したがって、復活に関する我々の希望に対して、キリストは、まさしく元型として提示されているのであるから、彼は、よみがえる者たちの長子であるから、そして、彼は、あらゆる被造物の頭であるから――実際「彼は、すべてのものの頭です。死者たちから最初に生まれた方です。こうして、彼は、すべての事柄において、卓越しています[1]」と書かれているとおりであるから――、一体どうして我々は、これらの空しい諸々の口論と邪推による諸々の衝突を引き起こすのか。教会の信仰は、私が上に述べた告白の内にあるのではないか。そして、人が他人を非難するように動かされるのは、信仰の違いによってでなく、態度の邪さによってないのか。しかし、その点で我が友人は、肉の復活について語る際に、彼の性癖として、諸々の真実な事柄に諸々の馬鹿げた茶番を混ぜ込んでいる。彼は言う:「我々の間の一部の哀れな女性たちは、自分たちにとって復活がどんな善いことをもたらすかを問うのを好んでいる。彼女らは、自分たちの胸を触り、髭のない顔をたたき、腿と腹をたたき、この哀れで弱い身体が復活することになるのかと問う。彼女らは、『そんなことはない、もしも私たちが天使のようになるなら、私たちは天使たちの本性を持つ』と言う」。彼がこのように非難する哀れな女性たちは誰であり、彼女たちが彼の非難に値するかどうかは、彼が一番よく知っている。そして、彼が、仕返しとして他の人を攻撃することが我々の役目でなくいと説く必要に駆られた人たちの一人であると考えているのかどうか、そして、この場合、彼女らは彼にいかなる仕返しの口実も与えていないのだから、自分が他の人を攻撃するのは正しいと考えているのかどうか、あるいは、彼の周囲にいる弱い女性たちが、本当の諸問題のために攻撃されるべきであって、そのような偽りの架空の諸理由で攻撃されるべきでないと判断することは彼の役割ではないと考えているのかどうか、それらすべてについては、彼自身が最善の判事であると、私は言いたい。我々にとっては、彼が自分はそう行うと言ったとおりに行うことで十分である:すなわち、我々は、悪に対して悪で報いるべきでない。しかし、ある女性が復活において弱い身体を持ちたくないと言ったという理由で彼女に対して怒る男が、身体の諸々の弱さは存続するだろうと思いなしているのは明らかである。そうであれば、我々は使徒の次の言葉をどのように扱うべきなのだと、我々は尋ねたい:「それは弱さの内に蒔かれますが、力の内に復活させられるでしょう。自然本性的な身体が蒔かれますが、霊的な身体が復活させられるでしょう[2]」とある。いったいあなたは、どのような弱さが霊的な身体の内に存在すると考えるのか。それは、力の内に復活することになっているとすれば、どうしてそれが再び弱いものになるのか。もしもそれが弱いものなら、そうしてそれが力の内にあり得るのか。してみると、あの哀れな女性たちは、自分たちの身体の弱さが、来るべき世では、彼女たちを支配することはできないと言うとき、あなたより正しいのではないのか。彼女たちが、使徒の使徒の言葉にただ従っているだけなのに、どうしてあなたは彼女たちをあざ笑うのか。「この朽ちるものは、朽ちないものを身に付け、この死すべきものは不死を身に付ける[3]」とある。使徒は、死者たちから復活する身体が弱いものであるとは決して教えなかった。それとは反対に、それは力と栄光との内に復活するだろうと教えた。あなたがいま持ち出している考えは、どこから来ているのか。おそらくそれは――いまや教会にとって新しい法律として発布される勢いである――、あなたのユダヤ人たちの誰かから得られらものだろう。我々は、彼らの考えを知ることができる。実際、彼らは、復活についてそれと同じような考えを持っている。すなわち、彼らは、自分たちが復活することを信じているが、そのとき彼らは、すべての肉的な喜びと奢侈と、肉体のその他の諸々の快楽を享受するだろうと考えている。そうであれば、あなたの考える「身体的な弱さ」は、腐敗と激昂する食欲と燃えさかる肉欲に溺れた肢体以外の何を意味するだろうか。



[1] Col.1,18.

[2] 1Co.15,42-43.

[3] Cf.1Co.15,42.

 

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