23 しかし我々は、彼が自分の他のすべての作品に対して表明した断罪と放棄から除外する二つの注解に移ることにしよう。我々は、彼がそれらの注解においてどれほど控えめに、そしてどれほど自制して振る舞っているかを見るだろう。あなたは次のことに留意してもらいたい:実に彼はそれらの注解によってのみ、彼が信仰において健全であり、オリゲネスと全面的に反対していることを証明しようと決心した。そこで、それらの二著――彼のすべての書物の中でそれだけが彼にとって満足のいくものになっている――、すなわち、『エフェソの人たちへのパウロの手紙』の注解の三書と、『伝道の書』についての一書(私は一書と考えている)を証拠として検討することにしよう。差し当たり、我々は、前出の注解、すなわち、『エフェソの人たちへの手紙』の注解を調べることにしよう。ここにおいてもあなたは、彼の諸々の言葉の中に、いわば彼の仲間であり、同僚であり、彼の言葉を使えば、兄弟として「共に秘儀に与る者[1]」の影響を認めるべきである。何よりも先ず、あの愚かで哀れな女たち――彼女らは、復活後は天使のようになるのだから、復活後はもろい身体を持たないだろうと言っているので、彼は騒ぎ立てている――について、彼が何を言うか、我々は聞くことにしよう。エフェソの人たちへのパウロの手紙に関する彼の注解の第三書において、「自分自身の妻を愛する者は、自分を愛する。なぜなら自分自身の肉を嫌った者はいまだかつて誰もいないからです[2]」と言われている段落について幾らか述べた後で、彼は次のように言う:

 我々、男たちは、我々の妻を大切にしよう。そして我々の魂たちは、我々の身体を大切にしよう――妻たちが男に変わり、諸々の身体が諸々の霊に変わるために、そして性の違いがまったくなくなるために、むしろ、天使たちの間に男も女もないように、天使に似たものとなる我々も、既にここにおいて、天において約束されているものになり始めるために。



[1] 原語はギリシア語(summu,sthj)。共に所属する団体の奥義を知る者という意味であろう。

[2] Ep.5,28.

 

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