20 私は次のことを覚えている:それらの人たちの一人が、この段落を改竄したとして責められたとき、その段落はギリシア語でそうなっていて、私がそれをラテン語で意図的に変更したとのだと、私に答えた。私はそれを、深刻な非難とは見なさい。なぜなら、彼らの言うことは相変わらず真実でないが、(その段落の)諸々の言葉がギリシア語でそうなっていたが、私がそれらをラテン語で変更したと想定しても、そのことは、私が私の序文で私が行なうと言っていたことに他ならない。もしも私が、ギリシア語では人々を躓かせるもとの考えられる表現をラテン語ではより適切なもとのするするために、そのことを行ったとすれば、私は、私が表明した目的と計画に従っていたに振る舞ったにちがいない。しかし、私は、私の中傷者たちに、あなた方は私の仕事のラテン語の諸々の写しの中にそれらの言葉を決して見出さなかったと言いたい。どこからそれは、彼が読んでいる諸々の頁の中に入ってきたのか。翻訳者である私は、それをそのように書かなかった。それらの言葉はどこから来たのか。あなたはそのような諸々の言葉に相当するものを私の中にまったく見出さなかったのに、それらの言葉を私の非難の口実にするのである。私は、あなたの捏造の数々によって非難されなければならないのか。私は目下の事柄を可能な限り平明にしよう。私が翻訳した作品は四書ある。それらの書物の中で、三位に関する諸々の議論は、あちこちに散在し、ほとんどすべての頁にある。人は、それらの書をすべて読んで、私の翻訳のいったいどの段落に、彼らが然々の章の中にあるとして中傷的に取り上げる三位についての見解があるのか言うべきである。もしもそのような見解が見出されるなら、その章は、彼らが主張するような意味で作成されていると、人々は信じるだろう。しかし、もしもそれらの書物の全体の中に、三位の諸々の位格のそのような違いがまったく存在しないとして、ある批判者が、たった一つの段落に基づいて、その作者が、彼の作品の無数の段落で戦っている異端を支持していると判断するな、その批判者は狂人か愚か者である。しかし、彼に関心をつ持つ人に真相を明らかにするには、彼を取り巻く諸々の状況それ自体で十分である。もしもその人が、私の諸々の頁に問題の段落を本当に見出し、彼の読んでいることに難しさを感じたなら、彼は当然のことながらその諸々の文書を私の許に送り、説明を求めただろう。なぜなら、あなたもよくご存知の通り、我々は、ローマで、隣人として生活しているからである。あの時まで我々は、しばしば顔を合わせた。友人としてたがいい挨拶し、祈りをともにした。したがって彼は、異論があるように彼には思われる諸々の個所について私と話し合っただろう。彼は、私がどのようにそれらを翻訳したか、ギリシア語ではそれらはどのようにあったかを私に尋ねただろう。

 

次へ