あれから五百日過ぎたそうですが、神戸からの報告


96/5/16
 今日も新しい空き地を見つけた。被害などなにもなかったのではないかと思った家のまわりが、次々に更地になっていく。

 これが長田なのか。
 これが長田の町なのかこれが。
 これはいつか見たまちではないか。
 一度見て見捨てたまちではないのか。

(あれからわたしたちは
 なにをしてきたのか。
 信じたものはなにか。
 なにをわたしたちはつくりだそうとしてきたのか。)

 職場の先輩であり、文学上のよき導き手である安水稔和氏の神戸 五十年目の戦争よりの抜粋。

 わが神戸
 高架線からの夜は
 「明治」の暗さだ

 屋根々々の下
 いぢらしく
 人間が睡っているといふ

 神戸モダニズムの詩人竹中郁の「動物磁気」より。竹中氏とは話をしたことがある。小柄で痩躯、白髪、神戸弁。父の書斎に竹中氏の手書きの「動物磁気」がある。結婚祝いにもらったものらしい。
 かつて青谷に住んでいたとき、竹中氏は家に入ってくるなり「この家は葬式するには高の家やな。ここに棺をおいて、ここを受け付けにして、ここが控え室や」と、築後340年は過ぎていたが、父がようやく手に入れた家を、そんなふうにほめた。
 その家を売却し、現在の家を建てたときにも、父は竹中氏の言葉を念頭におき、絵を描く母のためのミニギャラリーを兼ねた空間を、玄関を入ってすぐのところにつくった。
 父はその家に、7年間、伏している。地震の時も伏していて、今も伏している。車椅子で部屋の中を移動することがあっても外に出ることはない。父は壊れた三宮や、焼けた長田はテレビで見て知っているが、次々と更地になっていく高尾通のことは知らない。これからもずっと知らない。

96/5/18 一年前に何をしていたのか、ファイルメーカーで作った日記を見てみる。日記をつける習慣などなかったが、神戸からの報告を書くようになって、ためしにつけてみたのだ。

 一年前の二日前、豪雨で休校になっている。水害を本気で心配している。

 一年前の昨日、会議で試験の開始時刻をどうするかもめている。まだ阪急が全面開通しておらず、変則的な時間が続いていた。

 一年前の今日、震災から4カ月後の「そごう」百貨店をカメラで写したとある。そごうが、一種のシンボル的建物でもあったのだ。

 一年前の昨日は17日で、あれから何カ月という震災の小記念日でもあったが、一年を過ぎると、記念日が月単位から半年、あるいは一年単位になっていくようだ。

 一年前の明日、同人誌が届き、私の横書きの神戸からの報告をぼろくそにけなされたとある。一年前の3月に掲載したものの東京での例会記がでていたのだ。曰く、聞きあきた、曰く、もう地震はたくさん等々。

 わずか10数秒で日常性が失われたが、日常性を取り戻すのもまた早い(一年が長いか短いかは、人によって違う)。

 市立博物館へオルセー美術館展を見に行った。住宅街の更地とはまた違う空白があちこちにある。繁華街、あるいはビジネス街の空白は、空に向かっての空白で、バブルで失われたのと同じ夢幻がそこにかつてありましたと語りかけてくるようだ。

 博物館の隣は、かつて皇室御用達だったオリエンタルホテルがあった。ずいぶん前にスーパーの経営者がオーナーになり、震災で壊れたのか、撤去は予定のことであったのか、そのあたりのことはよく知らぬが、今はアスファルトを敷き詰めた空き地になっている。そこにオルセーの切符の販売所があり、地面に線を引き、ロープを張って、並ぶ場所を作ってはいるのに、券売所の前に14、5人がいるだけで、地面ばかりがやけに目立つ。

 もとより、地面しかなかったのだ。地面の値段でしかなかったのだ。なにもなくなったというが、もとより地面しかなく、これからも地面だけがあり続けるのだ。すでに動き始めている空白を埋めようとする力が、以前と全く同じように空白を埋めきることができるのかどうか。

 弁当を売る屋台がでている。あるいは弁当を並べたテーブルだけがあって、多くのサラリーマンが弁当を買い求めている。建物の中で売られている弁当も、路上で売られている弁当にも、なんのかわりもあるはずがなく、建物の、あるいは地面の値段を食っているか、食べ物そのものを食っているか、店の再建費用を食っているかの違いしかない。

 大雨の続いた昨年5月と違い、今の所、晴天。

96.5.26 庭に花を植える。下から見上げ、二階のバルコニーの床部分に亀裂を発見。庭に出る靴脱ぎ場のコンクリートと家のすきまに1センチ以上のすきまを発見。ガレージのコンクリートをうちっぱなしにした床面にも亀裂発見。近所の家では排水のために傾斜をつけていたその傾きが、反対になってしまっている。階段のきしみも日に日にひどくなる。震災の直後には気がつかなかったが、あちこちに結構被害が出ているが、特に住むのに困るわけではない。

 小学校の運動場、南斜面が崩れて使用不能になっていたのが、ようやく来月はじめに使える状態になるとか。ただでさえ狭い運動場の半分を塀で遮って使っていたのが、ようやく全面開放になることに子どもたちが喜んでいる。

96.5.27 ホームページを見てくれた人からメール。あの神戸だったのですねと書いてあった。もうすでに「あの神戸」になってしまっている。神戸でも「あの震災のことですね」になりかけている。

 家が全壊、母親が長田に店を出している。そこにオリックスの監督とコーチが飲みに来る。イチローのチチも飲みに来る。今度イチロー本人が来るとと言って喜んでいる。今年、卒業した彼女はガンバレ神戸のオリックスに励まされた一年と半年を過ごしてきた。

 まもなく、あれから二度目の梅雨を迎えようとしているのに、いまだ屋根にブルーのシートがはずせない家がある。

96.5.30 前日で震災から500日目だそうである。震災の時に考えた、いざというときのそなえがいろいろあったはずだが、そのうちにいくつを今実行に移しているだろうか。風呂の水にしても、夏が近づいてくるから、あのとき以上に水が必要であるはずなのに、夜のうちに洗濯機にくんで、早朝からタイマーでまわだす。骨身にしみるというのは、どういうことをいうのだろうか。

96.5.31 教科書に水の問題が出てきた。ケニヤでは一人当たり週に30リットルしか使えないが、日本では云々という話。家庭用水で食器洗いと洗濯とトイレでは、どれが一番よく使うかという問いがあって、去年の地震を体験している生徒たちはすぐに答えられるだろうと思っていたのに、意に反してなかなか正解が出なかった。答えはもちろんトイレである。バケツ一杯でおよそ10リットル入るらしく、トイレのタンクをマンタンにするのに、3杯の水が必要だった。つまりケニヤの一人当たりの一週間分の生活用水のすべてが、一度の排便で流されてしまうわけである。震災のおりには、一日に一度、みんなの便をためておいて、バケツ一杯の水をある程度の高さから一気に落とすことで処理をしていた。
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