25 次に我々は、彼がさらに神の裁きについて書いていることを検討しよう。なぜならそれも、信仰に関わる事柄だからである。我々は、次のことを見出すだろう:彼が肉の復活に関する信仰を変えたのと同様に、神の裁きについても(それを)変更したことを。『エフェソの人たちへのパウロの手紙』注解の第一書の中で、彼は使徒の次の段落を扱っている。使徒は言う:『彼は、世の設置の前に、ご自身の内で私たちを選んだ。それは、私たちが彼のみ前で聖にして傷のない者となるためである[1]』。それについて彼は次のように言っている:

 『世の設置という言葉のギリシア語はカタボレース・コスムー[2]である。カタボレーは、我々が設置[3]という言葉によって理解している事柄と同じもの意味しない。したがって我々は、逐語訳をしない。それはここでは不可能である――我々の原語の貧しさと意味の真新しさのため;そして誰かが言ったように、ギリシア人たちは我々よりも長い討論と幸福な言葉を持っているためである。我々はその言葉の意味を一種の迂言法によって説明しなければならない。カタボレーが正確に使われるのは、何かが投げ降ろされ、より高い場所からより低い場所に投げられるとき、あるいは、何かがその端緒につくときである。それゆえ、将来の諸々の家の最初の諸々の基礎を置く人たちは、カタベブレーケナイ[4]、すなわち最初の諸々の基礎を投げ降ろしたと言われる。パウロはそのような意味でその言葉を使い、神がすべてのものを無から形成したことを示そうとした。すなわち彼は、創造も建築も制作も神に帰さず、カタボレーすなわち基礎の端緒を神に帰した。彼は、次のことを示そうとした:マニ教とたちや他の異端者たちが考えるように――彼らは製作者と材料から始めている――、被造物に先立つ他の何かがあって、それから被造物が形成されたのでなく、すべてのものは無から造られたことを。他方、彼のみ前で、すなわち神のみ前で、聖にして傷のない者となるための我々の選びは、世の制作に先立つものであるが、それは神の予知に属している。神にとって未来のすべての事柄は、あたかも既に行われたかのように存在する。すべての事柄は、生起する以前に知られている――パウロが彼の母の胎内で予定されていたように;エレミアがその誕生の前に、聖とされ、選ばれ、確認され、キリストの予型として、諸侯の民の預言者として遣わされたように。



[1] Cf.Ep.1,4.

[2] ギリシア語(katabolh/j ko,smou)を音訳した。意味は、訳文中で解説されている。

[3] 取りあえずラテン語(fundatio)を「設置」と訳した。「基礎づける」「基礎を置く」という意味。

[4] ギリシア語(katabeblhke,nai)を音訳した。意味は、訳文中で解説されている。

 

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