彼が「翻訳の最善の方法」という表題をつけた論文[1]を取ってください。ただし、その表題の付加を除いて最善のものはその中に何もなく、他はすべて最悪である。その中で彼は、彼がいま交わりを保っている者たちが異端者であることを示している。彼はこうして、我々の使徒――彼の使徒ではない。なぜなら彼が「自分の」と呼んでいる人たちは、フラックスとトゥッリウスだからである――の断罪を招いている。実際、使徒は「裁く人は、もしも食べれば、断罪される[2]」と言っている。その論文の中で――その論文は、いかなる種類の作品も逐語訳を理にかなった仕方で許容しないことを我々に教えているが、今ではそのような翻訳を理にかなっていると彼は考えるようになった[3]――、彼は、キケロの或る作品からの数々の段落をそっくり挿入している[4]。しかし、彼は次のように言わなかったか:『ホラチウスと詩篇とにどんな関係があるのか。あるいは、マローと諸々の福音に、キケロと使徒にどんな関係があるのか。あなたの兄弟は、あなたがあの偶像の神殿の中に座っているのを見るなら、立腹しないだろうか』と。もちろんここで、彼は偶像崇拝の罪にみずからを陥れている。なぜなら、読むことが立腹を惹き起こすなら、書くことははるかにそれ以上だからである。しかし、偶像崇拝に向かう人は、先ずキリストを否定するのなければ、それだけで全面的にかつ完全に異教徒になるわけではない。そこで彼は、彼のもっとも高貴なみ使いが彼の周りで仕えつつ、彼が裁きの座に着いたとき、キリストに次のように言ったと我々に告げている:『もしも私が今後、異教の諸々の書物を一度でも読んだり所有したりするなら、私はあなたを否定したことになる』と。そして、いま彼は、それらを読み、それらを所有するだけでなく、それらを筆写し校合するだけでなく、(聖なる)文書それ自体の諸々の言葉の中に、そして教会の建徳のために意図された諸々の談話の中に、それらを挿入する。私が言っていることは、彼の諸々の論文を読むすべての人に十分よく知られていることであり、証明をまったく必要としない。しかし彼は、まるで冒涜と偽証との深淵からみずからを救い出そうとして、自分自身のために幾らかの弁解をし、次のように言っているかのようである:『私は、いま、それらを読まない。私には頑強な記憶があるため、色々な著作家たちから多種多様な段落を引用することができる。私は、私が若いときに学んだことを単に引用しているだけである』と。もしも誰かが、今朝太陽が昇る前に大地の上に夜があったこと、あるいは日没の時に太陽が昼の間、輝いていたことを私に証明するように尋ねるなら、私は次のように答えるだろう:もしも人が万人の知っていることを疑うなら、自分の諸々の疑いの原因を明らかにするのは、彼の仕事であって、私は私自身の確信のための原因を明らかするつもりはない、と。さらに、人間の魂が危機に瀕しており、偽証とキリストの不敬な否定という罪が申し立てられている目下の事柄においては、たとえ諸事実がすべての人によって知られ理解あれているとしても、断罪は当然のことであると考えられてはならない。我々は、被告人たちを尋問することなく断罪する彼を模倣すべきでない:彼は、聴取しないばかりか、出頭するように召喚せずに;そして、召喚しないばかりか、彼らが既に死んでいても;そして、死んでいるだけでなく、彼らがそのときまで彼が常に賞賛していた人たちであっても;そして、彼が賞賛していた人たちであるばかりでなく、彼が追従し、自分の指導者と見なしていた人たちであっても、彼は彼らを断罪した。我々は、次のように言う主の判断を恐れなければならない:『あなた方は裁くな。そうすれば、あなた方は裁かれないだろう[5]』。さらに、『あなた方がどのような物差しで測ろうとも、その物差しであなた方も測られるだろう[6]』。したがって、本当に余計なことであるが、私は彼に対して、比類のない証人を連れてくることにしよう。その証人は必ず勝利し、彼は挑戦することができない。すなわち、その証人は彼と彼自身の諸々の著作である。私が彼のその論文に関して述べていることは、(彼の諸々の著作を読む)すべての人が証言するものであって、それに関する私の断言は余計なことに見える。しかし、彼の諸々の作品を読んだことのない人たちにとって、私の言っていることが不十分であると映らないようにするために、私はある特別な証言を利用しなければならない。



[1] 省略。

[2] Cf.Rm.14,20-23.

[3] ヒエロニムスも、オリゲネスの『諸原理について』の一部を逐語訳している。

[4] 省略。

[5] Mt.7,1.

[6] Mt.7,2.

 

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