29 しろ、あなたが断罪するといっている人たちの誰かによってにしろ、それ以上に明瞭なことが何か考えられたり、言われたりするだろうか――それとはすなわち、この世の中に生れてきた人たちの間にある諸々の状態の不平等は、神の正義に帰されるということである。あなたは次のように言う:それぞれの魂の救いや滅びの原因は、それ自身の内に、すなわち、それがあの新しいエルサレム――それは我々すべての母――における以前の生活において示した諸々の情念と諸々の態度の内に見出されると。『しかし、このことも』――と、彼は疑いもなく言うだろう――『私自身によって言われたものでない。私はそれを、別の人の見解として述べた。さらに私は、「彼らはそのきっかけをつかんでいる」という表現を使った』と。もちろん私は、あなたが別の人について語っていると思わせようとしているのを否定しない。しかしあなたは、あなたが話しているその人があなたに同意しており、一致していることを否定しない。あなたは、彼があなたに反対していたり、敵対していると言わなかった。実際、あなたが、あなたに本当に対立する人に関して「別の人」という言い方を使うとき、あなたは、その人の諸々の言葉を幾らか記載した後、直ちにそれらを論駁し覆すのが常である。あなたは、マルキオンやバレンチノス、アリウスその他の場合に、それを行った。ところが、この場合のように、あなたは「別の人」という言い方を使いながら、もっとも強い諸々の断言と、聖書からの非常に多くの証言とによって補強しつつ彼の諸々の言葉を述べるとき、理解するのが極めて遅く、あなたがモグラ扱いする我々にも次のことは明らかではないのか:すなわち、あなたが記載しても論駁しない彼は、あなたに他ならないこと、そして、我々はここで、修辞学者たちが自分たち自身の諸々の見解を述べるために他人の位格を利用する彼らによく知られた表現技法に出会っていること。そのような表現技法は、修辞学者たちが特定の人々が憤慨するのを恐れるとき、あるいは、自分たちに対する敵意が生じるのを避けようとするとき、使われる。しかし、もしもあなたが、それらの発言の張本人として「別の人」を持ち出すことによって非難を回避したと思うなら、あなたが告発する彼は、どれだけその非難から自由になっていることか。なぜなら彼の振る舞い方は、はるかに慎重だからである。彼は、単に『これは他の人たちが言っていることである』とか、『或る人たちはそのように考えている』と言うだけでは満足しない。彼は、さらに次のように言う:『そのこと、あるいは、あのことついて、私は決めない。私は提案するだけである』。そして、『もしもそれがもっと確からしいと人に思われるなら、その人は他を排して、それを保持すべきである』と。あなたも知っているとおり、彼は自分の諸々の発言に非常に慎重だった。それなのにあなたは、審議し断罪するために彼を呼び出す。あなたは、「別の人」について語ることで何を逃れたと考える。しかし、あなたが彼を断罪する諸々の事柄は、まさに、あなたが従い、彼にならって採用している事柄に他ならない。

 

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