22 しかし今、私は形勢を一変させて、私の批判者に質問したい:偉大な指導者よ、私に言ってくれ。いち著作家に何らかの非難すべきことがあるとしても、その非難はその諸々の作品の読者や翻訳者に向けられるのか。そうならないでほしいが、確かにないと、彼は言うだろう。なぜあなたは、謎めいた諸々の質問で私を陥れようとするのか。私自身が、オリゲネスの読者であり翻訳者でないのか。私の諸々の翻訳を読んで、それらの訳の中に彼に独特の諸々の教えの一つでも――特に私が今、断罪値すると記した諸々の教えの一つでも――、あなたは見つけることができるかどうか考えなさい。急所を突かれると、彼は言う:

『そのような諸々の教えのわずかの暗示でも、私にとってどれほど嫌なものであったかを、あなたが完全に見たいと望むなら、エフェソの人たちへのパウロの手紙に関する私の諸々の注解を読んでください。私が、彼の諸々の作品を読み翻訳することによって、彼についてどのような見解を抱いたかを、あなたは、私がそこで書いたことから知るでしょう[1]』。

私は尋ねる:我々はこの男を偉大で真摯な教師として受け入れることができるのか。彼は、自分の諸々の作品の一つではオリゲネスを称え、他の作品では彼を断罪している。彼は、自分の諸々の序文の中で、オリゲネスを使徒たちに次ぐ教師と呼んだが、今は彼を異端者と呼んでいる。いったいどんな異端者が、かつて、諸教会の教師と呼ばれただろうか。彼は次のように答えるだろう:『そのことについては私が間違っているのは本当である。しかしなぜあなたは、この遺憾な序文[2]を私に対して持ち出しつづけるのか。私の諸々の注解、特に私が指定した諸々の注解を読んでください』と。これで満足だと考える人がいるのか。彼は、非常に多くの書物を著した。そして、それらのほとんどすべてで、彼は、オリゲネスのための数々の賛辞を諸々の天にまで吹き鳴らしている。それらの書物は、幾年にもわたって多くの人に読まれてきたし、また読まれている。それらの読者たちの多くは、彼の諸見解を受け入れた後、この世を去り、主のみ前にいる。彼らは、オリゲネスについて、この男の諸々の叙述から学んだ見解を抱いている。そして彼らは、この男の保証に従って、使徒たちに次ぐ指導者としての彼にかしこで会えるだろうという希望の内に亡くなった。しかし、もしも我々が彼の現在の諸々の著作を信頼するなら、彼らは、有罪の状態の中にいる彼、不信心な異端者たちと異教徒たちの間にいる彼に出会ったことになる。この男は、いまや、かつての野心から踝を返して、『約三十年間、私は、私の数々の研究と私の数々の著作の中で、オリゲネスを使徒たちと同等な者として賞賛してきた。しかしいま、私は、彼を異端者だと宣言する』と言うのか。これは一体どういうことだ。彼は、それまで読んだことの決してない彼の幾つかの新しい書物に出会ったのか。断じてそうではない。オリゲネスの同じ諸々の発言から、彼はかつてオリゲネスを使徒と呼んだが、今は異端者と呼んでいるのか。しかし、そのようなことは、あり得ない。次のうちのいずれかである:彼は、彼のかつての諸々の賞賛において正しかったが、彼の判断はそれ以来、ある種の行き過ぎた熱病によって歪められてしまった。その場合には、彼に留意する必要はない。あるいは、彼の圧手の諸々の賞賛は間違っていた。そして彼は今、自分自身を断罪している。その場合には、彼は、他の人たちがどのような裁きを自分に下すと考えるのか――使徒の諸々の言葉に従えば[3]、彼が自分自身に有罪の判決を下すとき。

 しかし、『その判決は棄却された。なぜなら私は悔い改めたからだ』と彼は言う。そう慌てるな。実に我々は皆、間違える、特に言葉において。そして我々は皆、我々自身の諸々の誤りを悔い改めるだろう。しかし、そもそも人は、贖罪すること、他の人たちを告発すること、彼らを裁き断罪すること、それらを同時にできるのか。それはまるで、売春を一夜ないし二夜の間、慎んだある売春婦が、貞潔のための諸々の法律を作成するように求められていると感じて、それらの法律を制定し、自分と同じような生活を送って死んだと彼女が疑うすべての女たちの諸々の墓碑をなぎ倒しにかかるようなものである。あなたは、かつて異端者だったことに対して贖罪する。それは正しい。しかし、そのことが、異端者であったことが決してない私とどのような関係にあるのか。あなたは、あなたの誤りについて贖罪していることにおいて正しい。しかし、贖罪の真の方法は、他の人たちを非難することでなく、憐れみを求めること、断罪することでなく、泣くことである。実際、改悛者が自分自身のための免罪の布告を出すとき、一体どのような誠実さがその改悛にあり得るのか。悪口を言ったことを後悔する人は、再び悪口を言うことによって自分の傷を癒すのでなく、沈黙することによって自分の傷を癒す。実際、次のように書かれている:『あなたは罪を犯した。謹慎しなさい[4]』と。しかしいま、あなたは先ず自分自身を犯罪者にする。次にあなたはあなた自身をあなたの罪から赦免する。そしてあなたは直ちに、犯罪者から裁判官へとあなた自身を変える。我々を嘲笑するあなたにとって、そのことは困ったことにはならないだろう。しかしあなたによって苦しむ我々にとって、そのことは迷惑である。



[1] Hieronymus, Ep.84, c2(ad Pammachius and Oceanus).

[2] ヒエロニムスがオリゲネスの『雅歌講話』のラテン語訳に付けた序文。彼は、その冒頭で、オリゲネスはその注解によってあらゆる人を凌駕したばかりでなく、自分自身をも凌駕したと言って、オリゲネスを絶賛している

[3] Cf.1Co.11,29.

[4] Cf.Jn.8,11.

 

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