桜が咲いて、なのに雪まで降って神戸からの報告

96/3/17 子どもを塾へ送るのに、山手幹線を走った。震災中、毎日テレビに登場していたM小学校の校舎がすべて取り払われ、なにもなくなっていた。私の知人は、この小学校に入れず、少し西へ行った商業高校へ避難していた。最初の食事が親子三人で食パン一枚であったことを繰り返し、思い出す必要がある。

96/3/18 新聞に震災復興阻む「戦災」の見出し。震災復興の柱のひとつ「東部新都心地区」の3分の1が戦災復興地区と重なっていて、法的に同じ地域で二つの区画整理事業を並行してできないことになっているという記事。

 震災で基準点が動いたために土地境界画定作業も見通しが立たなくなったとのこと(これは震災ではなく、戦災の方)。疎開先から戻ってきたら、知らない人が住んでいて、泣き寝入りしたという祖父母、そして両親の話を思い出す。

 これと同じ記事を数十年後に読んでいる場面を想像し、気が滅入る。戦争は、ある意味で平等にすべてを破壊したが、震災の破壊は不平等で、不平等であったが故に、私はのんきにこんなものを書き綴っている。

96/3/20 時間の流れ方は、自分が立っている場所によって均等ではない。術後、三年無事に経過するかどうかがひとつの山ですと言われ、丸い時計の文字盤を、6度ずつ動く秒針の動きのすべてを数えているような長い時間を生きていて、地震の間も、基本的には三年が経過する以前の時間の経過のしかたの中に私はいたのだが、地震以降、私とはまた違う時間の中に身を置き、身をもまれている人たちがいる。私はあと5カ月で三年である。

 事件が起こると、一般の人を遠ざけるロープがはられて、たいていは外側から眺めているわけであるが、地震からしばらくは、これまでのあらゆる事件とは違い、内側にいた。立入禁止のロープは次第に日常と非日常との仕切の輪をせばめていって、今や更地を囲むだけになりつつある。

96/3/21 今日は地下鉄サリンの記念日である。一年前の今日、震災後はじめて病院に行き、検査を受け、検査の結果が出るのを待っている間に、待合い所のテレビで奇怪な事件が起こっているらしいことを見ていた。

 ヘリコプターで写される町と、ヘリコプターで写されている町に住みながら、ヘリコプターからの破壊されつくした町の映像を眺めていた、破壊されずに残った家の暖房のきいた部屋にいた自分との対比の不思議を思い出す。

 1月17日の午後2時前後だったか、JR六甲道の高架が落ちていると、訪ねてきた従弟に聞き、テレビでなるほど落ちていると確認した。

 前夜遅くに親子で出かけていたディズニーランドから戻ってきたという従弟からみやげのお菓子をもらた。ディズニーランドのスプラッシュマウンテンの印象から、揺れた瞬間、その夢を見ているのかと思い、落下している高架を見て、ジェットコースターのようという比喩が出てきたことなど、今になって振り返れば、みな直前の日常の延長から出てきた言葉なのだ。

 アナウンサーの語る言葉の背後にあるものをいちいち検証してみれば、その人たちのそのときの、あるいはその前日の日常があったはずで、どこのだれがあの惨状を語るのにふさわしい言葉を持ち得たのかと、つい考えてしまう。ヘリから降りれば、暖かい部屋と食事と風呂のあった語り手の言葉が、どれだけのものを伝え得たのだろうか。

 阪神電車の新しい車両が完成し、震災前の車両数に戻り、完全に復旧したことになると言う放送もまた記念日的であった。記念日的に取り上げられる町に暮らしつつ、自分が見ているものが、報道によって見せられるものに異化され、意味を奪われていくのに戸惑いを感じている。

96/3/23 妻の両親の住む淡路に行った。須磨港までの道路でまともに走れる箇所はほとんどないが、高速道路の復旧は驚くべき速度で進んでいる。最初に高速道路というのを見たのは、東京オリンピックの前に東京へ行き、鳩バスで都内観光をしたときだが、国が総力を挙げると、目に見える形でいろいろなものができあがっていく。

 淡路について、ついでに、T町の仮設住宅に知人を訪ねようとしたが、うまく連絡が取れなかった。寒さのせいもあり、ここもやはり人の気配があまりなかった。

 T町の広報に「災害住宅相次ぎ着工」の記事があった。こちらは国が総力を挙げていない方の復旧であるが、O地区10戸、I地区20戸となっている。昨年一期分20戸がすでに着工しているという。平成7年度歳入歳出予算総額172億の町で、一期二期合わせて7億ほどの工事にとりかかっているということになるらしい。予算規模も政令指定都市の神戸に比べるとずっと小さいが(震災直後の水道の復旧も早かった)、かえって、まだこれでも目に見える形で復旧が進んでいる言えないこともない。

 T町の仮設にいる知人は、自力で家を再建する経済力はなく、町営住宅が唯一の望みである彼らに入居の機会があるのだろうか。

96/3/24 80才を越す知人が被災し、4回目の抽選で六甲アイランドの仮設に入居している。その人の書いた被災体験をある文化団体の広報誌で読んだ。彼は行政に対して批判がましいことはいっさい述べず、避難所での五ヶ月の生活についても「三食付きの無料宿泊所で、生活費を最低二十五万円として、まる五ヶ月、百二十五万円のサービスを受けたことになる」と書いている。元いたアパートから郵便物が転送されてくるたびに、転居通知を出し、親しい人には「日々是好日」と書いたが、実感であると言っている。エアコンも電話もある仮設住宅に家賃なしで住まわせてもらう、ありがたいことではないかとも書いている。

 文字どおりに受け取っていいのか、書いている広報誌のスポンサーに気を使ってのことなのか、よくわからない。ポートアイランドの仮設にいる先輩教師もやはり、同じような気の使い方をしていたのを思いだし、複雑な気分で読んだ。彼は脳梗塞で寝たきりの父と親しく、被災直後には、避難所で配られる物資の余剰分を運んで来てくれたこともあり、父が受け取った正月に「日々是好日」の葉書を見せてもらい、その時は単純にすごいなと感じたのだが・・・。

96.3.26 小学校の崩れた運動場に、分厚い壁ができあがりつつある。犬の散歩に行く範囲に三軒、先週から家がつぶされた。水道筋商店街の辺りも、空き地が目立つのはあいかわらずだが、少しずつ家も建ちはじめている。外装の様子から、多くの家や店が、ぎりぎりの予算で工事をしているのだろうと想像できるような作り方だ。

 前に住んでいたポートアイランドのマンションの人と話をした。24階だてのマンションだが、一戸当たりの工事分担金は50万円少々、全部でおよそ一億ほどの補修工事になるらしい。各戸内の工事はもちろん別である。かつての隣人で、私が家を建てたときも内装の世話になった人が今は独立してやっているのだが、そのマンションだけで48戸の仕事が入っているとのこと。

 病院へ検査に行った。待合い所での老人同志の会話は、いまだに地震の話。老人同志というのは、以前からの知り合いか、その場だけの話し相手かもひとつよくわからないが、住んでいた場所を確認しあい、片方は宿なし、片方は無事だったと話をしている。宿なしの老人は地震で転倒し、骨折したのがいまだによくならず、杖に頼っている。

 震災から一年3カ月が過ぎたが、いまだになにかしら書くことがあるということじたい、いやになってくる。無理に書くことを探しながら歩いているわけではなく、普通にしているだけで、地震にまつわる光景が目に入りいろんなことが耳に入ってくる。

96.3.27 芦屋で被災し、着の身着のまま、生駒に避難していた教え子から転居通知をもらった。「やっと戻ってまいりました。現在八ヶ月のおなかでがんばっています」とのこと。私がソフトボール部の監督をしていたときの、センターで一番打者、公式戦で十本以上はホームランを打ったのではなかったか。

 最初はチームを組むのもままならぬ状態、はじめて出た大会で、一回の表14四死球で11点取られた。その時の守りでセンターに大きな当たりを打たれ、背走に背走をかさね、グローブの沙きっぽにボールがおさまり、2アウト、自分のファインプレーに喜び、万歳とさけんで飛び跳ねているうちに、二塁走者にタッチアップされ、ホームにまで走られた。その大会は一回戦敗退したが、その年の秋の大会で優勝、最後は県大会でベスト4にまで入るチームになった。

 明るく元気で、いつも一生懸命な彼女が生駒から、なんでもなかった私に見舞いの便りをくれたのを思い出す。

96/3/28  解体され、ブルだかパワーショベルだかのキャタピラのあとの生々しい更地に、畳が二枚敷いてあり、その上に古くて大きなタンスがひとさお。てっぺんには、雨よけのためなのか、毛布がかけてある。その前に、タカラのステンレス台がふたつ。ひとつは流し台で、もうひとつはオーブン付きのガスレンジを置く台。

 もとは二世帯だか三世帯だか、よくわからぬが長屋風に平屋があった場所。前にはバックミラーに数珠をかけた廃車寸前の赤い軽自動車が路上駐車していて、どこの国の人だか知らぬが、若い外人の男性が使っていた。

 公費解体した住宅から荷物を持ち出せなかったと、市を訴えた人の記事が新聞に出ていた。あの時点で、施工する側にどの程度の配慮の義務があり、またどの程度のことが可能であったのか。

 訴えることが無茶だと言うつもりではない。でも、地震直後、おびただしい瓦礫の山を前にして、所有のむなしさを感じたのは確か。しかし、なにもかもがなくなり、ゼロから、いやもしかしたらマイナスから生活をはじめなければならない現状に直面すると、訴えたくなる気持ちもわからないではない。

 更地にあるタンスと流し台も、おそらく家主のものではないのだろう。引き取り手が現れる時が来るのだろうか。

96/3/29 なぜ今頃になっても、取り壊される家が相次いでいるのだろうかと考えてみる。全壊、半壊、一部損壊と被害に等級が与えられた。見舞金の至急と減税にからんでのあわただしい診断で、専門家がきちんと吟味した上で決定されたわけではなく、最初のうちはほとんど自己申告がそのまま認められ、あとになって、税金の問題がからむからか、突然きびしくなり、マンションなどでは判定のやりなおしが、あちこちであった。ことに共有財産としての価値を下げたくない住民の気持ちもあったりして、実に複雑だった。

 全壊の家はすぐにも取り壊さなければ住めないが、全壊と半壊の違いは、当初、当座の雨露がなんとかしのげるというのが、半壊で、半分壊れた家に永住することなど、どだい無理なのだ。ことの緊急性をのぞいて考えると、全壊と半壊にどれほどの違いがあるのかわかりにくくなる。

 かくして、一年を過ぎてから、半壊の認定を受け、当座の雨風をしのいできた家が、今次々に撤去されているのだろう。

96/3/31 昨日と今日、二日連続で結婚式。それぞれにいろいろあり、断れなかった。神戸港中突堤にあるホテルと、そこから出る船での式。港周辺もあちこち工事だらけで、まともに歩けない。ことに昨日の大雨にはまいった。

 今日の船上の披露宴、花嫁は挙式を前に原付バイクの事故で骨折。松葉杖をついていた。相手は税理士。その事務所の上司と隣あわせになり、震災のあとの税務処理の話を聞く。当初は雑損控除もフリーパス状態で、税務調査がまともに行われず、通常の年なら忙しい調査担当者は別の場所に回されていたとか。かと思えば、震災のあとの被害認定のやりなおしをされ、いったん戻ってきた税金を返却を要求されていると別の出席者から聞く。

 ちょうど一年前、地震当日神戸支局で当直だったNHKの放送記者(何度も放映される揺れた場面のビデオ映像に出てくる)と結婚した卒業生の話を、ここでも書いたことがある。その彼女も披露宴に出ていて、当時のことを聞いた。彼女の母親の店は全壊したが、家は家具などの倒壊はあったものの無事で、ニュースで彼が映っているのを見て、すごいと思いつつも、あわてている様子がおかしいと笑ってしまったという。事態がこれほどひどくなるという認識はなく、少なくとも怪我もなく無事でいる姿が映っていたのだからとのこと。

 家が瞬間的に崩れてしまったり、火事にまきこまれなかった多くのものの反応は、彼女と同じではなかったか。なにかことが起こったとき、自分が体験したことのある最悪のケースを想定し、いくらひどくてもその二倍とか三倍というような考え方をして、それ以上のところまで想像力は働かないのかもしれない。

 今、彼女の亭主は市役所の記者クラブにいて、ずっと震災の復興について追いかけているらしい。

96/4/4 神戸新聞会館(神戸新聞社のあったところ)が駐車場になっている。駅からながめたことはあったが、車を止めたのは今日がはじめてだった。地霊とかいうものを信じているわけではなく、大勢の人が亡くなった長田や東灘の更地に立ってもあまり感じないが、それなりのかかわりと思い出のあった建造物が無くなった場所には、言うに言われぬ、不可思議な気配がある。

 春日野道近辺を通りかかり、更地が目立つがそれなりに町は生きて活動を続けている。新しいものが次々に建ったわけでもないが、以前の空気を保ったまま、とにかく生きている。震災直後、布引近辺に住んでいるSF作家が、春日野道界隈にまで探索に出かけ、壊滅したというような表現を使って、当時の様子を書いている。

 私自身、それから一週間近く過ぎてから出かけたその近辺の印象もやはり壊滅という表現に違和感を感じないものだったが、今だって瓦礫は取り除かれ、更地が目立つと言っても、さっきも述べたようにすべてが新しくやりなおされたわけではないのに、町は生き続けているのだ。

 神戸新聞社でインタービューを受け、あとで雑談をしているときに新人賞をもらっても7、8年はかかりますよねと言われ、事実なにもないまま7年が過ぎてしまったのだが(受賞の翌週に父が倒れ、医者にだめだ、すでに意識はない、家族の呼びかけに反応しているじゃないかと訴えても、赤ん坊がものを握るのと同じ、ただの反射運動だとまで言われた父も生き続けている)、それにしても物を見るということ、感じると言うこと、見た物、感じたことを表現するというのはどういうことなのかと、考え込んでしまう。

 目の前に起きている事実を冷静(興奮していてもかまわない)に見て、それをありのまま(でなくてもかまわない)伝えるという行為の難しさを、死んだと思ったのに、今も間違いなく生き続けている町を前にして、つくずく難しいと思う。いや、もしかしたら、今も生き続けていると思っていること自体が、なにかを見失った見方であるかもしれないと、さらにさらに考え込んでしまう。
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