あなたは、新奇な学識を好むこの人物の発見に注目してください。それは、使徒たちが教会に親交を伝えたときに思いも付かなかったものであり、肉の霊がこの人物に啓示するまでは、聖人たちの誰一人として知らなかったものである。実のところ、彼は、品格を落とさずに、それを説明することはでいないだろう。しかし私なら、それをもっと相応しく、もっと真実に表明し、彼に聞かせるだろう:「イリスとは、眠りについた人たちの初穂である[1]」。彼はまた、「死者たちから最初に復活した方[2]」である。使途が言うように、「キリストが最初である。その後、キリストに属する者たち[3]」。したがって我々は、キリストを我々の復活の疑い得ない初穂として持っているのであるから、どうして我々について疑問が起こるのだろうか。キリストが復活したときの彼の肢体、毛髪、肉、骨がどのようなものであれ、我々は同じように復活するということは、明白であるにちがいない。そのために、彼は、ご自分の復活後、弟子たちに現れて、彼らに触れれたのである。したがってキリストは、ご自身の復活を、範例――まったく明瞭あ範例であり、私に言わせるなら、手で感じ取り扱うことができる範例――として与えたのであるから、一体どんな痴れ者が、自分は、復活の扉を開いてくれ方とは異なる仕方で復活するだろうと考えるだろうか。そのことはさらに、我々の次の告白の真実さを証明してくれる:すなわち、他ならぬこの自然本性的な肉が復活するが、それは諸々の過失から清められており、その腐敗を捨て去っているということである。したがって、使徒の次の言葉は真実である:「それは、朽ちるものの内に蒔かれますが、朽ちないものの内に復活させられるでしょう。それは、恥辱の内に蒔かれますが、栄光の内に復活させられるでしょう。自然本性的な身体が蒔かれますが、霊的な身体が復活させられるでしょう[4]」。それゆえ、それは霊的な身体、栄光に満ちた身体、不滅の身体なのであるから、それは――キリストが永久の範例として提示してくださった栄光ある御姿に即して――どこからか取ってこられた肢体ではなく、まさに自分自身の肢体を与えられ備えられるであろう。それは使徒が言っている通りである:「彼は、我々の恥辱の身体を変え、ご自分の栄光の身体と同じ同じ形にしてくださる[5]」と。



[1] 1Co.15,20.

[2] Ap.1,5.

[3] 1Co.15,23.

[4] 1Co.15,42-44.

[5] Ph.3,21.

 

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