ギルバートが床に立った直後「行かすかー!」とナデシコの大きな声が宿に響く。
風を切る音が聞こえる。その速度で打ち出された拳は、正確にギルバートの頭を狙う物だった。
ギルバートはその場にしゃがみ込むと、頭上に突き出されたナデシコの腕を掴み、その力を殺すことなく投げた。
自らの全力とほんの少しの力で投げられたナデシコは、受身も取れず床に叩きつけられていた。「あ、あかん……」と呻きをもらしそのまま意識を失う。
「フィ、フィソ……」
フィソラを呼ぼうとしたアイリスは、口をギルバートに手で塞がれてモガモガと喚くのみ。呪文は声に出さなければ意味が無い。
「頼む。行かせてくれ……」
そう言って手を放し宿の戸を開けギルバートが出ようとした。気絶させられると思っていたアイリスは予想外の行動に呆然としていたが、すぐに立ち直り周囲を見渡し事態の再把握に努める。まとまった。
「フィソラ!」
外から出た瞬間、ギルバートの目の前が白い光に包まれ、目の前にフィソラが現れる。
ギルバートは奥歯をかみ締めてアイリスを振り返った。
「絶対行かせない!」
『そうだ! そんな危険な役割を与えるなど!』
フィソラが太い前足をギルバートに向けて振り下ろす。それを間一髪で避けた。ドラゴンの攻撃など本来人間が受ければひとたまりも無い。人間として扱っていないのだ。そうしなければならないほど今のギルバートの力は常軌を逸していた。
「諦めてギルバート!いくらあなたでもフィソラを手加減して倒したりはできないでしょ!?」
それはその通りだった。おそらくギルバートの力は、今のフィソラと同等。
決着をつける事もできるが、それはどちらかが死ぬ時だ。そうするくらいならギルバートも老人を一旦諦める。
「アイリス! お前……俺と無残に殺される奴らと、どっちが大事なんだ!」
「そんなの分かんない! でもあなたが殺されるなんて耐えられないの!」
『その通りだ!』
フィソラが首を使ってギルバートを薙ぎ払う。剣で防御しながらもギルバートは宿屋の中に押し戻された。
「フィソラ! お前も老人をほっとく気か! 誰かが死ぬんだぜ!?」
『お前に命の危機が迫るくらいならば、そうする覚悟だ』
伝わらないと分かっていたので、フィソラがただ縦に首を振った。
「あらゆる命の源よ、その力を持って傷を癒したまへ “キュア・バブル”」
ギルバートが呪文の主を見る。アイリスはナデシコにキュアバブルを発動させていた。この魔法は一度発動すると中からも外からも移動する事はできない。
かつてアイリスが内側にいるギルバートを救うために魔法を変化させる干渉と呼ばれる現象を起こしたが、ナデシコにそれはできない。
ナデシコの攻撃はこれで封じられた。
「いいのか? ナデシコが居ないときついだろ」
アイリスは何も言わず、ただ泣きながら呪文を唱えだす。
「大地に眠りし、鉄の塊、今敵を拘束する鎖となってかの者の動きを止めよ “グランドチェーン”」
外から鎖が来ると思いギルバートが身構えるが、来ない。しまったと思った頃にはもう遅く、宿の床を突き破って鎖がギルバートに迫っていた。
飛び上がって避けるが鎖の方が早い。四肢に巻きついたそれは、ギルバートを大の字で床に縛り付けた。
「フィソラ!」
アイリスの言葉は止めるための物では無い。しかけるための物。今度はフィソラが宿の壁を突き破り中に突入してきた。
そのままの勢いでギルバートに迫る。
「だあー!」
剣を回しそれを持つ右手の鎖を切断。床に剣を突き立て、斬る!
フィソラの重みによって即席の落とし穴が機能し、同時に床下のほこりが舞った。その隙に乗じて自分の周りの床も切り落とす。ギルバートも床下に落下してしまったが、鎖がゆるみ抜け出す事ができた。
『くっ! あの状態からだと!?』
床に脚がはまりもがきながら、フィソラは周囲を見渡していた。だが長年床下に溜まったほこりと砂等の粉塵が舞い、視界を埋め尽くす。
その中からギルバートが叫ぶ。
「頼む。行かせてくれ!」
どうしてもアイリスに攻撃する事だけは、できなかった。気絶させるためには、傷つけなければならない。
「………」
「頼む!」
「………ごめんなさい……」
次へ