神戸からの報告(95/1/17〜95/1/31)

1995/1/17
地震発生
 一月十七日未明地震発生。突き上げるような振動、何が何かわからない。
 着替えを手に持ち、二階の子供部屋に。無事を確認。
 懐中電灯を探し、激震がおさまるのを待つ。
 窓の外には火が見える。
 体感できる余震が幾度となく繰り返す。犬のシェリーもふるえている。
 水を確保するため、風呂に水を張り、様々な容器にためるが、すぐに断水。
 食器棚から多数の食器が落下。ほとんどどうにもならない。
 書架も倒れる。子供部屋、ベッドの横に倒れ、かろうじて長女無事。
 震源地の淡路より、妻の両親より電話。着信は可能だが発信は無理。
 三階書斎、スライド書架、机が移動。本が散乱。額が落下。
 ダウンの上着を着て、スキーの帽子をかぶる。隣に住む両親の無事を確認。本はすべて落ち、飾りもののガラス全滅。
 カメラとビデオを探す。窓から写そうとするが、暗くてだめ。なにをしてよいかわからないので、ジャーナリストごっこ。まずは、部屋の中を記念撮影。被害の実態を把握していない。
 台所だけを片づける。割れない食器と言われるコレールまで砕けている。
 次女、三女、こわがっている。三女はテーブルの下。シェリーも震えている。長女、紙の着せ替え人形を切っている。こんな時にごみになることをするなと言うと、ベルマークが、と言う。
 午前九時前、学校に行く。南北方向に揺れたのか、施錠していない窓が開いている。新築したばかりの体育館にも一部亀裂。玄関のガラスが割れ、職員室は惨憺たる様子。ガスの臭いがする。高一廊下、トイレ付近水浸し。北館防火シャッターがしまっている。 電気のブレーカーを落とさねば危険と思う。煙草を吸いかける教師あり、やめさせる。入試を控えているが、実施ができるかどうか。下宿が恐ろしく、登校してきた女性教師、呆然と突っ立っている。校舎に入るのも下宿に戻るのも不安げ。
 家が心配。帰宅。途中山門の崩れ落ちた寺院、ブロック塀の倒壊した家など多数あり。
 両親の状態再度、確認。脳梗塞で半身不随の父、便意を訴える。
 妹、愛知県より電話。兄、須磨区より電話。兄、マンションで揺れひどく、家具が全部倒れるも怪我なしとのこと。家財はほぼ全滅。
 昼食、前夜作ったパン。キャンプ用のバーナーでお茶をわかす。
 二時ころ、妻の従妹一家、来る。六甲の近辺、地獄のよう。バス道を隔てて上と下で大きな違い。JR六甲道、ジェットコースターのよう。
 窓の外には自衛隊のヘリが飛び交う。黒い煙。あちこち。
 三時過ぎ、兄一家来る。
 四時過ぎ、ようやく電気。寒さから逃れられる。
 五時半、パソコン通信をのぞいてみようと座るが、通じず。

95/1/18
 余震が続く。眠れず。夜、行き交う車多数。どこへ行こうとしているのか。
 早朝、そま谷に水をくみに行く。車の目的地は水だった。行列。バケツ、やかん、ポリタンク、電気釜、ごみ袋、ありとあらゆる容器を持った者がいる。吸水所よりはここの方がよいとあがってきて者有り。
 朝刊が配達されたのは驚き。社屋の使えない神戸新聞、薄っぺらな紙面、どうやって印刷したのか。
 兄、食料をとりに帰り、一週間の篭城を覚悟する。父はリハビリを勘弁してくれと、現状の認識をできず。父の友人、画家、津高和一氏下敷きになって死ぬとの記事。
 朝から自衛隊のものらしい大型ヘリが四機、入れ替わり立ち替わり飛び交っている。王子競技場の近辺に着陸しているのだろうか。テレビではワイドショーで被災地を放送している。新聞で読むのもテレビで見るのも実に不思議な気分。いくら深刻ぶったところでひと事みたいな放送を、やはりどこかひとごとみたいな気分で見ているのは、メディアにならされたものの性かもしれない。
 有馬に旅行していた叔母はタクシーに乗車拒否をされ、困り果てていたところ、通りかかったトラックに乗せてもらう。従弟は、いつも寝ていた場所にタンスが倒れてきたが、たまたま反対に頭を向けて寝ていたために、助かる。
 教師、生徒を含め、学校の関係者でどのくらいのものが被災しているのか。食料がいつ手にはいるかわからないので、食べる量を押さえる。キャンプ用の容器にラップをまいて使用。トイレは大便を一階に限定し、紙はビニール袋に捨て、流す回数を減らす。寒さで臭いも気にならず。
 九時四十五分、テレビで東灘区の避難勧告を放送。タンク爆発の恐れ。その地域に住む知り合いの顔が浮かぶ。ガスが拡散し、爆発の恐れ。政府の対応を放送するが、現地へはなかなか伝わらない。大阪株式市場、建設株を中心に買われているとのこと。
 死者、九時五十分現在で千八百人。戦争以外でこれだけの人が死ぬとは。ガンの手術受け、一人の人間としての死を考えている自分と、これだけの死とをつきあわせて考えると、死の意味が次第にわからなくなってくる。関東大震災でも戦争でも、街はいつか必ず復旧するのはわかっているが、災害の場にいると、そこにいたる時間が絶望的なほど長く感じられる。
 夜眠れなかった子供たちが、ようやく食事をする。一枚のウエットティシュで、みんなの顔を拭く。夜中、揺れるたびにシェリーが布団の上にのってくる。余震が続く。台風ならレーダーで確認可能だが、地震は正体がわからない。地震学者の不安な予測だけ。
 十二時。昼食。餅。ラップを皿にして食う。テレビで三宮の惨状を見る。ビルの倒壊のすごさ。学校が無事で本当に良かった。良かったと思いながら、よかったと思っている自分を少し恥じる。生きていること、それしかない。生きていてどうするのか。そんなことわからぬ。
 戦争にしろ、天災にしろ、本や映像で理解しているつもりになっていても、実は何もわかっていない。経験と想像力との違いまざまざ。
 スキー旅行中の六甲小学校の生徒たち、神戸に戻って来ても、帰る家がなくなってしまった。

95/1/19
 午前、事態の深刻さは時間をおって増している。友人知人の罹災の報告が次々。避難場所では家族三人に一日食パン一枚。ようやく開店したスーパーでは、数少ない食料品を奪い合い、喧嘩も発生。ダイエーとコープ神戸のみ営業。コープではレジが使えないために、広告の裏にボールペンで購入する値段のみを書いて、手渡し、品物の確認もせずに販売。生協としての使命感みたいなものを感じ、感謝。車を使用するなと言われても、使用せずには生活できない。道を歩く人は呆然として、どうにでもなれといった風情で、車をあわてて避ける風もない。
 早朝、水道管が破裂している箇所があるとの知人から連絡を受け、ポリバケツ、ごみ用のビニール袋などを用意し、くみにいく。さらに、そま谷という近所のわき水の出る場所にくみに行ってみるが、昨日よりも水の出が悪くなっている。気温が下がり、凍結しているため、転倒する人もいる。家に適当な容器がないのか、小さな手鍋に水をくみ、そろそろと気の遠くなる距離を歩いていく老婆もいる。避難場所の体育館から、みんなのためにくみに来ている人もいる。
 今朝のわが家の朝食、おにぎり一個、みかん一房ずつ。今後どれだけこういう状態が続くかわからぬので、手持ちの食料をできるだけ持たせるつもり。米は雑炊にして量を増やす。食器をラップにくるむのは、夏テレビで見た水不足の四国での工夫を参考にしたもの。コップ一杯の水で家族五人、歯ブラシを使う。洗濯はできない。トイレは流せない。米をといだ水、顔を洗った水、なんでもためておいて、そいつをタンクに入れて、一日に一度か二度、まとめて流す。
 テレビ、現地からの生の報道と言うより、次第に評論家的になってくる。こんな事態に評論など、なんのたしになるのか。評論家は常に傍観者だ。評論家を評論する私にも、少し落ちつきが出てきたということか。窓からポートアイランドの火事が見える。ポートアイランドの唯一の交通路である神戸大橋を遮断して、独立を企てる小説を前に書いたが、フィクションではとても太刀打ちできない。関東大震災、東京大空襲を経て、東京が今日の復興をとげたというのを見れば、いつか大丈夫だと思うものの、今後のことはすべて闇の中。
 私は私立学校の教師だが、次々と火災と報道される地域に、何人もの生徒の住所が思い浮かぶ。学校という機能も、どうやって復活させればよいのか。千八百人の女生徒がいて、何人くらいが登校できて、今後も授業料がはらい続けられて、制服は、教科書は、トイレは、などなど、難問が山積み。創立百周年記念事業で新築した体育館、生徒が使用するよりも先に、霊安所になってしまった。教師の安否も確認できていない。本人は無事でも、家族の生き埋めのものもいる。
 スーパーに行く。子供のミルクを求める人、生理用品を求める女性、老人の紙おむつ、大便を流せないから、紙おむつにすると悲しい工夫を述べる人。
 報道のヘリが飛びかう。一度の飛行ついでに救援物資を、ぶしつけなインタビューのついでに一枚のパンを。道にはごみがあふれはじめている。荒ごみの回収などあるはずがないのに、割れた食器や壊れた家財を出そうとする人がいる。記録映画でしか見たことがない光景が、現実に起こっている。今は屋根のあるところに住めているが、近所から火事が出ないことを祈る。
 パソコンの前に座ると、まともや余震。海上自衛隊の輸送船が水を運んできて、それに向かって帰れと港でシュプレヒコールをあげる労組があったと、篠原南町の給水所で聞いた。本当なのか。給水所でタンクに水を補給して出ていく陸上自衛隊を見て、昨日まで自衛隊の存在を否定しようとしていた自分自身の身勝手を笑う。イデオロギーは空腹を満たしてくれない。今は肯定も否定もない。助けの必要な状況があって、自衛隊がいるという事実だけ。
 中学入試を控えている長女に、勉強をしろと言っているバカな親の私。テレビでかつての大災害の記録映画を見て、「これも日本の話?」と三女が聞く。「そうだ」というと「そしたら、また普通に戻るかもしれないのね」と、ほっとしたように言う。
 ようやく通じはじめた電話で、安否の確認を試みるが、長田近辺はほとんどだめ。新聞で大相撲がまだ続いていたことに、はじめて気がつく。中川大阪府知事の「炊き出しは自分たちですればよい」との発言。たとえば米が5キロあって、今度いつ手にはいるかわからぬ状況で、5キロのうち4キロを供出できない自分を考えてみる。笑えない。損保につとめる兄、「地震保険に入ってる人が少なくてよかったと、今頃は重役が話しているよ」と自嘲気味に言う。兄も人に保険を売っておきながら、地震の特約に加入していない。

 夕食は雑炊。同じ分量の米でも、雑炊ならおかわりができる。具には大根葉。一昨年の夏、大病を患ってから飲み続けている野菜スープの貴重な原料。妻の父親が作ってくれ、冷凍しておいたもの。ガンの手術が前厄の直前。今年が本厄。これも厄年かと思うが、まさか私一人の厄でこんな被害が起こるはずもない。知り合いの神主に、節分におはらいをしてもらうために、厄除けの祈祷木に願い事を書いて、今日渡すことになっていた。生田神社は倒壊したが、彼の神社は無事なのか。
 生鮮食料品が手に入らない。スーパーで残っていても、誰も手を出さないもの、チェリーの缶詰、コーヒー豆など。二日目にはうどんなどは、水がいるからと敬遠していたが、三日目には少し手を出しはじめている。水が少しは手に入りはじめたのか。調味料に気がつくのは、かなり気分が落ちついてから。今日はレジが作動していた。最初に開店したとき、奪い合いの喧嘩があったと聞いたが、整然と買い物をしている。自分だけが品物を独占してはいけないという気持ちが、私にも芽生えている。人道的になっているのではなく、もしかしたらどうにかなりそうだと思いはじめているだけ。
 またもや余震。さっきの余震から十五分くらいしかたっていない。三階屋根裏部屋の書斎から見ると、小さな船が和歌山方面からやってくる様子が見える。近所の建築会社をやっている家の前には、小型トラックが止まり、大きなタンクがあって、パイプが家の中に引き込まれている。地震の翌日には発電器が近所迷惑な音を立てて、自分の家に電気を送り込んでいた。その家の隣りは、中国の人が暮らす、小さな集合住宅。道にソファーが出ている。これはごみではない。回収のあてがないのをわかっていながら、荒ごみを出すのと同じで、寝る場所を確保するためにしかたないのだ。夜、九時、大型車両二台が二回、道を上っていく。続々と増える難民を収容しきれず、新たな避難場所が設置された模様。不法駐車だらけで通れない。

95/1/20
 朝、犬の散歩。ドッグフードがなくなれば、大量の野犬が発生するのか。生ごみの山。烏がいない。どこかに移動したのか。荒ごみが増えている。焼け出されたものが、苛立ちをまぎらわせるために放火するとのうわさ。山の向こうの友人から電話。ガスはプロパン、水は井戸、ふだんめんどくさいと思っていることが今役に立っているとのこと。同じ市内でも、みんなリアリティの種類が違う。被災地にありながら、私のリアリティも次第にぼやけてくる。
 ヘリの爆音、サイレン、それがまだ遠いことを、後ろめたい気分で安心する。姪は友達と連絡を取り合い、学校が休みでよかったねと言い合っている。私はその休みになっている学校の教師、生徒の実態を把握しようにも、半数以上と連絡が取れない。火事と余震が終わってほしい。午後出勤する予定。給料日のはず。給料がどうなろうと、しかたない。金を使う場所がない。食費は少しはある。
 暴力団本部で物資を無料で配っている。本部の近くの人が電話で知らせてくれた。義侠心。でも衣の下のよろい。暴力団追放の看板。彼らが勢力を伸ばした焼け跡闇市時代を思い浮かべる。地上げ屋が放火をして歩いているとの、不穏な噂もある。労組は暴力団に対しては反対に出かけないのか。自衛隊の援助は受けても、やはり彼らの援助は受けられぬ。  テレビで、現地からの報道。ようやく入れましたとの記者の報告に、東京のスタジオから「お風呂ですか?」との問い。バカ、屋根の下に入れたということだ。現地の人には失礼かもしれませんが、東京で起こらなくてよかったですね、だと。でも、責める気はしない。私も似たようなもの。長田についでひどかった被害のところの人から、やっと連絡。二十時間かけて大阪に脱出したという。生きていて良かった。
 父は脳梗塞で倒れて六年目。左半身不随。動けない。今度起こったらどうしようと母と話す。置いて逃げなければ行けないのか、いや、わたしだけはここに一緒にいるしかないと、そんなことを話さねばならない。
 寝るときには靴をまくらもとに置いている。裸足ではいくら建物が助かり、逃げる余裕があっても、身動きがとれない。恐いのは火事、建物の倒壊、家具に押しつぶされること。それから無事であっても、散乱したガラスの上を裸足ではどうにもならない。
 風呂、トイレ。洗濯できない。食べ物、水、下痢などしたらどうにもならない。ガンの手術から一年半、再発に怯えていた気持ちも、今は興奮して消し飛んでいる。
 勤務先の学校、再開なんてとんでもない。でも私学は入試をしなければならない。生徒募集を一年間中止するわけにはいかぬ。しかし、校内には焼け出された近所の人たち。自分中心にものを考えている自分を恥じながら、人のことを考えているふりをして、また自分のことに戻り、最後は途方に暮れる。寒さで手術の傷跡が未だに痛むが、そうも言っていられない。必ず、いつかは復興するのはわかっている。でも・・・
 情報が集まってくるにつれて、私など現地の様子を伝える資格があるのかと疑いたくなる。等高線を下るに従い、被害がひどくなっている。写真で見た爆心地のよう。霊安所になっている体育館には七十体の遺体。生徒の安否を確認する作業、鳴り続ける電話を持つ手がしびれている。二人の死者もあった。死亡生徒の担任、気胸の手術の直後であるのに、自転車で葬儀に出かける。ふだんくだらぬ冗談ばかり言っている男が、戻ってから泣いていた。
 学校の中を見て歩く。場所によって全く大丈夫な場所もある。地震も被害は「線」で伝わっていくのか。助かった人たちの話。東灘近辺は、一時無法地帯と化し、酒屋の商品がすべてなくなったり、コンビニのガラスが割られたこともあったとか。
 地震の前後の奇妙な話。地震の直前に頭に数字が浮かんできた。一月十五、、十六、十七で止まり、地震が起こるとの声を聞く。そんなあほなと思いつつ、ベビーベッドの子供をそばに寝かし、五分後に地震発生。彼の母親はスプーンが勝手に曲がったり、死者が見えると前に聞いたことがあったが、不思議な能力。五分前の予知能力、少なくとも一人の赤ん坊の命を救った。
 消防のサイレンが近くを通る度に怯える。

95/1/21
 朝六時、テレビ。被災した家族を受け入れる家庭を求める放送。一ヶ月から二年の期間。私のところにだって受け入れられる部屋は残っているが、ためらいがある。七時、犬の散歩。近所の駐車場にトラック。コンテナに布団を敷いている。どこかの家族が暮らすつもりでいるのだ。トイレはどうするのか。ごみが氾濫している。せめてごみは出すまいと思う。野良猫の姿が少ない。野良猫が戻った時が余震の終わりの時なのか。
 九時出勤。生徒の安否確認の電話を受け、そして合間を縫って心当たりにかけ続ける。霊安所の問い合わせ、その他諸々。十人くらいの生徒さんを引き受ける場所を用意しましたから、いつでもご連絡くださいとの、保護者からの連絡もある。
 倒壊した家屋から脱出した同僚の家族、名古屋から荷物をかついでくる。給水所でも、お互いに譲り合い、助け合い、車にタンクを乗せるときも手伝い、クラクションを鳴らすものもなく整然としている。どうぞ、すみません、ありがとう、お先に、死に絶えていた言葉をたくさん聞く。しかし、この事態が長く続けばどうなるのか。子供たちのストレスもかなりたまってきている。テレビで恐い画面を見続け、外へ出るのにも臆病になり、急に泣き出したり。
 避難所にいる生徒、元気にしているが、今夜から雨とか。霊安所、医者の死亡診断書、埋葬許可、ややこしいことばかりでなかなか進まない。住む場所が残った私たちが元気な発言をし続けなければならないと、仲間と語る。帰り、生協をのぞく。少し物資が増えたよう。薬局でドライシャンプーがないか聞いたが、アルコールで消毒すればと言われる。風呂をなつかしく思うのは、少しは落ちついた証拠かもしれない。大きな余震が来るかもしれないという報道、気持ちを委縮させる。
 帰宅。兄嫁の弟、東京から荷物を運んでくれる。兄の会社の同僚、西宮から徒歩で荷物を運んでくれる。ありがたい。今日は疲れた。ヘリコプターが飛び交っている。男も女も、荷物を担ぎ、必死に町を歩いている。信号を守るものは少ない。

95/1/22
 日曜日、雨。朝七時、犬に小便大便をさせるための散歩。こんな時に散歩などという言葉を使っていいのか。ごみの散乱する町で、犬の糞を拾うビニール袋の滑稽。雨の中を坂道を上って水をくみに行こうとしている女性と会う。生きていくために、しっかりと地べたに足を踏ん張り、動物的な生命力をよみがえらせているよう。残った建物の壊れた屋根の上にはブルーのビニールシート。
 倒壊家屋からもぐらの穴ほどの空間を伝って脱出した同僚、外に出てみると二階建ての屋根が、自分の背丈ほどの位置にあり、その一階からの脱出。ようやくたどりついたのが一階の窓だと思っていたが、実は二階、どこをどうして出てきたのか。外では近所に古くから住んでいる人が、煙草を吸わないでください、火を消してくださいと叫んで回っており、別の人は石油ストーブを集めて、タンクの石油の処理をしていたとか。その甲斐あって、倒壊家屋の数の割には火災がなかった。
 発生時刻に阪急春日道高架下にいた隣家の主人の話、彼はタクシー運転手をしている。その瞬間高架が落ちてくるように見え、あわててそばにあったタクシーにしがみつくと、モーターボートのように激しく揺れた。
 発生時刻に学校にいた同僚。彼は授業の前にジョギングを日課にしていて、発生時刻の五時四十六分に駐車場にいた。鉄筋の校舎の柱が飴のようにしなって揺れた。職員室に戻るとガスの臭いがした。カーテンを開くと、静電気で引火してはいけないと思い、そのままにして、近所に住む管理主任の同僚の家にいき、二人で戻って、元栓をしめ、ブレーカーを落とし、二次災害から守った。あとでかけつけた同僚は、棚から落ちて割れたウイスキーの臭いをぷんぷんさせた上着を着ていた。  神戸では疎開という言葉が日常的に用いられるようになった。逃げ場がなく、震源地の淡路の方がまだしもましだと、淡路に避難したものもいる。小さな町ほど復旧がはやいのかもしれない。震源地に近い場所に住む妻の両親はすでに入浴をしたらしい。明石、大阪などの近辺のほか、和歌山や九州など、疎開先はさまざま。
 仕事もできず、学校もない。学校を開こうにも、公立学校のほとんどでは、まだ住む家のない人が大勢避難生活を送っている。めぐまれた疎開先。大きな病院を経営する医師の知り合い、大阪のロイヤルホテルに宿泊。この差はなんだ。
 二号線、自転車が走り回っている。記録映画で見る中国や東南アジアの都市の風景のよう。サラリーマンは出勤できない。無理して出勤している人は、三時間かけて電車が来ている駅まで歩いて、そこから大阪に出るか、福知山線経由で二時間半かけて大阪に出るか。電車の通じている西宮まで自転車を使う手もあるが、自転車などあっというまに盗まれてしまう。テレビでアナウンサーの差し出すマイクに、自転車を盗んで逃げてきましたという学生風の男がいたが、どうも釈然としない。事実を伝えるのが放送なのか、伝えるべき事実なのかどうか。今の神戸は、自動車よりも、バイク、自転車の二輪車が貴重で役に立つのだ。
 前に住んでいたポートアイランドの知り合いで、三宮の中華料理の店のコックさんの家族、途方に暮れている。息子は難病指定の慢性病。外来の診療を受け付けてもらえぬとのこと。近所に住む、やはり三宮で串かつやさんを営む家族、途方に暮れている。店の建物が残っていても、三宮に人が戻ってくるのはいつになるのか。
 昨夜、淡路で震度四、神戸震度三。直後震度六だった発表が七に変更。新聞に出ている史上初の文字にも、小ばかにされたような気がしてしまう。余震の間隔が少し開いてきたが、次にあると言われている大きな余震の前触れかと、不安はつのるばかり。
 雨が降り続けている。水をくみにいけない。体調も不安。緊張で手術のあとの痛みを忘れている。救急車の音があちこちで鳴りっぱなし。地震に対する情報や緊急物資は、現地の必要性から一日ずつ遅れてやってくる。飲料水が足らないという情報が発信され、飲料水が送られてきたときには、飲料水ではなくトイレなどの生活用水が必要になっているなど、ずれがある。仮設トイレが設置されても、大量の避難民が一度用を足せば、タンクは満杯。家庭でもトイレに困っている。テレビは被災地以外に向けての情報の発信にうつつをぬかしているが、被災地に必要な情報が被災地内部に届かない。  テレビでは刻一刻増える避難勧告の出た地域を放送している。その間に挟まる温泉とグルメの旅の番組宣伝の異様さ。水が出ない。ガスが来ない。給水車が来たとの情報に、神経症のように立ち上がり、行列に加わりにいく。ひっしりなしに聞こえるサイレン。窓からかつての阪神大水害の爪痕が見える。本震での被害が最小限におさまったとはいえ、二次災害の恐れが十分にある。大雨洪水注意報。脳梗塞で左半身不随の父。どうすればよいのか。
 交通網の寸断で、経済生活を再開するめどが立たない。勤務先の私立学校に何人の生徒が通学をはじめることができるのか。今のところ死者二名。連絡がとれないもの多数。家族が死亡または行方不明の者、多数。先日まで無事を確認したものの中にも、避難勧告を受けた地域の者数多し。
 この期に及んで、子供になおもしつこく勉強せよというバカな親の私。子供は地震発生以来、一度給水所になった小学校へ出ただけで、ずっと家にこもりきり。小学校の校長をしている知人は自宅が全壊しているにも関わらず、発生の日からずっと学校にいる。学校には七百人の避難の人たち。
 昼に食べたカップ麺の鉢を食器代わりにしようと、各自マジックで絵を描いて、自分の所有であるのを示す工夫。食器を洗う水がない。ごみを捨てる場所がない。買い物ゲームと称して、家の中にあるものを探す遊びをしている。未だ片づかぬ場所あり。家の中にもガラスの破片その他、危険があるやもしれぬ。飲料水と食料がある程度確保でき、次のことを望みはじめているのだが、この場合身勝手の範疇に入るのか。
 今日は姪の十四回目の誕生日。なにがほしいと尋ねると、CDコンポとの答。お祝いの品物は「おめでとう」の言葉だけ。「星電社が開いてたら、買ってあげるのに」「また心にもないことを」のやりとり。缶詰の果物と寒天でゼリーを作り、ろうそくを立てる。ゆすれば炎がぷるぷる揺れる。これがごちそう。でも、だれも不平を言わない。子供なりのけなげ。
 受験日がせまっているが、受験が予定通りに行われるかどうか未定。機能が回復していないのはわかるが、もっと迅速な対応ができないものか。自らの職場の状態も同じか、もっとひどい。対応しきれずにいるのは、お役所ばかりではない。二月には車検だが、どうなるのか。一級障害者の父、税金の申告どうなるのか。年金生活者への容赦ない課税、高額の社会保険料。税金の額がヘルパーさんの料金と保険料に跳ね返る。そのヘルパーさん、家が倒壊し、どこかに避難して連絡がとれない。
 給料は一週間遅れと聞いているが、本当に受け取れるのか。このまま学校が再開できず、それが最後の給料になったりして、というのもあながち冗談とは言い切れない。明るい見通しがほしいと思いつつ、生徒に明るい見通しを与えられずにいる自分たちの無力を恥じる。
避難勧告を受ける地域が拡大している。すぐ近所にも勧告。避難場所にいる知人から電話。八十才。家にはまだ電気、水道、ガスが来ていない。老人の力では、室内を片づけられない。避難所にいる方が、電気もついているし、食料も水もあるとのこと。地域によれば、家にいるものの方が、食料を手に入れにくいところもある。
 雨がようやくあがる。このまま落ちついてもらいたい。余震の危険を語る学者たち。不安はつのる。

95/1/23
朝、六時頃、かなり大きな余震で目が覚めた。子供の寝言、疲れている。昼間のけなげが、眠りの中でもだえ苦しんでいる。救急車のサイレン、ヘリの爆音。雨はあがっているが、曇り空。トイレからの猛烈な臭気。朝のうちに大便をして、それから流す。
 地震発生以来はき続けている靴下の先が破れている。「これどうしよう」「捨てたら」「先をかがってはかなけらばならないようになったりしないかな」「心配しすぎよ」妻とこんなやりとり。パンツは一度はきかえたが、その他はずっと着たまま。セーターは寝るときも着ている。いつ最大余震が来るか、気が気でないのだ。ビタミン剤を飲む。妻も少しずついらだっているのがわかる。三家族、十一人の生活、疲れる。しかし、私たちには家がある。
 犬の散歩。ごみが散乱。水をくみに行った車と、途中何度も行き交う。都市生活というのがなんであるのか、陰の部分がすべて露呈した感じ。時間がありあまっているのに、本を読む気がまったくしない。
 学校、ベニヤでパネルを作り、道路地図を張り合わせ、集まりつつある生徒のデータの整理をはじめる。マニュアルのない事態にどう対応するのか。政府の危機管理を笑う前に、自分たちで行動する。やれるものが、やれることをする。ようやく再開に向かって始動。少しでも日常を見せてやることが、罹災した生徒に対する私たちの使命かもしれない。センチにはなるまい。かわいそうだ、気の毒だの感傷はこの際、無用だ、と自分を駆り立てる。

95/1/24
 家族は朝九時に家を出て、車で山の向こうの親類の家に風呂に入れてもらいに行った。いつもなら一時間で往復できる距離、大渋滞で帰りは午後の4時。私はひとり風呂に入らず、勤務先へ。
 今日もまた、朝から安否確認の作業。夕方になって、千八百の生徒のうち、あと一名までにこぎつけた。一人がバイクで現場に行くことにする。死者は二名、被災し、自宅外に避難しているものおよそ四百。学校再開への道のりは厳しい。しかし、再開を目指して、三時間も四時間もかけて歩いてくる教師もいる。がんばらねば。
 学校に援助物資が次々に運び込まれる。物資は必要なときに来ず、必要でなくなってからあふれかえる。物資を送ってくれる側の善意には感謝。だが、災害の対策としてはこれでよいのか。物資の全く届かぬ場所もあるのだ。
 マスメディアの報道を見ていて、私が悪性腫瘍の手術を受けた直後の逸見政孝さんのことを思い出す。逸見さんにはなんのうらみもないが、あの日から長く、テレビを見たり新聞や週刊誌を読んだりする気がなくなった。待合い所のテレビでワイドショーをやっていて、そこから逸見さんの名前が聞こえてくるのではないかと思うだけで、その場所を避けて通ったものだ。私自身、自分の病名を口にできるようになるまで、一年以上もかかったのを今思い出している。
 地震の報道は逸見さん報道に似ている。東京で起こったらどうだとか、そんな話は便所の裏ででもやってくれ。いや、もしかしたら私のようなものが地震を語ることじたい、さらにひどい被災者にとって、逸見さんのプロダクション側の発言のようなものになってしまっているのかもしれない。患者が生きている前で、病状の解説のあれやこれや。無神経。死の恐怖から逃れるのは、なみたいていのことではないのだ。
 地震発生直後、物資輸送のトラックに紛れ込んで、元町辺りにはプロの窃盗団が入り込んだ。元町で店をやっている知人の話では、シャッターの壊れた店は、のきなみやられ、ルイビトンは全部なくなってしまったらしい。水がほしい、携帯用コンロのガスボンベがほしいと、目前の生活に必死の地元民の仕業ではないだろう。避難勧告の出た地域で、人口の空洞化が起こり、そこでは略奪に近い行為のあったのも確かだ。獲物は日用品。
 戦争中、すべてが焼けてしまったと呆然として過ごし、ある日、なんの被害もなく焼け残った場所を見て、くやしいと思ったことがあると、母が昔を語る。私たちの家は震災で焼け残り、家族の誰一人奇跡的に怪我をせずにすんでいるのだ。かつての母の思い、まわりに充満している。

95/1/25
午後、郵便がはじめてくる。知り合いの詩人の講演会の案内。三宮にある会場のビルはすでに倒壊。詩人とも連絡が取れない。地震発生からの時間の感覚が狂っている。学校に行くと、発生前の最後の登校日の日直だった私の名前の掲示がそのまま残っている。一年くらい過ぎたような気がする。
 疲れてきた。体も心配。しかし、学校が動き始めるまでは、生徒が来るまではと、自分をかきたてる。私個人は、自分のことになるとひどいマイナス思考だが、今は組織の中でプラス思考をし続けなければならない、と自分を叱咤している。ともかく、家族も家も無事だったのだから。
 再開のめどを立てるとき、一時間で歩ける範囲を通学可能な範囲と考えるのか、それとも二時間か。交通網が寸断され、多くの生徒に、二時間近い徒歩を強いなければならないかもしれない。安全だ、危険だ、むちゃだ、大丈夫だ、無責任だなどと様々な議論はあるが、評論家はいらない。どうやって学校再開を可能にするかだ。  昨夜からしばらく有感の余震が途絶えてが、またもや余震。地震学者の予知と、占い師の予言とどこに違いがあるのだ。
 全壊、半壊、状態は様々だが、全校生徒の二十五パーセントが、避難生活を送っている。交通状況の困難は被災とは無関係に、みんなを脅かす。被害のひどい家庭は、生活基盤をどうやって取り戻すのか。授業料のこと、制服のこと、教材のこと、家のこと、そして親の仕事。
 一昨日、大阪まで出勤した兄は、今日から神戸支社へ仮の勤務。自転車で出かけていった。世の中が少しずつ動き始めた。水はまだ出ない。水道局の職員が自殺した。過労もあるだろう。彼の家の心配もあっただろう。ガスは出ない。十一人の共同生活で苛立ちはじめている。避難生活を送る人に比べればと思うだけだ。入浴はまだ。近所の銭湯では四百人以上が行列をしている。今したいこと、ウオッシュレットでお尻の手入れ。風呂までは望まない。もし今神様が来て、ひとつだけ願いをかなえてやると言われて、ウオッシュレットでお尻を洗いたいと口走ってしまったら、さぞ後悔するだろう。五月の連休にオートキャンプ場の予約を取っているが、アウトドアは当分遠慮する。

95/1/26
 今日は校務分掌の係をしている図書館の復旧作業。五人の教師で倒壊した書架から六万冊の書籍を取り除き、書架を立てたり、壊れた書架を撤去する作業をした。腰が抜けそうだ。しかし、災害のあと、みんなハイになって、くだらない冗談を言い合って、異様に明るい雰囲気で作業をしている。学校にいまだに出勤できない教師はともかく、自宅が住めない状態にも関わらず、片道二時間を自転車で通ってきたりしている連中は、一日も早く学校をはじめたい、一日も早く新しい出発をしたいと、必死になってがんばっている。そのさなかに、地震で教師が足らなくなっていませんかとの、職を求める電話。足らなくなったというのは、教員の死者の数を問うているのか。
 地震以来、風呂に入ったことがあるものと、まだ入っていないものが半々。今日、篠山まで連れていってもらい、風呂に入るというものもいる。私はまだ。日曜日にはなんとか、親戚のところで風呂に入れてもらいたいと思っている。そんな話をしていたら、地震発生時の朝、若い女性教師から五時四十六分に浴槽にいたという告白があった。二階に住むおばさんがよく体操をして揺れることがあるので、最初おばさんかと思い、おばさんであるはずはないと気がついて、あわてはじめたとか。凍死していただろうだの、救出されてカメラを向けられたらかっこ悪いだの、ニュースに出てもモザイク入りになっただろうと、それを種に大笑い。これも生きていたからこそ。
 全壊の家屋から軌跡の生還をした同僚、実家のある名古屋に帰り、一泊しただけで戻ってきて、学校再開のための活動に参加しはじめたのには感服した。
それにしても義援金というやつは、どういう経路で入り、どういう形で使われていくのか。援助物資というのも、もちろん倒壊し、焼け出された人のところへ行くのが第一だが、家が残ったものでも数日はものが手に入らない。外から見て大丈夫なところにも手助けが必要なのだ。だから暴力団追放の看板を掲げているのも忘れて、暴力団本部に物資をもらいに行ったりする人がいるのだ。
 生ごみの回収がはじまった。荒ごみはまだ。しかし、日常生活の臭いはあちこちで少しずつだがしはじめた。給水所の行列も少しはましになった。水なしが日常になって、それに慣れつつあるのだ。着替えをしたい。風呂に入りたい。トイレで大便をして、思いきり水を流したい。
 昨夜、大きめの余震があった。最大余震云々という話が頭にあるから、テレビの速報に注目、なんだまだ四かと、がっかりしたり。予測される最大余震のマグニチュード六クラスというのが、どのくらいの震度になるのか知らないが、五クラスの震度で打ち止めになるのではないかと、心のどこかで思っているのだ。
 眠る前にまたもや余震。今夜もまだ家族がひと部屋に集まって寝る。セーターは着たまま。パジャマに着替え、安心して眠れる日はいつになるのか。

95/1/27
  朝、学校に避難している息子に死なれた先輩教師が、犬を連れて散歩していた。古い自転車のチューブを首輪にし、散歩紐は白い荷造り用のロープ。死んだ息子が使っていた中型バイク、美術教師が借りて、緊急物資の輸送、避難所にいる生徒との連絡に走り回っている。そのこと自体が父親にとって、ささやかな喜びになっている。息子は私の発病よりも少し先に、背骨の中に腫瘍ができ、手術。術後三年が過ぎて元気にしているという話に、手術直後の私がうらやましく思ったのはついこのあいだのこと。そういえば息子は高校時代、私の古いスキー板を使っていたはず。
 生き埋めの人を捜す最初の手段は、埋まっている人の声で、それをかき消す報道のヘリが数え切れぬほど空を飛び交っていた。手をつっこみ、髪の毛に触れたにも関わらず、レスキューが足らずに救出できなかった無念。
 神戸支社に臨時勤務の兄、月末だからと代理店への集金に。地区は長田。建物などひとつもない。バイクで走り回り、ほこりがもうもうとして呼吸することもままならぬ。鬼、人非人のそしりが聞こえて来そう。兄も、最初から金の話をする気はない。会社も半ばあきらめている、たぶん。

95/1/28
 朝から水くみ。給水所に並ぶ人の数は減った。いつまで続くのか。ライフラインのひとつでも回復し、次の新しい不満に移行するのが、再建への第一歩。学校も少しずつ再開を目指して動き始めている。寸断された交通網、トイレの水、避難所から戻れない生徒、経済生活の見通しのなさ。しかし、それでもやらねばと、じょじょに動き始めた。
 疲れはピーク。寒気がする。風邪薬、ビタミン剤を手当たり次第。学校では災害発生以来、ほとんど毎日昼食に「どんべい」というカップ麺を食っている。それもあちこちの避難所にばらまかれ、だんだん不足してきた。物資の流れに波があり、一時だぶついていた物資もとぎれがち。暴力団本部の物資の配給を受けるのは疑問。暴力団追放の看板はどこに行ってしまったのか。はずしたのは施した側か、それとも施された側か。災害発生からの日数を数えてみると、まだ十一日目じゃないか。日本から暴力団なんて永久に消えてなくなることはない。
 風呂に入りたい。風呂に入れてもらおうと、あてにしていた家で、嫁と姑の諍い。姑にごみ捨てを命じられ、言われるままごみを集めて捨てたところ、姑のへそくりが消えた。なんとその隠し場所がごみ箱であったとか。しかもその金額百万円也。従妹である嫁が実家に帰り、別の場所を探さねばならぬ。大震災のさなかに愚かな話だ。前に近所に住んでいた人に連絡、明日、震災以来はじめての入浴に向かう予定。

95/1/29
 東灘近辺の被害のひどかった地域。学校の管理職員の一人は、自らの家が倒壊。奥さんが看護婦で、近所にいるやはり倒壊した家屋に住む糖尿病患者などの救済に当たっている。瓦礫の下から冷蔵庫を掘り起こし、インシュリンを取り出すなどの作業をした。避難所に届く食事はカロリーの高いものばかりで、慢性病患者には二重の地獄。
 朝から水をくむ。水をくまなければ一日がはじまらない。給水所から戻ってくると、家の前にごみを捨てようとする親子連れ。ここはごみ捨て場じゃない、ごみ収集日とも違うと言うと、外国から戻ったばかりだからと、わけのわからぬ返事。時空がずれて、異次元に行ったような気分は、被災地に住むすべての市民に共通。おまえらだけが外国帰りじゃないのだ。
 パトカーが通る。愛知県警のマーク。ここらに来る給水車は川崎市水道局。避難所に物資があふれかえっているという報道で、今度は不足の波が訪れる。足りないところにはなにもない。給水車の来る回数も減ってきた。日本中が阪神大震災に飽きはじめているのではないか。本当の苦しみはこれからはじまる。家の中のものも、町の中のものも、いるものといらないもの、役に立つものと役に立たないものとが、いやにはっきりしてきた二週間だった。
 地震発生以来はじめて、風呂に入る。かつてポートアイランドのマンションで一緒だった知人宅。同時期に入居し、相前後して一戸建てに移ったが、今度の震災では、行き場所によって明暗がくっきり。神戸ブランド、ウオーターフロントの価値が下がり、バブルの時には億ションに化けたが、すっかり売れなくなったポートアイランドのマンション、液状化現象で有名になって、これからは誰も手を出さないだろう。そして引っ越し先が被災して、ローンをのこしたまま住めなくなった人。
 風呂に入れてもらった知人は、六甲山の裏側、新神戸トンネルを抜けた神戸北町。トイレに入って水を流す、食器を流水で流す、風呂では自動給湯装置が働いて、いくら使っても、湯船には満杯の水。北区ではようやく、パジャマを着て寝るようになったとか。わが家でパジャマの日が来るのはいつのことなのか。庭につながれた柴犬、人間で言う額の辺りに、見事な円形脱毛のあと。十六日には何もなく、十七日になってできたとか。地震のショックであるらしい。動物には地震の予知の能力がないのか、いや、ドッグフードを食ってるようなやつは、もはや動物ではないとのやりとり。
 近所のショッピングセンターに行くが、全くの別世界。普段の日曜日がそのままある。突然の休暇を楽しんでいるふうさえある。本屋にも寄るが、あまり手を出したくなるものはなく、講談社文庫、山田風太郎著「戦中派不戦日記」を買う。忍法筒からしは知っているが、忍者ものは読んだことなく、「臨終図鑑」というのだけ持っている。「臨終図鑑」を買った直後に同僚が鉄道自殺をして、それ以来、なんだか敬遠しているのだ。イタリアン・ジェラートのアイスクリームを買って車に乗る。
 帰り、トンネルを抜けて、そのまま三宮に出てみる。阪急三宮のビル、鉄骨をむき出しにして、無惨な姿。阪急三宮で何人の人と待ち合わせをしたことか、何十本映画を見たことか。そのうちの一人二人、映画の五六本は、青春という言葉とともに思い浮かび、そしてすぐに沈んで、二度と浮かぶことはない。鉄骨の一本一本が記憶を伝える神経繊維のようで、ひりひり痛み、ただただ無惨というよりほかはない。だめだ、いやに感傷的になってしまった。
 どこから来て、どこに行こうとしているのか、人の群、自転車の群、バイクの群。バスターミナルに並ぶ行列の果てしなさ。先ほど風呂に入れてもらった人の会社のビル、三階部分が押しつぶされてない。二時間だけ監督官庁の許可を得、社長が一切の責任を持つという文章に判をつき、荷物を持ちだした時の様子を聞いたばかり。
 片側車線のみ通行可能な三宮駅高架をくぐり、左折して、そのまま六甲方面に向かう。つい一時間前までの普段の日曜日と変わらぬ光景との落差に愕然。焼けたあと、くずれたあと、これからくずれようとしている建物。ゴジラが町を踏み荒らしたあとのミニチュアのようだが、まぎれもなく人が住んでいたあと。瓦礫から家具を掘り出そうとしている人の姿があちこち。
 一月十七日の朝、大きな揺れがおさまり、日が昇ったあと、犬の散歩に行き、近所の人と「大変なことになりましたなあ」と話したが、今になると、私の周りはちっとも大変ではない。明日、はじめての登校日、いったい何人くらいの生徒が登校してくるのか。何人くらいの生徒が学校を続けられずに、どこか別の場所に移っていくのか。

95/1/30
 地震後はじめての登校日。刻一刻変化する情報に踊らされながら、どうなるかと待ちかまえていると、通学時間が読めないせいか、予定時刻の二時間前から少しずつ生徒が集まりはじめた。送ってくる親の姿もたくさんあった。制服をなくしたり、長い距離を徒歩で来るために、運動靴をはき、私服のものも大勢いたが、ひさしぶりに見る制服に感激せずにはいられなかった。しかし、中には、「どうやった」と聞くと「火災にあった」と同情を引くような嘘を言うふざけた生徒もいたが、強くたしなめる気にもならない。講堂で被災し、死亡した生徒の報告をする校長の目には涙があった。
 このまますんなりと学校を再開するには、まだ不確定の要素が多すぎるが、とにかく、地震の発生で止まっていた列車をみんなで必死になって押して、少し動き始めたところだ。一週間後に再度、登校日、その後、二時間授業、三時間授業と、少しずつ平常に近づける努力をする。
 今日、家に帰ると水が出始めていた。ありがたい。トイレに入り、小便でも流してよいのだ。手も洗える。顔も洗える。早朝の水くみの重労働からようやく解放されるのだ。トイレのフラッシュバルブ一回でバケツ三杯近い水が流れ、それをくむのに要した労力を思うと、気分は複雑。ガスはまだだが、ほんの一歩だけ、日常生活を取り戻しつつある。
 地震直後の話。発光現象についてはあちこちで聞くが、くずれかけた家屋から脱出したとき、青空を見たとの報告がたくさんあった。時間的に考えると夜明け前で、青空があるはずはないのだが、より深い絶望の闇から、普通の闇に脱出した時の感覚が、青空に見せていたのかもしれないと、訳知りに解説してみるが、精神的なものか、科学的に説明可能なものか、もうひとつわからない。
 水と生徒、少しだけ青空。アホな中学生の、感傷的な日記みたい。それにしても、政治家の先生方の、泥ひとつついていない作業服、なんとかなりませんかね。私は地震発生以来、夜も昼間も同じセーターを着続けています。パンツは二回変えました。やっと洗濯ができます。しかし、ちょっとうしろめたい。まだ水の出ない場所、風呂に入っていない人がいます。自分の家で風呂に入れる日はまだですが、でも、水が出て、うれしい。女房の顔が、ほんの少し晴れやかです。

95/1/31
 水が出ただけで、家庭生活の雰囲気が少し戻った。食器の大半が割れたとは言え、キャンプ用品でもなく、ラップを巻いたものでもなく、普通のものを使うことができる。食器を洗えないからと、ずっと食わなかった納豆を久しぶりに口にした。
 世間が急速に今度のことを忘れようとしていて、被災の程度の低い私も「そういえば、あんなことがあった」というふうになるのも時間の問題かもしれないが、ひどい被災の生徒は、水が出てガスが出て、鉄道が動いて、さらにそれからが大変なのだ。
 今まで日曜日ごとに買い物に出かけていたシーアもダイエーも、みんなつぶれた。歩いて十五分ほどの距離にある商店街、アーケードは残っているが、多くの店がつぶれ、あちこちに火災のあとがある。すべてなくなったわけではないが、行きつけの場所が消えたのはさびしい。かつて、ほとんど毎日のように出かけた三宮の東門街なんて、台風のあとの雑木林みたいに、ビルが倒れている。
 割れた食器の補充をしようにも、どこへ行けばよいか。震度7というのは、鉄道の枕木に頭をのせていて、そこに向かって列車がばく進してくるような感じだった。あの日から今日がちょうど二週間目、眠る前にはあの時間が来るのが不安な気がしたが、眠剤を飲んだためか、目を覚ますとその時間は過ぎていた。
 コンピュータができたこと、まず、ネットワークでは「神戸からの報告」の発信、被災地の報告という、これまでは活字を媒体にしたものしか思いつかなかったことが、リアルタイムで行えたこと、これはとても大きい。演劇をするような感覚で、新しい形の文学を発信することができるかもしれない。はじめたばかりで、コマンドの使い方がわからず、かなり苦労したが、実用的であったかどうかは別にして、それなりに情報を見ることができた。様々な情報がボランティアの力でデータベースとして整備され、デジタルなテキストの形で手にすることができる。区役所に行って、手で写して何十分もかかる避難所の情報も、キーボードをたたくだけでよい。ただし、あくまで被害の少ない私には必要としない情報であって、本当にそれらを必要とするところには、コンピュータなどあるはずもなく、情報は回り道をしている。
 スタンドアローンでは生徒の安否確認の資料作り。登校可能な生徒を調べる居住場所の整理など、学校では日常業務の延長。たまたま出勤できる教師の中に、パソコンが使えるものがいたので、役に立った。電気の復活が一番早かったからだ。
 本日の学校での仕事。午前中、図書館で散乱した本の整理。各種文庫本をすべて分類番号順に並べる。出勤できる司書一名、ボランティアの生徒五名、教師三名。重いものの運搬、不自然な姿勢、腰にこたえる。
 避難所にいる生徒と連絡を取るため、教員であるのを示す腕章を作る。誰かが命令するのではなく、思いついことを、思いついたものがやる。個人というものがない、指示待ち人間は役に立たない。あれをすべきだ、これをすべきだと口先だけの奴等もいらない。風邪でも引いて休んでいてくれる方がありがたい。布を買ってきて、シルクスクリーンで校名を印刷、裁断し、家庭科教室に行き、手の空いていた男性教師三名、女性の美術助手の四名でミシンとアイロンを使う。音楽の男性教師がミシンにくわしいのに驚く。
 校区のある公立ではないので地域が広く、担任だけでカバーできない。西は新幹線通学の福山、東は京都、南は淡路島、そして学校は交通網の一番被害の大きな灘区と中央区の接するところ。被災生徒の支援チームを結成し、区域を分担。情報の整理だけで長時間かかる。
 学校の水が出た。トイレの問題はクリア。二週間以内になんとか授業ができる状態にしたい。


> 続神戸からの報告におすすみください。
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