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もうすぐ春なのに、神戸からの報告

96/2/9 震災以来、壊れたものだらけで気がつかなかったのだが、阪急六甲近くに食堂というのか、喫茶店というのか、「エクラン」という名前の店があって、私がそこから山に向かって十数分登ったところにある中学に入った30年前に、すでに相当古いと思った記憶がある。前を通る度にまだある、まだ昔のままだと思いながらながめていたその店がなくなり、扇型の空き地になっていた。

 地震で壊れたのか、その以前からなくなっているのか、それすら判然としないその建物は、私の所属するVIKINGという同人誌から、大学教授と詩人がごっそりぬけて、「くろうぺす」という同人誌を作り、さらに「たうろす」へ名前を変えた。その「たうろす」の例会場として使われていた。今現在の「たうろす」で中心になっているY氏は、私達の勤務先の先輩で、長田在住、震災についても多くの詩をを書き、震災特集の番組の締めくくりに何度か朗読された。

 そこは下宿屋も兼ねていて、これまた私よりもひとつ年上だった同僚が住んでいて、飲みに行った先でよく、「おばあちゃんにしかられますから」と二次会、三次会に行こうという私達の誘いを断り、ひとり先に店を出ることが多かった。当時80を越えていると聞いたから、震災のおりにはすでに主はなかったのか、別の主を迎えていたのか、よくわからない。

 鉄道マニアだった彼はJR灘駅で鉄路に身を横たえ、此の世の人ではなくなった。神学部のドクターコースを出た聖書の教師の自死(みんなは事故という言葉で置き換えようとしたが)は、大変なショックだった。そういえば、草創期のVIKINGで、天才作家ともてはやされた美少女、久坂葉子もまた、阪急六甲の鉄路に散ったのである。

 こわれたものの中から、ふと忘れていた記憶がよみがえり、またいつしか何事もなかったように消えていく。その阪急六甲の書店で新刊の文庫本を買おうとすると、関東大震災についてのノンフィクションがあって、渾身の取材で当時を再現、火災などで大きな被害 が出たが、天災のあとに人災もあったみたいなことが帯に書かれていた。

96/2/14 昨年の今日、震災以来はじめての授業。1月30日に最初の登校日、登校率58パーセント、2月6日、二回目の登校日、登校率64パーセント。2月14日は11時50分、朝礼、40分の3時間授業、出席率91パーセントだった。

 ある生徒の手記によると、通常の交通機関が使えず、尼崎から阪急王子公園北側にある学校まで、往復三千円の交通費を要した。一週間毎日来たとすれば、それだけで一万八千円である。代替バスに乗るまで、二時間とか二時間半の待ち時間もさることながら、その状態が数カ月続いたわけであるから、経済的にも大変であったと思われる。

 MLで知り合った学生F君が、須佐野公園でのボランティアに来たついでに来校。1月17日、被災地の外で大震災発生のニュースをどう受けとめたのか、ということなどを話す。神戸にいた私たちが、停電その他で手に入れられなかった情報を、遠くにいたF君が知り得たことを不思議に思う。知らなかったことをボランティアの現在の活動の中心は、仮設住宅から、あるいは仮設住宅への引っ越しの手伝い、仮設住宅に住む老人たちへの訪問などとのこと。坂の町を自転車でやってきて、自転車で戻っていった。

96/2/15 異様に暖かい日が二日ばかり。朝、給湯器のガスを開かなくても、蛇口の水でそのまま顔を洗っても大丈夫である。暖かくなるまで水をだしっぱなしにしていた、寒かった一昨日までの朝を思い出し、一年前にはコップ一杯の水で娘達三人が歯を磨き、顔をあらった水はトイレ用に流していたなと、水についての思いの変化に、大震災における「個人的な体験」の根の浅さを思う。

96/2/16 阪急六甲で散髪。あまりべらべらしゃべられるのが好きではないので、よく店を変える。
 ここ、前からありましたっけ?
 去年の六月からです、それまでは夙川でやってたんですけど、地震でだめになりまして。
 ここは以前、なんの店がありました?
 ブティックらしいですけど、しょっちゅう店が変わるんですよね、ハハハハ (^^;;;
 以後は沈黙のまま、無事カットを終えた (__;)

96/2/17 津波警報が出た。パプア・ニューギニアで地震があったらしい。二メートルくらいの津波が予測されると言うから、かなりの地震のはずだ。PNGの大使館に友人がいる。被害の状況がどうなのか知りたくて、しばらくテレビを見ていたが、日本での津波の危険を訴えるばかりで、震源地の様子が伝わってこない。

11時を過ぎてから少しずつニュースでやるようになった。事実が伝わらなかっただけなのかかもしれぬ。PNGではなくインドネシアであるらしい。自分がどの立場にいるかによって、必要なニュースは変わってくる。知りたい側の要求は多様であるにもかかわらず、均質な情報しか流れてこないのは、どうしたわけだろう。

96/2/18 朝から雪。家内は子供時代のピアノの先生の「一年遅れ」の三回忌に出かけた。残されたご主人は美術の教師で、小学校の校長。学校には、今なお、立ち退かぬ(あるいは立ち退くことのできない)家族がいて、教室をひとつ使えない状態でいる。

地震当時、マンションにすんでいて、一階に二世帯分を借りている人が、違法に改造して壁を取り払い、二世帯分を一軒にして使っていたとかで、最初の揺れで少し傾く。近所にすむ母親の所へ様子を見に自転車で行って、十数分後に戻ってきたときには、すでにマンションは火の海。

その時、身につけていた服と自転車と、離れた場所に止めていた自家用車だけが残ったとか。これまで描きためてきた作品はすべて燃え、奥さんの写真も一枚もなく、三回忌には人から借りてコピーしたものを飾っていた。

位牌だけはなんとしても探し出したが、焼けた後の家は、灰が堆積して、新雪を歩くように膝まで埋もれるとか。グランドピアノも冷蔵庫も、金属のフレームだけが残っていて、あとはすべて灰。茶碗があったと思い、つまんでみると、ぱらぱらと崩れて消えてしまったらしい。

何かを持ち出さねばと思えば、未練もあって仕事に行けないが、かえってさっぱりしたと、直後に出勤した学校には大勢の避難者がいて、何カ月も泊まり込んだという。

火もとは、ストーブをつけて新聞を読んでいたおじいさんなのだが、最初の揺れで火が燃え移ったわけで、おじいさんに過失があるわけではなく、おじいさんの遺骨を探しても、跡形もなかったそうだ。

  定年まで二年。

96/2/19 青いシートで耐えていた、二戸一の長屋風平屋の前にトラックが止まり、職人が屋根に登っていたから、瓦の葺き替えがはじまるのかと思っていたら、今日の帰りがけに見ると、建物そのものがなくなっていた。つきあいはなかったが、雨のひどかった季節に、屋根の上でシートの補強をしていた、もう若くはない小柄な男の人と下から見上げていた女の人の姿を思い出す。

96/2/20 私が「乳児」であったころに、両親とも仕事を持っていたので、お手伝いさん兼子守りとしてお世話になった人が、淡路で被災し、仮設にいる。お見舞いを送ったお返しが来たので、40年ぶりくらいに電話をする。写真で見た、あとになっての記憶だけしかない。その後はずっと年賀状だけのやりとりで、今年65才になる。新しい生活の目処はあるのかと問うと、土地もないし、家を建てる力もない。
「町長さんが、みなさんが入れるだけの住宅を作ります、言うてくれてるみたいやから。それを待っるんです」
とのこと。

町長の言葉が、ただの社交辞令でないことを望む。財政上豊かではないかもしれないが、小さな自治体の方が、神戸などに比べ、用意すべき恒久住宅の数が少ないだけ、立ち直りが早いのかもしれない。

妻の実家から車で十分ほど走ったところで被災しているわけだから、無事であったかなかったか、なにかの意思があるとすれば、それを決めた冷酷な判断は一体なんであったのか。

96/2/22 午後から、またも雪が降り始める。神戸では長年なかったことだ。昨年は、ゆるんだ地盤の不安を抱える中で、やたらに雨が降った。今年は仮設に暮らす人が大勢いる中での冬にこの寒さである。

頼まれていた買い物をしにシーアへ行く。震災当日、本や書類棚が床にぶちまけられた職員室で乾電池式液晶テレビを囲み、ヘリからの映像をみんな見ていた。小さな画面でよく見えなかったが、レポーターが「シーアが倒れています」と言うのを聞いて、その時点で民家以外の新しい鉄筋の建造物が倒れているのを見ていなかったので(火災に対する恐怖の方が強かった)、えらいことだと思ったのを思い出した。

実際にはシーア倒壊は誤報で、向かい側のコープの建物がやられていたのである。その本部の建物も、仮の建造物になって営業を続けている。

新しい道路地図を買った。長田や東灘は、道路についてはさして変わった様子はないが、三宮は前の版ではあった神戸新聞会館などのビルがなくなっている。


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