彼が記述するその誓いがどれほど新奇で恐ろしいものか、あなたはお気づきだろう。主イエス・キリストは判事として裁判官席に座り、み使いたちは意見陳述人として、彼のために嘆願している。そしてそこで、数々の鞭打ちと責め苦の間に、彼は、二度と異教徒たちの諸々の作品をみずから持ったり読んだりしないことを誓う。いま、我々が扱っている作品を振り返ってみてください。そして、その作品の中で、彼が自分はキケロニアンであると再び言明していない頁や、彼が「我々のトゥッリウス」や「我々のフラックス」や「我々のマロー[1]」について語っていない頁が、一頁でもあるのか私に言ってください。クリュシッポスとアリスティデスとエンペドクレスとその他すべてのギリシアの著作家たちに関して、彼は、彼らの名前を水蒸気や後光のように自分の周りに撒き散らして、自分の教養と文学上の学識を自分の読者たちに印象づけようとしている。特に彼は、ピュタゴラスの諸々の書物を読んだことを誇っている。実のところ、学識ある多くの人たちは、それらの書物が実在しないことを言明している。しかし彼は、異教の著作家たちに案するかの誓いを余すところなく例証するために、書き物として実在しない諸々の書物まで読んだと言明する。ほとんどすべての彼の作品の中で、彼は、我々のものである預言者たちと使徒たちからの引用よりも、もっと数が多く長い引用を、「自分自身の」と呼ぶ諸々の作品から行っている。彼が少女たちやか弱い婦人たち――彼女たちは、正当なこととして、我々の(諸々の聖)文書かのらの教えによって建徳されることだけを願っている――に宛てた諸々の作品の中においてさえ、「彼自身の」フラックスとトゥッリウスとマローから(の諸々の引用を)諸々例証の中に織り込んでいる。



[1] 順に、キケロ、ホラチウス、ヴェルギリウスをさす。

 

次へ