40 我々に断罪してもらいたいと彼が望んでいる事柄がさらに一つか二つある。一つはこれである:すなわち、それらの人たちは、身体は牢獄であり、魂を取り巻く鎖のごとくであるという。そして彼らは、魂は死なず、それが元々といた場所に戻ると主張する。そのことに関する彼の見解も示すために、私に諸々の引用をさせてもらいたい。それらの注解の第二書の中で、「それゆえ、イエス・キリストの囚人である私パウロは[1]」という言葉に関して、彼は次のように言っている:

『使徒は、幾つかの個所で、身体を魂の鎖と呼んでいる。なぜなら魂は、阿他亜もろ烏合の中にいるかのように閉じ込められたままである。そこで我々は、パウロが身体の諸々の拘束の内に閉じ込められている――異邦人たちへの宣教が完全に成し遂げられるために――と言うことができよう』。

さらにそれらの注解の第三書の中で、『そのために私は、諸々の鎖に繋がれた大使である[2]』という言葉に関して、彼は幾らか論じた後、あの「別の人」――それは彼自身である――の口を借りて、次のように言っている:

『別の人は次のように主張する:彼は、我々の恥辱の身体[3]と、我々を取り巻く鎖のゆえにそのように語るのであるが、その結果、我々は、知るべきことをまだ知っておらず[4]、鏡を通して謎めいて見ている[5];そして、彼が福音の諸々の神秘を開示することができるようになるのは、この鎖を投げ捨て、自分の牢獄から自由に出て行くときだけである。しかしおそらく、諸々の鎖の中にあっても、その暮らしが天の内にあり、次のように言われる人は自由であると見なされるかもしれない:『あなた方は牢獄の中にも肉の中にもおらず、霊の中にいる。もしもそうなら、神の霊があなた方の内に宿っている[6]』と。

そして、パウロの『フィレモンへの手紙』に関する注解の中で、『私とともに囚人となっているエパフラスがあなたに挨拶しています[7]』と彼が言っている個所に関して、彼は次のように言う:

『しかし、ある人たちが考えるように、おそらく、ある深淵で神秘的な見解が我々の前に提示されている――すなわち、二人の仲間は捕らえられ、縛られ、この諸々の涙の谷の中に降ろされた』と。



[1] Ep.3,1.

[2] Ep.6,20.

[3] Ph.3,21.

[4] 1Co.8,2.

[5] Cf.1Co.13,12.

[6] Rm.8,9.

[7] Phm.23.

 

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