28 しかし、この特異な段落を彼が失念していた可能性もある――彼がそれらの書物を完全に明瞭になるように改訂し、自分の信仰を表明するものとして、何よりも先ずそれらの本を上程しようとしたにもかかわらず。そこで、他の諸々の個所で、彼の諸々の見解がどうなっているかを、我々は見てみよう。同じ書物の中で、彼は、「ご自分の意志のよき意向に従って、ご自分の栄光の賛美のために」と書かれている個所に来たとき、特に次のように述べている:

『ここで或る人たちは、自分たちの独特な諸見解を持ち込むためのきっかけをつかんでいる。すなわち彼らは、世界の設置の前に人間たちの諸々の魂が、天のエルサレムの中に、み使いたちや、他のすべての天的な諸力とともに住んでいたと信じている。彼らは、次のことを考えている:すなわち、神のよき意向と神の栄光と恩恵との賛美に従えば、或る人たちが貧しさや野蛮や奴隷状態や弱さの内に生れ、他の人たちが裕福なローマ市民として、自由と強壮な健康の内に生れること、或る人たちは低い地位で生れ、或る人たちは地位で生れること、人々が異なる国々の中に、世界の異なる諸々の場所の中で生れることを説明することは不可能である――何らかの先行する諸原因があって、それによって各人は各自の功績に応じて各自の持ち分を割り当てられると仮定しなければ。さらに彼らは、「陶工は、同じ粘土の塊からある物は名誉のための器、ある物は不名誉のための器を作る権限を持たないのか[1]」という『ローマの人たちへの手紙』の一節――或る人たちは彼らがその一節を理解していると考えているが、実際は理解していない――を、自分たちの見解を指示するものと見なしている。実に、彼らは次のように主張する:善く生活することと悪しく生活すること、勤勉と自堕落との違いは、来るべき神の裁きを我々が信じていなければ、ほとんど取るに足らないものとなる。それと同様に、人間たちが生れる諸状態の違いは、魂の以前の荒廃の諸結果であるとしなければ、神の正義を損なうことになろう。彼らが言うには、もしも我々がその見解を受け入れなければ、神がある人たちを世の設置の前に、聖にして汚れなき者とし、イエス・キリストを通して養子縁組にさせるために選んだこと、そして神が他の人たちをきわめて低い地位に永劫の刑罰に指定したことは、「神のよき意向」にも「彼の栄光と恩恵とへの賛美のため」になり得ない。そして神は、ヤコブを、彼が母胎から出る前に愛すことも、エサウを、彼が嫌悪に値することを行う前に憎むことはできなかっただろう――もしも何か先行する諸原因がないとすれば。それらの原因は、もしも我々がそれらを知るならば、神が正しいことを証明するだろう』。



[1] Rm.9,21.

 

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