私は、復活についての小論において私が意図していた以上に詳細な応答をしてしまった。それは、私が簡潔に過ぎると、また新たな中傷に身をさらすことになるのではないかと恐れたからである。したがって私は、あら探しが持ち上がった身体についてばかりでなく、肉について、幾度も言及した。肉について(言及したばかりでなく)、「この肉」という言葉を付け加えた。さらに私は、「この肉」についてばかりでなく、「この自然本性的な肉」についても語った。私はそこにも留まらず、幾つかの肢体の伊安全さも欠落しないだろうと主張した。私はただひたすら次のことを求めた:すなわち、使徒の諸々の言葉に従って、朽ちるものに代わって朽ちないものが、恥辱なものに変わって栄光あるものが、弱さに代わって不死が、自然本性的なものに代わって霊的なものが復活することは、信仰の一部と見なされるべきであること、そして、霊的な身体の肢体は腐敗や弱さの染みを持たないと我々は考えるべきこと。私は、三位一体、私たちの救い主の受肉、彼の受難と復活、彼の再来と来るべき裁きに関する私の信仰を述べた。私はまた、我々の肉の復活に関する私の信仰を述べたが、曖昧なものを何も残さなかったと私は考えている。信仰に関する限り、私の考えとして言うべきものは何も残っていない。

 

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