喉もと過ぎても、神戸からの報告l


96/2/24 神戸市の公園管理課の人が家の境界線のことでやってきた。震災で壊れたJTの社宅の跡地を公園にするというのだ。広々とした空き地にマンションでも建てられたら、かなあないと思っていたのでよかった。防災用の空白を住宅地にもうけるという目的もあるかもしれない。

近所の小学校のそばの小さな公園と、いつも老人会の人たちがゲートボールをしていた護国神社の広場には、百立方メートルの容積のコンクリート製の円筒形の器がおかれている。おそらくこれから地中に穴を掘り埋めるのだろうが、これも防災のための施設であろう。おそらく家の前にできるという公園にも、同様の機能を持たせるに違いない。

96/3/1 卒業式。昨年はほとんど授業のできない中、卒業試験すら行えない、異例の卒業式であった。今年は、すべての行事を消化した上で、卒業式を迎えた。校長、理事長、PTA会長同窓会代表、送辞、答辞、すべてで震災にふれた言葉が入っていた。

マスコミが被災者にマイクを向けるとき、復興はまだまだだと決まって答えているのに、式の中では、復興進む神戸というマスメディアと同じ言い方をしていた。

昨年もそうであるが、今年もまた、着物を着た保護者が少なかったのは、不景気のせいなのか、まだ喪があけていないという意識のせいか、それとも着物がはやらないのか、そのいずれであるのか。

96/3/1 高校の同窓会へ出かけた。卒業以来、一度も行ったことがなかったが、なんとなく地震後の消息が気になったのだ。昨年はちょうど震災の前日に集まり、また今度と別れ、明け方にあの激しい大地の揺さぶりにあったのだ。

集まったのは十数人、頭髪が薄いものやら、一瞬、誰かかつての恩師が参加しているのではないかと思うほどの変わりようのものもいたり。とにかく全員無事であったらしく、二次会は不景気で客のいない新地のバーに繰り込み、酒の飲めぬ私は、ウーロン茶で建築、放送、NTTなどなど、それぞれの業種の対応を聞く。

96/3/2 今年退職する同じ教科の先輩が三人あり、送別会が垂水であった。少しはやめに芦塚さんと出て、JR新長田で下車、須磨海浜公園まで歩く。車では何度か通りかかったが、足で歩いたのは震災以来初めてのこと。

よく歩いた東灘とは違う悲惨の残骸があちこちにある。同じ時間帯同じような揺れ方をして、片方に火災があり、片方に火災がなかったのはいかなる理由によるのか。生活の形態が違うのか、一日のはじまりが東灘よりも早く、すでに火を使い、朝の準備をはじめていたのだろうか。

私の家の近所、いつもは老人たちがゲートボールをしている護国神社の広場にも、子どもの通う美野丘小学校のそばの公園にも、いずれは地下に埋設されるであろう、円筒形の防火水槽が置いてあるのを、学校に行く時、目にしてきた。火災さえなければ、死者は三分の一かそれ以下ですんだかもしれないが、百立方メートルという防火水槽の水でどれほどの消火能力があるのだろうかと、テレビでしか知らない当時の火勢を思い出し、赤茶けた地面をながめつつ、考えてみる。

仕事を再会している靴工場もいくつかあり、求人広告が目につく。かつての職人たちが、まだ町に戻ることができないのだろうか。

一面、焼け野原、煉瓦で丸く囲ったかまどがある。今はごみを燃やしているのだろうが、一年前は、ここで食事の用意をしていたのかもしれない。なにもなくなったところに焼けこげた石灯篭、石の飛び石、赤く焼けた金属製の飾りがあり、黄色い花が飾られており、かつてはちょっとは仕事で成功した人の大きな家があったのかもしれない。

壁に極彩色の人魚の絵を描いた建物があり、どうたら銭湯であるらしく、幸福湯だったか幸せ湯だったか、たしかそんな名前がついていて、もしかしたら震災後に名前をそんなふうに変えたのではないかと想像してみる。

六甲道で家が全壊し、息子に死なれた人が、神戸市の所有地には手をつけず、地域住民から土地を召し上げようとしている再開発計画に不満を述べているのを今朝、聞いたところなのだが、このあたりが元の町に戻るには、五年十年かかるのではないかという気がする。

焼け止まり公園と芦塚さんに教えられた公園のところには、二人の若者が清掃していて、ボランティアだろうかと、話しつつ、焼けてひんまがった鷹取商店街のアーケードのあとと思われるアーチ上のものの立つ辺りを振り返り、眺めるが、かつての姿も、何年後かに更地を埋め尽くすかもしれぬ未来の姿も、いっこうに浮かんではこず、ただ、荒涼とした現実が横たわっているだけだ。

犬が一匹、更地を歩いていく。子をはらんでいるのか、重そうな腹に比べ、足がやけにひ弱に見える。

96/3/5  ニュースを見ていると、住専問題で町の声を聞く時の「町」のひとつに必ず神戸が出てきて、税金を投入するなら被災者にという、聞く前から予測できる質問をしている。

事実としてそうであっても、あんなことを繰り返せば繰り返すほど、テレビが岡本太郎(別に彼の芸術を買っているわけではないが)をおもちゃにしたように、被災地の声が次第に戯画化していく。

マスコミは住民に語らせるよりも、自分の血と汗を流した取材で、問題点をさらし、政、官、財、暴にかみつくことをすればよい。闇に隠れた「暴」を追求するのは恐ろしいことではあるが、マスコミもまた十分に権力者なのだから、やれることをきちんとやるべきではないかと、思ってしまう。

アンケートにしてもインタビューにしても、全紙にのせてしまうくらいの分量でなければ信用できない。労働組合が組合員に対して、教師が生徒に対して、生徒会がやはり生徒に対して、いずれの場合もある種の答えを期待してのアンケートで、だれも新しい発見など望んでいないのだ。

96/3/5 道を歩いていて、更地になった場所を通りかかる。地震の前は、門構えだけを見ていて、住んでいるのがどんな人だか知らなかったのだが、なにもなくなって、奥行きが見えたことで、無意識のうちにそこに住んでいた人の、かつての日常や、あらたに再建できる状況にあるのかどうかなど、様々な卑しい想像をしてしまう。

家計にしろ、日常性にしろ、人間性にしろ、被災した者も、それをとりまく者も本来はさらけ出したくないものをむき出しにしてきた震災であった。

96/3/6 一年前、短期のアメリカ留学が提案され(準備はもちろん震災以前からなされていたが)、クラスに被災した生徒を抱え、授業料をどうするかというようなことを考えているようなときに、海外留学の話なんてできないと、提案は一票差で否決された。

一年後、同じ提案が、賛成多数で可決された。状勢はどれほど好転したのか、生徒の実害が見かけほどではなかったのか、被災者は少数派であるのが明白になったのか、それとも提案に反対しなかった私の感覚が鈍くなったのか。

96/3/9 ふるさと創生基金の一億円でできた小泉八雲文学賞、当初、金利が年六百万円あって運営していたが、今年はとうとう五十万円になってしまい、文学賞は廃止されることになったという記事。

仮設住宅は三年目にはいると、無条件で無償というわけにはいかない。恒久住宅に移って家賃を払う人もいるのだから、エアコンや建物のリース料など、応分の負担を入居者に求めるかもしれないと言う地方議会での答弁の話と、年金と貯金を食いつぶして、やっと生きているのに、架空の話でもがっくりするとの被災者の談話。

一億の貯金のある被災者なんていないだろう。金融期間を守るための金利の引き下げが、年金生活の被災者の懐に壊滅的な打撃を与えている。切り崩して、切り崩して、骨を削り、命をすり減らし、あと削れるものは「希望」というやつだけだろうか。

本日も新しい更地を発見。その隣の家も、実は壁が崩れ落ち、中に人がいないのを発見。祭りの山車をいれる蔵だけが残っている。

母と子の二人暮らし、家が全壊し、母がしている幼児教室の一室に生活する。昼間は子どもの声で勉強も手につかず、学校に来ているカウンセラーに幾度も相談しに行っていた。家を再建し、新しい生活をはじめられるまでは進学をあきらめる、東京見物のつもりで受験と言っていた彼女が第一志望に合格。

阪神間の学校は、昨年の三学期の授業をほとんど棒に振ったが、偏差値なるものに影響があったのかなかったのか、学校がなかったのがかえって幸いしたという、教師には情けない例もあるかもしれない。

96/3/12 石屋川ぞいの墓地の修復工事が進んでいる。まだ川にくずれたままの墓石もあるが、大部分は元の場所に設置され、石垣も新しくなっている。

墓石が戻っても、割れて、他のものとまじりあってしまった遺骨は元通りにならないだろう。墓石の修復や、遺骨の収納にほっとする人たちもいれば、今度の震災で亡くなった人を埋葬できる場所が復活してよかったと思っている人もいるだろうし、参ってくれる人がいなくなった墓地もあるに違いない。

96/3/13 今度の震災で何十億という被害を受けた学校が、いくつもある。そのうちのひとつに、十三億の被害を受けた学校があり、「お宅はxx社で建ててよかったですな」、と理事同志話しているのを偶然耳にして、なにを言っているのかと思ってしまった。

自分の学校がいかれた責任の一旦は建築会社の施工法にあると思いたいのかもしれないが、三宮で横倒しになったKビルもxx社、神戸では建てたビルも多かったかわりに、一説では倒壊したビルの4分の1がそうだったという噂があるくらいだ。

要するにxx社で建築をして無事だった私の勤務先は活断層から離れた場所にあり、建てたばかりで十三億の被害を受けた学校は運悪く、活断層の上にあっただけだ。古い建造物の多くがやられているのは事実にしても、古い建物が無事で、すぐそばの新築の物件がだめになっているような場所もあって、被害の広がり方は、必ずしも「面」的ではなかったことを、みんなあちこちで目にしているのではないのか。

昨年の一月一七日以前に、活断層について調べる人はなかったろうし、調べたところでそれを裂けて建築をするような決断はできなかっただろう。

96/3/14 神戸市の震災区画整理担当助役が焼身自殺した。地震直後も、内側にいる人たちは、どんな役職にあっても被災者であった。被災者であったが、職務を遂行しなければならなかった。

無言。
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