38 『ある人たちが言ういは』と彼が使っている言い回しについては、私が先ほど述べたことによって明らかにされたと、私は思う:すなわち、彼が『ある人たちが言う』あるいは『別の人が言う』と言って、(彼らによって)持ち込まれた諸々の見解を反駁しないとき、この「ある人」や「別の人」は彼自身に他ならない。それは、私が指摘した彼の数多くの文言――それらの文言において彼は、そのような人物を持ち込むことなしに、それらの見解に一致する諸々の意見を述べている――によって証明される。そこで我々は、それらの一つひとつにおいて、彼が「別の人」とは異なる見解を述べているか否かを考察しなければならない。たとえば、諸々の星と天の中にある他の諸々のものは、理性的な存在者であり、罪を犯し得る。我々は、そのことに関する彼自身の見解が何であるかを見なければならない。『彼は、自分のすべての敵を自分の諸々の足の下に置くまで君臨しなければならない[1]』に関して、この書物の中で述べられた彼の註釈に、あなたは立ち戻るべきである[2]。するとあなたは、次の言葉を見出すだろう:『罪のない人は誰もおらず、「諸々の星でさえその見姿は清くなく[3]」、あらゆる被造物が創造主の到来におののいているということが分かるだろう。それゆえ、地上にある諸々のものばかりでなく、天にある諸々のものも、我々の救い主の十字架によって清められた』。

さらに、この恥辱の身体や死の身体の中にいるがゆえに、人間たちは激怒の子らと呼ばれるという見解に関して、彼は、「我々は激怒の子らであり、他の人たちも同様である[4]」という言葉を注解して次のように述べている:

『我々は、次のように考えなければならない:人間たちは本性的に激怒の子らである――この「恥辱の身体[5]」と「死の身体[6]」のゆえに、「人間の心は若いときから邪悪に傾いている[7]」がゆえに』。

さらに、先に魂の創造があり、後に身体の形成があるという見解に関して、彼は次のように言う:

『そして彼が「私たちたちは彼の造形物である」と言っているのでなく、「私たちは彼の創造物である[8]」と言っていることに、あなたは注目すべきである。なぜなら、「形成」は、大地の粘土からの人間の起源を暗示しており、「創造」は、人間の起源が神の像と似姿とに即していることを暗示しているからである。そしてその区別は、詩篇第188番によって確証される:『あなたの諸々の手は私を創造し、私を形成した[9]』。「創造」が最初にあり、「形成」がその後に来る』。

 我々に断罪してもらいたいと彼が願っている諸々の事柄は、他にあるのか。彼は、以上の諸々の事柄を述べさえすればよい。そうすれば我々は、彼自身の諸々の書から、いやむしろ、彼自身の心の深みからそれらを引用することができる。たとえば我々は、人間の諸々の魂の本性とみ使いたちの本性は同じであるという主張を有害な主張として断罪しなければならない。しかし我々は、そのことに関する彼自身の見解を、彼が自分の信仰告白と信仰規則との典型を含むものとして特に我々に提示する諸々の書物の中に述べられている通りに見ることにしよう。『彼は来て、遠く離れていた人たちと、近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えた[10]』という語句に、あなたは向かうべきである。それに関する彼の註釈は、先ず、ユダヤ人たちと異邦人たちとに関する諸々の言葉を詳しく扱った。次に彼はこう言う:『それは、ブルガタ訳[11]に即して言われた。しかし、使徒がキリストについて言っている言葉――『地にいる者たちのためと、天にいる者たちのために、ご自分の十字架の血を通して平和を造ること』と、同じ個所で言われているその他のこと――を、もしも人が読むなら、霊的なイスラエルと呼ばれる我々が「遠くにいた人たち」によって意図されているのは、霊的なイスラエルと呼ばれる我々であり、単に「肉によるイスラエル」と呼ばれるユダヤ人たちが「近くにいた人たち」であると、その人は考えないだろう。その人は、その語句の意味全体を修正し、それをみ使いたちと天の諸々の力と人間の諸々の魂に適用するだろう。そして、キリストは、ご自分の血によって、以前は不和であった地にある諸々のものと天にある諸々のものを一つにし、諸々の山の上で病弱に育った羊たちを他のものたちの許に連れ戻し、最後の貨幣を、前から金庫にあったものたちの中に戻したと、彼は解釈するだろう』。



[1] 1Co.15,25.

[2] Cf.Com.Ep.1,22.

[3] Cf.Jb.25,5.

[4] Ep.2,3.

[5] Ph.3,21.

[6] Rm.7,24.

[7] Gn.8,21.

[8] Ep.2,10.

[9] Ps.119,73.

[10] Ep.2,17.

[11] ヒエロニムス訳以前のラテン語訳。

 

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