以上の言葉は――彼らが言うには――諸々の魂が世界の中に「投げ降ろされる」前の諸々の魂の状態に関係している。それを読んだ読者は、次のように言うかもしれない:《先生、そんなこと――すなわち、人間たちの諸々の魂は、世界の中に「投げ降ろされる」以前に存在していたと言うそれらの人たちが誰なのかを、あなたは我々に教えているように見えますが、実際には我々に教えていません》。彼は、こう答えるだろう:《あなた方は目が見えず、モグラ同然であると、私が言って正しくなかったのか。私は、彼らが神は正しいことを主張する人たちであると前もって言わなかったか――それによってあなた方は、もしも分別があるならば、私が私自身を意図としていることを理解するだろう。実際、私は、神の義を正当化する――良識を僅かなりとも持っている人なら皆、そうしなければならない――人たちの中に私自身を含めないような異端者ではない》と。すると彼ら(読者)は答えるだろう:《では、先生、それらの人たちが、そして彼らに含まれるあなたが言っていることは何か、我々に教えてください。我々は、あなたが次のように言ったのを理解しています:諸々の魂が世界の中に「投げ降ろされる」前に、そして、諸々の魂から構成される世界がその居住者たちとともに深淵の中に「投げ降ろされる」前に、神は、聖にして汚れなきパウロと彼に類する人たちとを選択したことを。しかし、もしも人々が選択されるなら、彼らは、多くの人たちの中から選択される。また、選択が行われる多くの人たちは(選ばれる人たち)より悪い状態になければならない。しかしながら、バビロン捕囚において、ネブカドネツァルが民をカルデアに運び去っとき、エゼキエルとダニエルと三童子とハガイとゼカリヤとが彼らとともに派遣された。しかしそれは、彼らが捕虜になるのに値したからではなく、運び去られた人たちの慰めになるためである。それと同様に、あの世界の「投げ降ろし」において、世界が存在する以前に神によって選択された人たちは、罪深い諸々の魂たちを手引きし訓練するために派遣された。それは、それらの魂が、そこから転落したところの元いた場所に戻るようにするためである。それは、詩篇第八十九番の諸々の言葉によって示されているものである:「主よ、あなたは、山々が立てられ、大地や世界がつくられる前に、子々孫々において、私たちの避け所でした[6]」。それはすなわち、世界がつくられる前に、すべてのものの生成の端緒がつくられる前に、神がご自分の聖人たちの避け所であったということである》。
[1] 前節で説明されたギリシア語カタベブレーケナイに対応する。
[2] Ps.120,5.
[3] Rm.7,24.
[4] Ph.1,23.
[5] Ps.114,67:「私は、低められる(卑しめあられる)前に、罪を犯した」という意味。
[6] Ps.90,1-2.