42 私は、彼が万物復興についていかなる曖昧さもなしに自分自身の見解を表明している例をあなたに示した。私は、さらにもう一つの例を挙げたい。そして、それによって、私の弁明の第一書を終えたい。それに関する彼の発言は数え切れない。私が選ぶ例は、次のように書かれている言葉にかかわっている:『彼によって、身体全体は、適切に形成され、諸部分の然るべき働きに応じてすべての関節がもたらすものを通して編み合わされ、愛における身体の建設へと身体を成長させる[1]

 『すべてのものの終わりにおいて、我々は、顔と顔を合わせて神を知り始め、キリストの充満の背丈の尺度に達するだろう[2]』。キリストが部分的にでなく全体的に我々の内に存在するようになるため、『我々は皆、彼の充満を受け取っている[3]』。そして我々は、幼児たちの諸々の初歩を捨てて、完全な人間成長するだろう。その完全な人間について、預言者は言っている:『あなたは、あの人を見なさい。彼の名は東である[4]』。洗礼者ヨハネは、『私よりも前に存在した方が私の後に来る。なぜなら彼は、私よりも前に存在したからである[5]』という言葉で、彼を告知している。そして我々は、今は、人間たちの諸々の思いの多様性によって、一つの同じ信仰において神の子を見ることはできないが、そのときには、神の子の共通の信仰と共通の再認における一致によって、体全体が――以前は分解され多くの部分に引き裂かれていたのに――結び合わされ、一つにされるだろう。その結果、一つの経綸、一つの同じ働き、一つの背丈の絶対的な完成があるだろう。それによって、体全体は均等に成長し、そのすべての部分は、それぞれの尺度に応じて、背丈の増大を得るだろう。しかし、その建て上げの過程全体――それによって教会の体はそのすべての部分において増大する――は、相互の愛によって全うされる。我々は、理性的被造物の集まり全体を、単一の理性的な動物の例によって理解することができる。そして、単一の被造物について我々が何を言おうと、それがあらゆる被造物にも当てはまるだろうと確信したい。我々は、次のことを想像してみよう:この被造物の手足や諸々の血管や肉がバラバラに引き裂かれて、骨は骨とつながらず、筋肉は筋肉にくっつかず、両目と鼻はそれぞれ別のところあり、両手はこちらに置かれ、両足はあちらに放り出されており、肢体のその他の残りも、同様に分散され分けられているとしよう。そしてそこに、医者が来たとしよう。彼は、異教徒たちの諸々の物語において語られているように、アスクレピオスの諸々の行為を模倣し、新しい姿の新しい人間ヴィルビウス[6]をよみがえらせることのできる技能を持っている。彼は、それぞれの肢体をそれ自身の場所に戻し、節々を結合し、様々な部位を並び替え、互いに接着して、もう一度、体を作らなければならない。この単一のたとえによって、我々は以上のことが分かった。しかし、もう一つの典型的な例を取り上げて同じような例証よって、我々が理解したと思う事柄を明らかにしよう。一人の子どもが成長しているとしよう。刻一刻と、彼は、我々には隠れた過程を経て、成熟を全うする方向に向かっている。彼の両手は大きくなり、両足は均等に増大している。腹部は、我々には見えないが、満たされている。両肩は、いつの間にか広くなる。そして、それぞれの部分のすべての肢体は、それぞれの背丈に従って成長する。しかしそれらは、明らかに、それら自身のためにでなく、身体のために増大する。万物の復興の時においても事態はそのようになるだろう。そのとき、真の医者イエス・キリストが、今は引き裂かれ散り散りにされた教会の体全体を健康へと回復しにやって来るだろう。各自は、その信仰と神の子の再認――再認と言われるのは、その人は初め彼を知っていたが、後で彼を知るのをやめたからである――の尺度に応じて、各自に固有の場所を受け取り、かつての自分になり始めるだろう。しかし、他の異端が考えるように、すべてが一つの背丈の内に置かれる――すなわち、すべてがみ使いたちの背丈に回復される――のではなく、あらゆる肢体がその尺度と役務に応じて完成される:たとえば、あの離反したみ使いは、本来あった自分になり始めるだろう。エデンの園から追い出された人間は、再びその庭園に連れ戻され、そこを耕すだろう。それらすべてのものは相互の愛によって互いに結び付けられ、それぞれの成員は、その仲間と共に喜び、その進歩によって喜ばされる。こうして、キリストの体という初子の教会は、使徒が別の個所で「聖なる人たちの母」と呼んだ天のエルサレムに住むだろう』。



[1] Ep.4,16:直訳している。

[2] Cf.Ep.4,13:直訳している。

[3] Cf.Jn.1,16.

[4] Cf.Za.6,12

[5] Cf.Jn.1,30.

[6] 省略

 

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