しかしながら私には、正義のために、応答する必然性のようなものが生じた。なぜなら、私の聞くところによると、問題になっている事柄について真実の発言が表明されなければ、彼の書いたものによって多くの人が動転しかねないからである。そこで私は、私の決意と誓いに反して、応答するように強いられた。それは、沈黙を守ることによって、私があの非難が真実であることを認めていると思われないようにするためである。実際のところ、大抵の場合、私たちの主による沈黙の実例にならい、それによって非難を撃退することは、キリスト者の栄光である。しかし、この信仰の諸問題においてこの行程を辿ることは、無数の躓きを生じさせる。もちろん、彼はその誹謗の始めに、数々の人物の名を挙げず、問題になっている諸々の事柄と、彼自身になされた数々の非難とについてのみ応答すると約束していた。しかし、そのいずれに関する彼の約束も誤りだった。というのは、いかなる非難もなされてないのに、どうして彼は非難に応えることができるだろうか。また、彼が、問題になっている諸々の書物の翻訳者を、その誹謗の最初から最後に至るまで攻撃し引き裂くことを決して止めていないとすれば、どうして彼は、数々の人物の名を挙げていないと言われるだろうか。私は、一切の衒った言い回しを避けるつもりであり、いわんやそれを意図するつもりもないが、さらに、神の目には忌まわしい偽善に満ちた数々の逃げ口上を避けるつもりである。私の言葉は粗野で、その文体は流麗でもない。しかしそれにもかかわらず、私は、応答する。私は、私の読者の方々が、私の技量の欠如を寛恕してくださると信じており、その期待は空しく終わらないだろう。なぜなら私の目的は、他の人たちを楽しませることでなく、私に向けられた非難の数々を払拭することに努力することだからである。どうか私の中で輝き出すものが、文体ではなく真理でありますように。

 

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