山は新緑、心はブルー、神戸からの報告


96/4/12 桜が満開なのに、山はうっすらと白くなっている。私が記憶している範囲では、神戸では一番遅い雪の部類であるに違いない(というようなことを話していたら、先輩教師からわしの親父でも知らんと言われた。なんでも明治35年以来のことであるらしい。山の向こうは5センチくらいの積雪であったとか)。

 詩人Y氏が講師をしているカルチャーセンターの詩誌の後期に会員の一人が、「明治村だった町内が震災でアメリカ村になった」というようなことを書いていた。ある時代の建造物が壊れ、にたような工法の建物が建ちはじめていることを言っているのだが、出窓があり、サイディング技術の進歩で色鮮やかで形も自由自在だが、どこか薄っぺらな(なにを隠そうわが家も同じ)見かけの家がどんどん建っている。

 家が取り壊され、更地になったさらに向こうの家の壁がむき出しになり、想像以上に大きな亀裂が走っているのが丸見えになっている。隣の家に隠れているときには、まあいいかと思っていてもうちもそろそろと、あせる気持ちが出てきているのではないかと、勝手な想像をしながら、寒い朝の犬の散歩から家に戻った。

96/4/13 課税明細兼価格通知書がきた。地震の被害甚大のため資産の異動が大量に発生しているというのがその理由。築後10年未満だから、家屋の減価率0.94となっているのだが、木造家屋の耐用年数がどれだけあって、何年立てば課税対象としての資産価値がなくなるのか知らないが、あれほど激しく揺れたものが、同じ消極率のまま課税されるというのは、解せない気がする。無事だったとは言え、乱暴な子どもに取り扱われたおもちゃのように、あの数秒間で十年分くらいは痛んだ気がするのだが。減税の対象になる損壊の照明が20%未満の、いわゆる一部損壊については、減価率はそのままになっているようだが、果たして半壊はどのような扱いになっているのだろうか。

96/4/15 小学校に通う子どもは昨日第二土曜日で休みなので、近所の人に連れられ、夙川公園に花見に出かけた。四月に入ってからも寒さが続いたために、いまだ桜は満開。昨年は、神戸市内の公園という公園にはテントがあり、花見どころではなかったが、ほとんどの公園でテントは撤去され、あちこちで花見が行われている。季節の行事が行われるたびに、被災の事実というのか、記憶が遠のいていくのだろう。

映画監督の大森一樹(芦屋在住で、私の高校の先輩でもある)が宮沢賢治を調べていて、関東大震災の時、数多くの友人が東京にいるのに、花巻にいた賢治が気づかった形跡が全くないと、今朝の新聞に書いてあった。瞬時に情報が流れる現在でさえも、震災直後に大阪に行って、あまりの無関心さに驚いたことを考えると、当然過ぎるほど当然な話だ。大森氏は自宅マンションの自治会長をして、建て替えるか補修するか、住民の話がいまだまとまらずに苦労しているらしい。

96.4.17 私のホームページを見た京都の人からメールをもらった。夜眠れずにネットサーフィンをしていて、神戸という言葉が目に入り、自分のまわりにいるものが、「神戸の人はわがままだ」というのが気になっていたために読んだというような主旨のメールだった。彼のサイトをのぞいてみると、しばらくまえに神戸の震災について論じた文章が掲載されていた。なにか大きなできごとがあって、それに対してどういうスタンスでいるかで、その後の関心の持ち方が違ってくる。95年1月17日は京都でも揺れたはずで、私にメールをくれた人も、ワガママ発言をした人も同じ体験をしている。たとえば大阪で揺れを感じた作家の高村薫は、人生観が変わるほどの衝撃だったと直後に書いていた。

「なんとなくクリスタル」の田中康夫の神戸震災日記を読んだ。思いのほかおもしろかった。彼は例にたがわず、1月17日、女性とホテルにいて、早朝まで原稿を書いていたところ、神戸で地震があったことを知り、その女性の実家が夙川にあったことやら、かつて神戸の女性と恋愛をした経験などあって、衝動的にというのか、神戸にボランティアに行くことになった。仕事の関係上、大阪のホテル(原稿の送付のための通信手段の確保の必要性など)に泊まりながらも、原付バイクで週に五日神戸に来て走り回っていて、最初春までというつもりが、半年以上も通い詰めることになったわけである。

 本の中身を紹介してもしかたがないが、ベトナムに出かけた作家はいるのに、神戸に来た作家は、結局、田中康夫ただひとりだったという事実が、とても不思議な気がした。

 さらに、震災について小説に書くことを、多くの作家が抵抗を示している不思議を田中氏は指摘している。震災に怒りをぶつけたり、悲惨さ比べをするような小説はくだらないし、書かない方がましだが、文学の世界にまで妙な自粛ムードがあったりするのは、奇妙だ。なにか方法を見つけなければ。

 メディアの発達が、災害をかえって、「時間的」にも「空間的」にも局地的なものにしてしまっていることに危惧する。住専にまわす基金を神戸にまわせというような発言をとらえて、神戸ワガママ発言が出てくるのだろうが、災害特例の医療費給付が打ち切られて、職と家を失い、もともと自営業で保険もなく、震災のストレスで昨年末、胃の4分の3を切除したにもかかわらず、一度の通院に2、3万円もかかるために、医者にも診てもらえない人の話が新聞に出ていたが、これもまたワガママなのだろうか。

 普天間基地が廃止され、それにともない岩国へ一部部隊が移転をする、今度は岩国周辺住民が反対をする、これもまたワガママなのか。米軍ヘリ部隊、渋谷に移転とか、奈良平城京跡に移転とか、政府も次々にいろいろな提案をしてくれたら、あちこちに住民運動が起こり、長い間静かだった日本が少しくらい「騒然」としてくるかもしれない。

 田中康夫の申し出に、ベネトンが赤や黄色のブリーフ、パンティーを男女三千枚ずつ提供し、それを康夫ちゃんが配って歩いて、避難所にいるおばちゃんたちが、きゃーはずかしい、と言いながら受け取る場面は感動的でしたね。彼は、自分が田中康夫であることに気づいてもらえなかったというようなことも正直に書いていて、「なんとなくクリスタル」を雑誌で買って、最後まで読むことができなかったのだが、この本は好感がもてました。

96/4/21 妻があこがれている車があるらしく、すれ違うたびにそれを指摘し、たくさん、走ってるのね、と言うが私にはそんなふうに思えない。車マニアでないので、自分が運転している車のほかに、数種類しか名前を言えないくらいだから、気がつかないだけなのだろうか。

 そういえば妻が身ごもっている時には、道行く女性がみな身ごもっているように思え、双子が生まれたときには、双子にばかり目が行き、父が脳梗塞で倒れたときには、その後遺症の特徴である手足の障害を、町でひんぱんに発見した。

 神戸が元に戻ったと見える人と、まだまだ復興からほど遠いと思う人の意識の持ちようは根本的に違うのだろう。神戸市民の中でも完全に二極分解しているのだから、阪神間の外にいる人は、なおさらではないだろうか。私自身、ここに書き続けるという行為のおかげで、かろうじて震災を見続けているのだ。

96/4/22  更地にはいろいろある。地震で更地になって、建築計画のあるところ、更地になっただけで建築計画のないところ、更地にして神戸を脱出し、土地を手放そうにも、買い手がつかないところ、地震の前から更地で、地震の前には建築計画があったのに、建築資金を確保するための、住んでいた家の売却がご破算になり、身動きのとれないもの。

近所の事情通の話によれば、更地の事情も様々であるのがわかってきた。

96/4/25 家の建て替えに千万円かかると嘆いておられた70代になろうとするご婦人、ようやくローンの算段がついて工務店と契約、先日ようやく家が完成したのだが、すぐに倒れて、三日後にあっけなく亡くなった。その一週間後にご主人がやはり倒れて、翌朝には亡くなった。新しく建った家には娘夫婦と孫が引っ越してきて暮らしている。外から見ると、家も新しくなって、よかったですねというところ。復興進む神戸の変哲もない景色。長田での話。

 岡山に疎開していて、家ができて、ようやく戻ってきた女性がいる。ほんの短い期間だけそこにいて、新しくできた家から今度嫁に行くらしい。こちらは芦屋の話。

96/4/27 文化祭生徒の日。病気以来、万歩計をつけているが、通常は、犬の散歩込みで一日ちょうど一万歩くらいだが、行事の日はよく歩いて、今日は夕方までに一万五千歩を越えている。ちょっと疲れました。

 十数年前に生徒会を担当していた頃に、市立盲学校との交流をはじめたが、双方の文化祭や体育祭を訪問する形で、それがいまでも続いている。盲学校にとっては、このように外へ出ていく機会が少ないらしく、第4土曜日で公立は休みであるにもかかわらず、全校生、全教員が来校してくださった。

 講堂で盲学校生徒の軽音楽の演奏があったのだが、その中に生徒の作詞作曲の作品があった。その歌詞を紹介しておく。

 港に船が戻るよ 波がうたってるよ
 山の緑が萌えるよ 花が笑ってるよ
 そして街並みが再びよみがえる
 悲しい傷あとはあちこち残るけど
 遠くはなれてた友達が帰るよ
 明るい呼び声が市場をにぎわすよ
 空き地の片隅に今も残されてる
 しおれた花束と小さなお人形
 やがてビルが建ちひび割れを埋めても
 私は忘れないあなたがいたこと
 この街は元気です 潮風よ伝えて
 やがて街の灯がきらめきこぼれるよ
 私の心にもともすよ勇気を

 勇気がその題名。昨年は地震でアルバムをなくした生徒がいて、みんなと写真を撮りたいと言われたことを思い出した。今年は地震のことを特に口にすることはなかったが、歌には思いが込められていた。月並みな言い方しかできないが、自然災害における障害者の恐怖心や困難にも、想像力をめぐらせる必要があるだろう。

96/5/2 遠足で六甲山を登り、有馬まで降りた。万歩計で2万5千歩。病気以来これだけ歩いたのは、はじめて。ふもとから山にできた震災の傷を幾度となく見上げていたが、すぐそばを通りかかってじかに見るとそのすさまじさと危険の度合いがよくわかる。これから梅雨を迎えるに当たって、一部で補強をしようとしているが、大部分は手つかずのまま、まにあうのかどうか。山道のあちこちに花崗岩の砕けた跡がある。表面上、くずれたところだけではなく、あちこちに危険を内包している。

 帰り、バスを降りると近所の神社の祭りであるらしく、屋台が出ていたので、ベビーカステラを買う。歩いて家に向かうと、昨年は地震で中止になったダンジリがちょうど家の前の道を進んでいるところに出会った。いつもダンジリを引いている娘の同級生の父親の姿はないかと探したが、見あたらなかった。家に戻ると、私が探していた人が今日引っ越しであるらしいと妻に言われ驚いた。娘の同級生の父親と言うよりも、犬の散歩仲間だったのだが、地震で傷んでいた家を出て、少し離れた場所に家を手に入れたということだった。

96/5/5 朝、テレビで長田のことをやっていた。神戸市は工業団地を作り、ケミカルシューズの工場を集めようとしているが、入るのが可能なのは10人以上でやっている工場で親子とか夫婦だけでやっている工場には無理だと言っていた。また新しい住宅を建築しようにも、震災前、家賃が長く据え置かれ、月5、6千円で暮らしていたところもあり、そういう人たちを新築した団地に入居させるのも困難であるとも言っていた。スタジオにいる評論家が、どうしてこれはできないのか、あれはできないのかとレポーターに問いかけるのだが、いずれも的外れでどうにもならない。

 5、6千円の家賃が.私的な住宅の話か、公共住宅の話かわからないが、公共住宅には所得を偽ってのいすわりとか、家賃の不払いとか、数え切れないほどの問題が震災と関係なく存在していて、本来入居すべき権利のある人を結果として排除してきた事実もあり、なかなかややこしい。このことがあちこちで、仮設の被災者を公共住宅で吸収しきれないことにもつながっているのだろう、たぶん。

 長田という町の、ケミカルシューズという地場産業の構造の特異性と合わせて、解決するには困難な問題が多すぎる。震災に乗じて構造の近代化をしろというのは、零細の中の相対的に力の強い業者のいうことだ。

 それぞれの地域に、都市計画に賛成する人、反対する人がいて、結論がでないうちに、自力に家を建てはじめる人もやはりいるわけで、時間が経過すればするほど、問題が複雑になっていく。計画の実行が決まれば、官は今新築されつつある家の立ち退きを強制するのだろうか。

 妻の実家のある淡路へ行った。長田を車で通りかかると、焼けた状態にまま、撤去もされずに残っている町工場がいくつかあって、傷跡が生々しく、まだ乾ききるにはいたっていない。同じ被災地でも、淡路と神戸、東灘と長田、長田の中でも線路を隔てて北と南でも被害の様子は実に様々だ。

 連休の混雑を避けようと道路地図を見ながらあちこち道を変えてみるが、あるべきところに橋がなかったり、工事をしていて車線がなかったり、思うように進めず、結局、予約していたフェリーに乗り遅れてしまった。

 淡路のT町では、被災者用の町営住宅の建築が始まっており、町は被災住民を一年だか二年だが、家賃を無料にして入居させることに決めたらしいが、今度は住民からなぜ無料なのかと反対する声もあがっているらしいが、そのことは別にして、小さな自治体の方が、被災者の数の違いもあるが、県や市に比べてずっと小回りがきくようだ。国家というのは、国民(いや市民と言うべきか)にとって、国家のどの部分が本当に必要で、どの部分が必要でないのだろうか。

 普天間基地返還もひどいインチキだった。ああいうのは故意でやっているのだろうな。大したことではないと思って・・・。

 それにしても容積率というのは、なんのためにあるのだろう。この狭い国土の日本で、容積率というのが、バブルを支えてきた打ち出の小槌であったのではないかと、長田の年計画の困難さを聞くうちに、ふと思った。住民の安全をそこなうようなむちゃくちゃな建造物はともかく、金を出せないというのなら、容積率その他の規制を緩和することで、どうにかできないものかと考えてしまう。5、6千円とは言わなくても、5、6万円で暮らしていた人が、建て替えたために14、5万に家賃がなりましたと言われても困るのは当然だ。民間と比較して安いじゃないかと言い切れないのが、公共住宅だろう。
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