しかし私はお願いしたい。あなた方はキリストを愛する人たちであるから、身体が死者たちのうちから復活するとき、それは、上記の諸々の事柄なしに、朽ちないものの内にあるだろうということを甘受していただきたい。そして今後は、それらの事柄に言及するのをやめよう。我々は、復活において、不法の交際でさえ男女の間にもはや存在しないことを信じることにしよう。なぜならもしもそのような事柄が残り、忘れられないとしても、不法は交際が忍び込む危険は存在しなくなるからである。そもそも「腹とその下にあるもの」を注意深く綿密に話し検討することに、何の利益があるだろうか。あなたは、我々が肉的な諸々の喜びのただ中に生きていると、我々に言う。しかし、我々が復活においてもそのような諸々の事柄を捨てないというのがあなたの信仰であることは、私には分かっている。我々としても、我々がいま生きているまさにこの肉が復活することを否定しない。しかし、我々は、肉に属する諸々の不完全なものがその肉の内に包まれていて、肉ととともに復活するだろうと、人々に考えさせないようにしよう。確かに肉――他の肉ではなくまさにこの肉――は、復活するだろう。しかしそれは、その本性を変え、その諸々の弱さと不完全さを失うだろう。なぜならもしもその諸々の弱さが残るなら、それは不死でもあり得ない。こうやって我々は、あなたがいようがいまいが、異端を避ける。実際、教会の信仰――我々はその弟子である――は、二つの危険の間の道を取る。それは、死者たちからの復活における自然本性的な肉と体の実在性を否定しない。しかしそれは、使徒の諸々の言葉[1]とは反対に、来るべきみ国において朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐとは主張しない。したがって我々は、肉や肉体が、あなたの言うように、その失われたり切断された肢体とともに復活するとは主張しない。我々は、次のように主張する:(復活における)身体は完全無欠であって、その腐敗と恥辱と弱さだけを捨てており、死すべきもののあらゆる不完全な事柄を切断しているだろう。すなわち、死者たちの中から復活するであろう霊的な身体には、この腐敗を除いて、それ自身の本性の何ものも欠如することはないだろうと。



[1] Cf.1Co.15,10.

 

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