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情け容赦なく寒波到来、神戸からの報告

96/1/21 ある書評紙の文芸時評で、関東大震災の時には多くの作家が震災を文学にしたが、今年の文芸誌の新年号を見ると、だれも阪神大震災について書いていないのにがっかりしたというような主旨の記事があった。オウムのことともあわせ、文学の衰退を言いたいのかもしれないが、なんと軽薄な論評であることか。

 私は寡聞にして、関東大震災を文学にまで昇華し、現在もなお読むに値する作品があるのかどうか全く知らない。関東大震災から逃れて、関西に移り住み、魅力的な作品を残した作家は何人か知っている。そのことまでも指して震災文学と呼ぶならともかく、主旨はそうではあるまい。

 確かに関東大震災の悲惨な状況を書き写したスケッチ的な文章や、小説の中の一点景として書かれたものには数多く出会うし、震災にまつわる民族差別的事件に対する証言やすぐれた論証もある。だが、震災直後、ある意味では情報を受け取る手段のなかった被災地にいる私達以上に、垂れ流しになった無数の映像や写真を茶の間で見続けてきた人たちに向かって、なにをどのように伝えればよいというのか。

 震災から半年もしないうちに、震災を題材にした小説が某誌の新人賞を受賞していたが、あの最中、悲惨体験をひけらかす以上のものに昇華しえてかどうか、疑問である。

 震災のあった日、朝日ネットの作家たちのボードに断筆中の筒井康隆氏が書き込んだ「笑犬楼無事」の五文字が、文学史に残してもしかるべき、見事な「表現」ではなかったかと思う。おそらくはテレビで悲惨な映像を見続けている傍観者にとって、その五文字ほどリアリティのある表現はなかったのではないだろうか。

 一月一七日の記念日を発行日とすることにこだわった本がどっと出て、これでおそらく市場的価値は終焉を迎え、あとはそれこそ、テレビの対談で野坂昭如と黒岩重吾の両氏が語っていたように、大岡昇平が「野火」を書き得たような時間の経過を待たなければならないのだろう(あまたある戦争文学にしても、後世の読者に勧めうるものがどれだけあり、再読に値するものがあるのかどうか)。

 野坂氏は書く(すでに焼け跡での体験重ね合わせた者を確かすでに一編発表していたように思う。野坂氏の場合は、神戸との関わりに置いてかろうじて可能ならしめているのだろうが、出来映えがどのようになるのかどうか)と言って、黒岩氏は書けないと言い、筒井氏もまた「震災に対して怒っている同業者には同情しない」し、自分が書くとすればブラック・ユーモアで、「悲惨体験」の自慢にしからならい状況では書いてもしかたないと言い切っていたのは興味深い。

 直接の体験者と外部からの体験者の受けとめ方の違いとか、内側にいることが真実を伝えうるとは限らないとか、経験していないものがとやかく言うべきでないとか、経験しなければ書けないと言うのでは文学など最初から存在し得ないとか、いろいろと検証すべき事があって、単純にどこで震災を経験したかを言っているわけではない。

 情報の量と質は一致しないが、情報の量が、情報の受けての受け入れる能力を越えて押し寄せるときに、時間の感覚までが狂ってくる。それこそ関東大震災の頃なら、伝達に十年以上は要した分量が、ワイドショーの一週間で家庭に押し寄せてくる。大多数の受け手には質を見きわめる暇を与えぬ速度で押し寄せてくる。震災からわずか一年で、すでに十年は経過したような錯覚に陥ってしまっている。

96/1/27 新聞部の生徒と一緒に、先輩教師が住む仮設に取材に行った。同行した部員の一人も、父親が同じポートアイランドの1Kの仮設に住み、娘三人と母親は別居状態(スペースの問題)であるという。

 ポートライナー市民病院駅で下車、南へ下り、看護短大のところを右へ曲がる。看護短大の建物の下には、地盤が下がってできた空洞がああちこちに残っている。しばらく歩くと、現在は三宮方面へ出る仮設の橋へ行くための唯一の通路になっている、片側4車線の広い道路に出る。今日は土曜日で通行量は少ないが、ふだんはコンテナトラックが数珠繋ぎになって走りすぎていく。

 信号の変わり目から時間を計りはじめ、少しゆっくりめに歩くと、渡りきるのに三五秒かかり、その五秒後くらいに、信号が赤になった。今日尋ねた先輩教師は足が不自由で、二度目の抽選で当たった場所、老人や車椅子に乗った障害者が数多く住んでおり、無事に渡りきれるものは少ないのではないか。

 それにしても仮設住宅というのは、どうしてあんなにも静かなのだろうか。ふだんは外から見るだけだが、中に入ってみても四百世帯の家があるとはとても思われない。独りで住んでいる人や、二人で住んでいても、薄い壁であるのを遠慮してこそこそしゃべるのか、声は聞こえぬし、洗濯物が見えなければ、人の気配はまるでない。

 仮設住宅の敷地内に医院があり、これは市が建てたものかと聞けば、自宅が全壊した医者が、老人が多いここに仮設医院を設ければ一石二鳥と開業しているらしい。昨年末まで被災者には医療補助があったが、年が明けてそれもなくなった。

 長屋様の建物の前には、新聞で報道されていた真新しい非常ベルと消火器があり、あとはエアコンの室外機と洗濯機、プロパンのボンベ。先輩教師は入居後すぐに自前でエアコンをつけたが、あとは市からのレンタルであるという。洗濯機はみんな自前、入居間もない頃は、夜中に洗濯機が盗まれることまであったという。

最初、雨よけのひさしも、街灯もなく、部屋の中にまで傘をさして入らねばならなかったという。夏の雨の多い時期のために、床をあげ、空気抜きを作っているが、冬はそこからの風がたまらないという。同じく雨水がたまらないようにという配慮の砂利がしいてあるが、車椅子の老夫婦にとっては、大変な障害であるらしい。

 靴脱ぎ場がないので、部屋の新聞紙がしいてある上に靴を脱ぐ。入ってすぐに台所。小さな流しと一口コンロ。ひとつでは足らないが、カセットコンロは禁止。彼の部屋は2K、一人で二部屋も占領して贅沢や言われへんかと思って、小さくなってるうんよ、と言うが、だれがそんなことを言うのか。

 失礼をわびて、風呂場をのぞかせてもらう。足が不自由なので、踏み台を用意してもらったとか。これは公費。しかし、トイレと浴槽を合わせて、畳1枚分もないのではないか。家の近所でよく会う人、ウエスト1メートルを越えているのだが、幅40数センチの浴槽に入って、抜けなくなり、一人で一時間以上もがき苦しんでいたという。彼もまた、浴槽につかるのはたまにで、寒いがシャワーですませているとのこと。手すりなど、必要なものがなかなかそろわないのだ。

 二間ある奥の部屋は物置、壁に釘を打てないらしく、古い松葉杖を渡して、ハンガーを下げている。電話はNTTの寄贈で、退去時にお持ちしてくださいと書いてある。

 家が全壊した後、垂水区の娘さんのお宅に避難して、二度目の仮設の抽選で運良く当選、今も非常勤で学校に来ておられるので、交通機関の便利なところでなければ足の不自由な彼にとってはつらい。その娘さんは、仮設が決まった直後、亭主が九州に転勤、奥さんに随分前に死なれて、彼は全く一人で暮らしているが、熱心なクリスチャン故か、天性のものか、常に楽天的で前向きにものを考えている。全壊の家も、50年以上暮らしたところで、家を建て直すとがんばっている。遠くに住む息子さんとの二世代のローンだが、新しい家ができると思ったら楽しみや、それでも楽しみにしとかな、やってられんもんなと、明るくおっしゃるが・・・。

 梅雨時には雨の音がすさまじく、何度も警報かと思ったとか。夏場の暑さは四十度を越したとか。台風の季節はワイヤーで家が飛ばないように、テントでロープをペグで止めるようなかっこうで固定していたとか。冬になると、石油ストーブはだめで、エアコンとこたつ、たいていはこたつだけですませているとのこと。  入り口のところにあるパンジーはボランティアが置いていってくれたとのこと。最近では看護短大の学生ボランティアが月に二度くらい顔を見に来てくれるらしい。  学校の記録集に彼が書いた文章の表題は「老兵は死なず」、現役の時は失礼ながら、人のよいだけの人と思っていたが、明るく前向きな中に、人にはわからぬ「核」みたいなものがあるのかもしれない。壁には成句を刻んだ焼き板と、三人の孫の写真をカレンダーにしたものが飾ってあった。

96.1.30 早朝、普段通り、寒い中を犬の散歩に出かけた。小便をする場所、糞をする場所は、その時の健康状態に応じて大体決まっている。しかし、今朝はなかなかしてくれず、いつもは行かないところまで歩いていくと、更地の前に人影が見えた。

 この時間帯に出会うのは、(私の母がそうなのだが)丸山公園にラジオ体操に出かける老人か、さもなくばたいてい犬を連れた人である。しかし、目の前にいる人影は犬を連れている様子はないし、山に登って行くふうでもなく、じっと立っているのだ。多少気味が悪いと思いながら近づいていくと、地震で家が壊れ、最近になって更地になったところにおばあさんが立っていて、更地に向かって手を合わせ、目を閉じ、じっと立っていて、私が近づき、通り過ぎ、そして振り返るまでそのままの姿勢で身動きしなかった。

 今日は検査の日だった。いつもは車で行くのだが、バスと徒歩で出かけた。病院のそばの更地に新築の家がぽつんと建っていた。くずれかけた墓地の下には仮設のクリーニング屋ができていて、新装オープン記念、超安値でご奉仕みたいなことが、看板に書いてあった。

 さらに坂道を上がっていき、病院に近づくと、傾いたままのマンションがあって、その駐車場に家具やじゅうたんが、二階の高さくらいまで山積みになっていた。いよいよ取り壊しがはじまるのかもしれないが、なんのために残った家財を放り出したのだろうか。

96.1.31
本日は仮設住宅に関する資料です。新聞に出ていたのかどうかわかりませんが、先日、ポートアイランドの仮設を尋ねたとき、見せていただいたものです。
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仮設住宅に関する資料

一時使用住宅に入居される市民の皆様へ(神戸市災害対策本部)

1.一時使用住宅に入居される皆様には、本日から自活していただくことが前提です。

2.皆様に支給する生活必需品は、一時使用住宅で生活を送るうえで必要最小限のものを支給いたします。支給品以外のもので必要なものについては、各世帯で購入するなどしてください。

3.世帯単位で支給するもの以外については、入居者名簿に記載されている人数分を支給しております。

4.食糧については塩と醤油のみ支給しております。 5.支給する生活必需品
 寝具・・・毛布、枕
 身のまわり品・・・タオル、手拭い
 食器・・・茶碗、お椀、箸、皿(以上、1セット/人)
 炊事用品・・・鍋、包丁、まないた、しゃもじ、お玉、やかん
 日用品・・・塩、醤油、石鹸、洗面器、バケツ、マッチ
 こたつ、トイレットペーパー、ごみ袋(以上、1セット/世帯)

6.支給品目のもれ、破損などがありましたら、下記の担当業者に連絡してください。

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仮設住宅にお住まいの皆様へ(お知らせ)

神戸市住宅供給公社応急仮設管理部

1.台風で、家が倒れたり、飛ばないように、各棟に設置していますが、そのロープは、仮設住宅にお住まいの皆様でロープを張っていただきます。

2.養生用ロープ派、住宅の外側に取り付けてありますので、台風接近時には、皆様ご協力の上、設置をお願いします。

3.取り付けの要領は別図のとおり行ってください。まず、ロープをはずし、緑のリボンの先を引いて、その先の地面の鉄輪に、3、4の要領で張って下さい。

4.養生用ロープの設置時期については、台風情報に注意し、早めにお願いします。

5.台風通過後は、早期に取り外して下さい。通行の支障をきたします。

96/2/1  入試の一日目、筆記試験。付き添いの保護者から、子供が朝から吐き気がして熱があり、頓服をのませてきているのだが、と言われる。ずるいと思ったが、担当の部屋の受験生ではなかったので、担当者に言っていただけますかと言ってしまった。一年前、長女が地震で一ヶ月延期された試験を受けた。38度を越す熱と吐き気があった。気分が悪くなったらその場で吐いてでも、最後までやれと言ったのを思い出した。途中で退室すると、それまでになってしまうのを知っていたからだ。

96/2/2 勤務先の入試の面接。出身小学校の名前を見ながら、つい昨年の被災状況を想像してしまう。避難所になって、テレビに毎日出てきた小学校からもたくさんの受験生が来ている。ひとめ見てまっさらとわかる服を着ている。午後から判定会議があった。明日が発表である。

96/2/3 岡本方面に向かう道ぞいに知人が避難していたK商業があり、最初に手にした食べ物が、家族三人に食パン一枚であったのを思い出す。同じく避難所であったM小学校の校舎に工事のための足場が組まれている。
 猛烈な寒波。昨年はこれほどでもなかった。仮設住宅の暖房、市から支給ののやぐらごたつひとつ。体育館よりはましだと耐えているのだろうか。

96/2/5 久しぶりに知人と道で会った。東灘区で被災し、マンションは工事をしなければならず、行きがかりで垂水に中古の住宅を買ったというが、工事を控えたマンションが売れるはずもなく、困っていると嘆いているが、無謀なこと、いや思い切ったことをするものだ。以前は保母をしていたが、今は老人の話し相手のボランティアをしていて、「こんな私でも、十人以上も担当の人がいて、やめられなくなっているのよ」とのこと。

96/2/6 高三の生徒は卒業試験を終えてすでに登校していない。ある生徒と連絡を取る必要があって、電話をした。なんとかベーカリーというところが出て、彼女を呼び出してもらえないかというと、現在はいないとのこと。そういえば彼女が避難所になっている公民館を出たのが、昨年五月、その後、知り合いのところを転々として、その中のひとつが障害者の授産施設でもあるパン屋さんの二階。
 山田洋次監督の寅さん映画で、宮川大助、花子が演じた長田の仮設のパン屋、店の名前はその授産施設から借りたと聞いたことがある。「大変な目にあったな」と言うと「なんで」と首をひねり「みんな一緒やん」とつけ加えた。
 今は三番目だか四番目だかの転居先にいて、登校していた彼女の友だちから現在の電話番号を聞いて、一件落着。

96/2/7 東灘区に住んでいる卒業生から結婚式の招待状。父親とは生別、母親とは死別、祖父と二人暮らしで、震災後、山の向こうにいるのを、暑中見舞いで知り、案内状の住所は元の場所に戻っている。震災に触れた話をしなかったから一時的な避難で、無事だったのだろう。

 満月ではないが、大きな月が正面に見えた。月を見て、満月の度に地震の日の記憶を呼び覚ましていたと、地震そのものではなく、記憶が甦るキーワードであった月のことを思い出している。やはり、あれから一年以上過ぎてしまったのだ。

 思えば「一年前」の昨日は、二回目の登校日で、「今年」の昨日、昨年は中止になった修学旅行に中学三年生が出発していった。


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