彼がヨヴィニアヌスス[1]に対して諸々の論文を書き、或る人がそれらの論文に対する諸々の反論を挙げたとき、彼はそれらの反論をドムニウス[2]――我々は皆、その老人の記憶力を崇敬している――からそれらの反論を知らされた。そして彼は、彼への返答の中で次のように言った:彼のような人物が間違えるのは不可能である、なぜなら彼の知識は、知られ得るあらゆる事柄に及んでからであると。次に彼は、あらゆる種類の三段論法と、知識術と筆記術の全体とを列挙する。もちろん彼は、自分を非難する人間がそれらのものを何も知らないと考えている。続けて彼は、次のように言う:

『どうやら私の場合、私がそれらすべての事柄を哲学者たちなしで知ることができたと考えるのは馬鹿げており、添削校正する尖筆の目的を、我々が筆記する目的よりも優っていると見なすことは馬鹿げているように思われる。私にとって、アレクサンドロスの諸々の注解に親しんだことは無益であったと思われるし、私の学識ある師にとっても、ポリュフュリオスの「手引き」を通して論理学の知識を私にもたらしたことも無益であったと思われる。そして、人道主義的な教師たちを別にして、私がナジアンゾスのグレゴリオスとディデュモスとを(聖なる)諸々の文書における私の教師たちとしたことに何の理由もない[3]』。

 あなたは注目してください。これが、あの男である。もしも私が異教徒の諸々の作品を所有していたり読んだりしているところを見つけられたら、私はあなたを否定したと、キリストに言ったあの男である。或る人は、彼なら結局のところポリュフュリオスを除外しただろうと考えるかもしれない。なぜならポリュフュリオスは、キリストの特別な敵であり、力の限りを尽くしてキリスト教を完全に転覆させようと努力したにもかかわらず、今では彼は、自分を論理学へと手引きした教師として彼を持ったことを誇りにしているからである。彼は、それらの事柄を(回心の)以前に学んでいたと、嘆願の中に含めることはできない。なぜなら彼は、回心の前は――そして私も同じく――ギリシア語とギリシア文献とにはまったく無知だったからである。それらのすべては、彼の宣誓の後で、あの荘厳な約束が為された後で来たものである。そのことに我々が議論するのは無益である。すぐに次のことが我々に言われるだろう:人よ、あなたは間違っている。神は馬鹿にされない。アレクサンドロスの諸々の書物から紡ぎ出されたいかなる三段論法も神には役立たない、と。私の兄弟よ、あなたがポリュフュリオスの手引きに服したのは不幸なことであったと私は思う。信仰のないあの男は、あなたを何へと手引きしたのか。それが彼の今いる場所であるなら、それは、嘆きと歯軋りのある場所である。なぜならそこには、背教者と神の敵たちが住んでいるからである。そしておそらく偽証者もそこに行くだろう。



[1] Joviniasnu4世紀の修道生活反対者(異端者)。委細省略。

[2] 委細省略。

[3] 書簡1

 

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