彼はその作品の冒頭で、「あたかも彼らは、私がいなければ、自分たちだけでは異端者になり得ないかのように」と言っている。私は先ず、彼がいようがいまいが、我々が決して異端者でないと言わなければならない。次に、我々の立場が明らかになれば、他の人たちの諸々の報告が我々に投げかけた忌まわしい評判から、我々は身を守ることができるだろう。私は、既に修道院で生活していた。そこで私は、彼と他のすべての人たちが知っているように、30年程前、洗礼によって再生させられた。そして、クロマチウス[1]、ヨヴィヌス[2]、そして、エウセビウス[3]という聖人のような人たちの手によって信仰の捺印を受けた。彼らは皆、今は司教で、神の教会において多くの試練に耐え、大いに尊敬されてる。彼らの一人は、当時、誉れ高き故ヴァレリアヌスの教会の司祭だった。二人目は、当時、助祭長だった。三番目の人は、当時、助祭だったが、私とっては霊的な父であり、信仰と信仰箇条の教師であった。それらの人たちが私に次のように教えてくれた。したがって私は次のように信じている:すなわち、父と子と聖霊は唯一の神聖と唯一の実体に属している;三位は共に永遠で、不可分で、非物体的で、不可視的で、把握され得ず、ただそれ自身に対してのみ、その完全性において真実に知られている;なぜなら、「父の他に子を知る者はなく、子の他に父を知る者もいない[4]」からであり、聖霊は「神の深淵を探る[5]」方だからである。したがって、この三位は、一切の物体的な可視性を欠いている。子と聖霊が父を見るのは、父が子と聖霊を見るのと同じように、精神の目によってである。さらに、この三位の内には、父と子と聖霊という差異を除いていかなる差異もない。三位には、位格の差異と実体における一性を備えている。我々は、さらに、神の独り子――始めにこの子を通して、見えるものであれ見えないものであれ、存在するすべてのものが造られた――は、この終わりの日々に人間の身体と魂を取り、人間となり、我々の救いのために苦しまれた。そして彼は、墓に収められた他ならぬ同じ肉において、三日目に死者の内から再びよみがえった。そして彼は、まさにその同じ肉において栄光を受け、諸々の天に昇った。我々は、そこから彼が、生ける者と死せる者を裁くためにやってくることを待望している。しかし彼は、我々もまた同じ仕方で復活するという希望を与えてくれたことを、我々は告白する。したがって我々は、次のことを信じている:我々の復活が、我らの主ご自身の死者からの復活と同様に、同じ様式と過程をたどり、形を取る;我々が受け取る身体は、幻影や希薄な蒸気ではなく――或る人たちが我々がそう言っていると口悪く主張している――、現に我々がその内に生き、その内に死ぬところのこの身体である。実際、どうして我々は、肉の復活を真実に信じることができるだろうか――肉の本性そのものが、その肉において、真に実体的に存続しないとすれば。それゆえ我々は、我々がその内に生きているところのこの現実的かつ実体的な肉の復活を、いかなる曖昧さもなしに信じている。



[1] 省略

[2] 省略。

[3] 省略。

[4] Mt.11,27.

[5] 1Co.2,10.

 

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