないが、基準通りの施工をしていたからだと、倒壊しなかった家屋を建築した会社の人たちが言っていたのは印象的。ということはいかに手抜きの工事が横行していたかの証じゃないのか。
 それからパソコン通信。かつてはどこにでもあった地域のコミュニティがなくなったかわりに、似非コミュニティーを、交際費を使いながら仕事のあとも酒を飲み、職場に作っていた。これを地縁に対して職縁と呼ぶと元通産官僚の作家が書いていた。パソ通ではネットワークという架空都市の中で、同好の士が寄り集まってくる。しかもそれは、パソコンという機械が好きというハード面での同好ではなく、パソコンを使って何かをしたがっている、ソフト面での同好の士なのだ。水をくみながら、今まで話したことのない隣人と挨拶をかわし、必要な情報の交換をし合うというのと同じようなことが、ネットワーク上にできあがった。互いに名前を名乗っても、その人の日常や仕事を詮索することがない。道を歩いていて、さほど親しくなかった近所の人が、食べ物が手に入りました、こんな時ですからどうぞと、おすそわけしてくれるのが自然であったように、道路情報、銭湯の情報、行方不明者の情報、ボランティアの情報を、全国各地から無償で提供し合っている。中央集権と正反対の、地方分権、もっといえばパソコンを所有する市民の一人一人が、自分で判断し、行動している。これはすごいことだ。
 所有欲がなくなり、結果として取り戻したコミュニティーとしての意識が永続的でないように、パソコン通信だって未来永劫バラ色であるわけはない。架空空間には、やがて現実空間にある問題のすべてが起こるだろうし、阪神大震災のようなことだって、発生しかねない。しかし、少なくとも、震災発生から今日まで、少なくとも私自身が、実生活でも架空空間でも、かつて味わったことのないことを経験しているのは間違いない。
 朝から一日、のんきに評論家みたいなことを考えていたところへ、夕方、避難所にいる知人が訪ねてきた。何の前触れもない訪問だが、震災以来の着の身着のまま、掃除がしていなくても気にならない。珍客はかえって気晴らしになる。
 ところで彼女、両親と三人で市立商業高校体育館に畳三畳のスペースをもらい、暮らしている。両親の家はだめだが、彼女の借りていたマンションを片づければどうにか住めないことはない。しかし、母親が恐がって戻りたがらないとか。毛布と懐炉、それに最近湯たんぽをもらったので、夜炊き出しのボランティアにお湯をもらって少し楽になった。
 彼女の同級生、家族が生き埋めになり、救出を求めて自衛隊にかけ合う。よっしゃ、まかしとけと威勢良く自衛隊は来たが、そこは管轄外だからと目の前の瓦礫の下から声が聞こえているのに、何もせずに引き返す。みごとなシビリアンコントロールと言うべきか。今度はレスキューに頼む。そしたら人手がない、自衛隊に頼んでくれとのこと。再び自衛隊に。隊員達、スコップとつるはしを持っていながら、コンクリートだから無理とのことで、ぶらぶらしてなにもしない。
 しかたなく、またもや消防本部に行き、レスキューの隊長に何度も頼むがだめ。あきらめきれず、日に何度も通ううちに、また、このにいちゃんか、うるさいからどっかやっといてくれ、と部下に命令、力づくで追い出される。
 最後はテレビ局が頼りと、大きな張り紙に六人が生き埋めになっています、助けて下さいとマジックで書いてあちこちに張り紙して訴え、カメラに映ることに成功、無視できなくなったレスキューがようやく出動。捜索現場を映すカメラの前で、彼を追いだした隊長の実名を出し、事実を伝えたが、放映ではその場面はカットされていた。
 亭主が警官の友人、彼の母親が生き埋めになったが、警察のコネも通じず、掘り出されたのは三日後、すでに亡くなっていた。それぞれにそれぞれの立場があって、言い分もあるだろう。事実は薮の中。
 私の勤務先の卒業生でもある彼女に、君は地震の時、どうしていたのかと問うと、布団をかぶり、神様、なにもいりません、なにもいりませんから助けて下さいとつぶやいていた。ようやく起きあがり、窓から見たまわりの景色の変わりようと、降り注ぐ火の粉に恐ろしくなり、地震で揺れ、ガレージの壁にぶつかり、ぼこぼこにへこんだアウディーで、両親の家にかけつけ、家具の下敷きになった母親を助け出し、そのまま体育館に避難。直後のトイレには困り、頼みのプールもひび割れて水が少なく、空になったプールの次は学校の池の水をくみ、最後の方は鯉が干上がっていたとか。
 寝たきりの老人を抱えた家族、夜中に三人がかりで、トイレに運ぶ。一人は寝ている人にすいませんすいませんと、道を開けてもらう役、一人は背中におぶり、あとの一人は後ろから支える役。猛烈な臭気の立ちこめる和式トイレ、足腰の立たない老人がどうやって用を足したのか。
 彼女、あくまでも明るく、このまま結婚もせずにこのまま死ぬのかと思ったけどね、と冗談めかして言う。ボランティアにいい人はいなかったのか。みんな、いい人ばっかり、すごい働きぶりだった。そういうことじゃなくて、ロマンスの相手として。残念ながら、わたしには若過ぎる人かおばちゃんが多かった。自衛隊は。これも若いかおじちゃんで、ちょうどいいのはいなかった、自衛隊の悪口ばっかり言ったけど、自衛隊の炊き出しはおいしかった、よくしてくれた、でも、昨日で終わりなの。明日からはどうするんや。役所は食料は十分に行き渡ったと判断したらしいわ、でも、煮炊きする場所がない、どうすればいいのか、別のボランティアの人が来てくれるらしいが・・・。
 税金で養われている方々は、一年中被災地にいるわけにはいかない、我々には任務がある、非常時のための訓練を怠るわけにはいかないと新聞には書いてあったが、これ以上の非常時を思い浮かべるのはちょっと難しい。
 学校の授業が再開される。阪急御影、王子公園間の折り返し運転がはじまる。午前十時五十分登校の三時間授業、二時下校。交通網の寸断が一番ひどい地域にあるのだからしかたがない。はじめの一歩、そんな遊びがあった。本当にはじめの一歩。二歩目のめどは全く立っていない。

95/2/14
 昨日、最初の授業、多いクラスでは遠隔地に避難中の生徒をのぞき、ほとんどみんなが出席した。まだ、遅出、早帰りの三時間授業だが、教師としてやはり普通に授業ができるのが一番うれしい。地震を話題にすると、涙を流す生徒もいる。言葉に気をつけなければならない。
 放課後、阪神青木近くの車検工場まで車を持っていき、友人の美術教師と帰り、辺りを歩いてみたが、まことにすさまじいかぎり。完全に倒壊した家屋の横にびくともしない家が残っていて、何が明暗をわけたのか。もちろん倒れるべくして倒れた古い家屋もあるが、なぜ倒れたのか首をひねりたくなるものもある。
 どう見ても住めそうにない、傾いた家屋の屋根にブルーのビニールシートがかけてあるのは、行く場所がなくてなおも住もうとしているのか、わずかな家財を濡らさぬためか、妙に切ない。少なくとも神戸市内からは文化住宅という名前が消滅してしまったのではないかと思うほど、見事に二階建てが一階の高さに押しつぶされている。
 瓦礫と化した建物と建物の狭い隙間、小便しないで下さい、唯一の生活路ですの看板、良縁紹介します仲人協会のいやに新しい看板並んでいて、不思議な気分。途中、緊急物資のあまりの牛乳無料で配る人がいる。建物の無事な学校という学校、すべて明かりがともっている。避難所になっているのだろう。狭い公園にはテントがはってあり、広い場所には工事中の仮設住宅が並ぶ。
 とんでもない光景であるはずなのに、どこかで見たことがあると思いながら、ながめている、昨日のニュースなのか、もっと以前、CNNでの戦場の場面なのか、リアルの正体がどんどん不鮮明になってくる。斜めに傾いた店舗の前でたこやきを売っており、これは一日も早く店を建て直すための生活のはじまり。その合間の露天で携帯電話を売っているのは、非常時のせいなのか、ただの商魂なのか。
 阪神青木から阪神御影まで、徒歩で阪急御影に向かう。途中のJRの高架、ジャッキアップして、鉄の塊を積み上げ、車の通路を確保している。そのまま鉄道を走らせるつもりかどうか、壊れたおもちゃを不器用な子供が、ありあわせの積み木か何かで補修をしたみたい。高速道路にしろ、鉄道の高架線にしろ、本当に手抜きではなく震度七のせいなのか、精緻に点検してもらいたい。すべてを震災のせいにされてしまうのは、納得できない。くずれたコンクリートの壁の中から、空き缶が出てきたりすると、どうもゼネコンが信用できないのだ。
 今度こそ震度七に耐える構造の建物をと、行政もマスコミもこぞって言っているが、震度八が来たらどうするのか。震度五にそなえて七で壊れてしまったのが、今回の地震でなかったのか。町づくりの違う発想、思い浮かばないものなのか。より頑丈なものを作るより、よりひよわになって、鳥みたいにふわふわ飛ぶのがいいのではないか、下水の普及率を競うより、井戸水にプロパン、家庭用の浄化槽で水を流す生活がいいのではないか。今度感じたこと、所有のむなしさから派生する自由。六十、七十年に巷に氾濫したアンチとしての自由ではなく、使い古された言葉でありながら、誰も実体をつかんだことのない自由という言葉を一番大切に感じた。アンチを代表していた方が、時の総理でもあるのは、なんだか象徴的。
 阪急御影駅ホームにはテレビカメラとアナウンサー、何度もカメラテストを繰り返している。今日から御影、王子公園間が開通した、そのことを伝えようとしていること、見なくても分かる。テレビ局、横並びのばかな報道をやめて、一時間でよいから、カメラをかまえて町にでて、無編集で映像を垂れ流しにすればよい。マイクを向けられれば、地震が起こってから、毎日毎日が楽しくて楽しくてしかたありません、とわけもなくにやにや笑って叫んでみたい。
 あっ、また余震。震度1くらい。地震の起こった日は満月で、明日も満月だから危ないと言う噂がある。正確な月例がそうなのかわからないが、今日の日記はひとまずここまで。


またまた神戸からの報告におすすみください。