30 しかし、我々は、それらの注解の研究を進めることにしよう。少数の特定の事柄について長々と考えすぎると、もっと多くの事柄を取り上げることを妨げられる。同じ書物の同じ段落の中に、「それは、最後に私たち――キリストに前もって希望を置いた私たち――が彼の栄光を賛美するようになるためです[1]」という言葉がある。彼の註釈は次の通りである:

 『単に「キリストを信頼した私たち」と言われただけで、ギリシア語の「プロエールピコテス[2]」にある「前もって」という接頭辞がなかったら、その意味はまったく明瞭である。すなわち、キリストに希望を置いた人たちは、当然の定めとして選ばれたのであり、万物をご自分の意志の望むままに秩序づけた方の意図に従って予定されていたのであると。ところが、「前もって」という接頭辞の付加は、次の一節の説明に必要であると、前述の個所で我々が論じた同じ考え方に従って説明するように我々を駆り立てる。その一節とは次である:「彼は、キリストにおいて、天の諸々の場所の中で、あらゆる霊的な祝福でもって我々を祝福した。あたかも彼が、我々を彼の前で聖にして傷のないものにするために、世の設置の前に、彼の内で我々を選んだかのように[3]」。すなわち神は、前もって、天において、すべての霊的な祝福でもって我々を祝福した。そして神は、世が形作られる前に我々を選んだ。こうして我々は、「前もって」――すなわち、我々が天において選ばれ、予定され、祝福されたとき[4]――キリストに希望を置いたのである』。



[1] Ep.1,12.

[2] prohlpiko,tej)

[3] Ep.1,3-4.

[4] Cf.Ep.1,11.

 

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